Re:Friend
※色々捏造。\の四年後くらいを想定


 夜にもなれば冷え込む時期だとは思っていたが、星々が隠れてしまった灰色の空から雪がちらつき始めたのを見て、思わず苦笑する。
「もうそんな季節になったんだな」
 立場上、ロムンを流れ行く季節を意識していないわけでは勿論ない。ただ、一年経つのがあまりにも早すぎて、思わずその一言が零れ落ちたのだ。
 時計台を見ると、分針は待ち合わせに指定した時間よりやや前を指している。
「……あと少しか」
 吐き出す息は白く、やがて空中で霧散した。巻いていたマフラーに降りてきた雪に触れると、それはふわりと溶けてゆく。
 そのまま、待ち合わせ場所に指定した路地から、大通りの様子を観察した。行き交う人々は早足で、時折空を見上げては小さく震え、再び歩き出す。見ているだけであたたかくなるような格好をした子どもの手を繋いで歩く母親、雪の中ではしゃぐ兄弟、おそらく作りたての料理を抱えて誰かを待つ女性、寒さに負けず焼きたてのパンを売る商人――城に閉じこもっていたら直接見る事のない、或いは知る事のないものだった。
 街を自分の目で見て、自分の足で歩く。側近に危険だと指摘された事もあったが、どうにか言いくるめ、こうして一人で街に出て行くようになったのは、四年ほど前からだった。
 見ている範囲は、狭いかもしれない。けれどロムンを護り、その地に生きる民を導く使命を持つ身として、決して無意味な事ではない。そう思っていた。
「時間通りだね」
 壁に背を預け、時計台から路地の奥の暗闇へと彼が視線を動かす。ゆっくりと近付いてくる一つの気配は、一メライほど先で立ち止まった。
 薄暗い中でも分かる赤毛。雲が僅かに動いたのか、少し月光が差し込んだ中、彼――アドルは穏やかに微笑んだ。
「こんばんは……ですね。えっと……」
 どこかぎこちない敬語。アドルの瞳の中に、迷いのような色が差す。彼が言葉を詰まらせた理由は、すぐに察しがついた。
「っと――僕の事はマリウス、でいいよ。君さえ良ければ、だけど。敬語も使わなくていい」
 おそらく例の件≠踏まえると、理由はそれだけではないのだろう。そう思いながらも、今はその話をする時ではない、と蓋をした。
「……。分かった、それなら」
 数秒逡巡するような様子を見せた後、アドルはあっさりと敬語をなくしてくれた。それに心底ほっとしてしまったのは、気が付かなかった事にしておいた。
 雲が流れて月光が遮られ、雪が更にちらつくようになる。立ち話をするには、この場所は寒すぎるだろう。
「ついてきてくれ。このまま案内するよ」


 ◆


 石造りの階段を上がり、暗い路地を通り抜け、夜風に揺られる看板の下を通る。あちこちに飾り付けられている草花には、薄らと雪が積もり始めていた。
 大通りには数え切れないほどの人が居るというのに、数本裏の道へ入ってしまうと、誰ともすれ違う事はない。常に気配を探ってはいるが、誰かが追ってきている様子もない。しんとした静けさがどこまでも広がっているが、今は心地良いとさえ思えた。
 アドルと合流してから数分、会話を交わす事もなく歩き続けて、辿り着いたのは入り組んだ街区の一角にひっそりと佇む一軒の家だ。
「鍵。君に一つ渡しておくよ」
「ありがとう」
 小さな鈴を付けた鍵をアドルに手渡してから、もう一つを鍵穴に差し込む。ここ数ヶ月使用していなかったが、蝶番が軋む事もなく、静かに扉が開いた。
「悪いね、こんな場所しか用意出来なくて。城に部屋があれば良かったんだが」
 ある事情でしばらくロムン帝国の首都に留まる事になったアドルとその相方、ドギの為に貸し出す事にした場所。この時期は宿屋の料金が高いから――という理由でこちらから提案した事だったが、それは建前だ。
『あの冒険家は指名手配されていた男では?』
『いくら陛下の許しがあるとはいえ……』
 アドルとドギを謁見という形で招いた後の、城内の様子は概ね予想通りではあった。指名手配を解除しても、アドルをよく思わない者も少なからず存在する。艦隊の件や、バルドゥークでの騒動を断片的に知っており、危険視する者もだ。
 尾鰭のついた噂は広まり続け、根付いたものは簡単には引き抜けない。冒険家アドル・クリスティン――彼が得体の知れない男、という認識は、そう容易くは覆せないのだろう。
『リンドハイム、これをアドル達に渡してきてくれないか』
『承知しました。……城の中は、アドル君達にとって居心地が悪そうですからな。それに、あの場所ならば落ち着いて話も出来るでしょう』
『はは、僕の考えは筒抜けか。よろしく頼むよ』
 数時間前の、リンドハイムとのやり取りが過ぎる。建前の裏側の本音――彼には見抜かれたようだが、まったく悪い気はしない。寧ろ、それを汲んでくれた事には感謝するべきなのだろう。
 彼にはグリアの総督を任せていたが、一時的に戻ってくるよう事前に頼んでいた。街中で偶然、アドル達がロムン首都に向かっている、という話を耳にしたが故の事だったが、どうやらその判断は正しかったようだ。
 どちらにせよ、グリアの――特にバルドゥークの近況について直接話をしたいと思っていたから、ついでのような形にはなってしまったが。
「十分だよ。それに、隠れ家みたいで良いと思うな」
 これくらいの広さが丁度良い、とアドルは言う。今までの冒険の中で、こういったところを拠点にして活動した事もあるのだろう。どこか懐かしむような様子だ。
「隠れ家……隠れ家か。うん、間違っていないかもしれないな」
 自分でそう思った事はなかったが、良い響きだな、と素直に思ってしまった。
「と、いうと……」
「一人で市井を見て回る時の、ちょっとした拠点として使う事があってね。各街区の中心あたりにあるから、どこへでも行きやすいんだ」
「君一人で街へ出るのかい?」
「四年ほど前からなんだ。それまでの僕は、戴冠以降城からは滅多に出なかったけど……ある日、ふと外を自分の目で見たくなってね。それからどうにか周囲を説得して、公務の合間に時間を取って、時々街に出る事にしているんだ」
 合間、とは言ったが、時間に余裕がある事は稀だ。一日の時間が倍あればいいのに、と思った事は少なくはない。
 ロムンの民から寄せられた意見書や手紙は自分の目で読むべきだと思い、一度部下に確認してもらったものはすべてこちらへ届けるよう指示しているし、謁見の申し込みが途切れる事は少なく、視察に出なければならない日もある。
 時間は空けるのではなく作るものだ、と戴冠前に何かの本で読んだ。それを意識して行動しているが、時の流れはあまりにも早すぎる。一時間も、一日も、一年も、あっという間に過ぎ去ってしまうのだ。
「唐突だったんだね」
「自分でもそう思うよ」
 鍵をかけて、とりあえず座るようにアドルに促す。ランタンに灯った光がぼんやりと室内を照らし出して、あたたかな空気を作り出す。
 事前に買っておいたアルコールの含まれていないサングリアと、ちょっとしたつまみの入った袋をテーブルに出す。開封するのは、買い出し中だというドギが到着してからになるが。
「四年前、か……」
 サングリアの入った瓶の中で、ゆらゆらと果物が揺れている。
「バルドゥークでの、君の話を聞いた年だね」
「!」
 テーブルを挟んで向かい合ったアドルは、その言葉と共に何を思い返したのか。弾き出すのに五秒もかからなかったが、それが正解かどうかは分からない。
 頭の中で積み重なっていた本は、数秒経たないうちに、ある地名とそこで起こった出来事の頁を開いた。
「……。さっきの話だけど――あの日、屋上庭園で僕は剣の稽古をしていたんだ。そうしたら、何故か突然、体の中心辺りが少し痛んでね」
「それ、は……」
「すぐになくなったし稽古に支障はなかったけど、念の為、という事で一旦中断して、僕は自室に戻ったんだ。その後だったかな。開けていた窓から、どこからか飛んできた綿毛が入ってきたのは」
「綿毛?」
 今でもその光景は覚えている。ぼんやりと外を眺めていたら、部屋に吹き込む生温い風に乗って、それは降るようにしてやってきた。
 何の変哲もない、おかしくもない、よくあるものである事には違いなかったが、それでも。

「ああ。たんぽぽ――ダンデリオン、とも言うそれを見てから、僕の中で今まで感じた事のないような気持ちが湧いてきた」

 それは春になり花を咲かせた後、次へ繋ぐ為に旅人のごとく大空へと舞い上がる。どこへ行くのかも分からないまま、風の向くままに、種子は綿毛に連れられて旅をする。
 ダンデリオン――その名を、アドルはよく知っているはずだ。そのあたりもリンドハイム、その時は協力者パークスとして行動していた彼から受け取った、バルドゥークでの報告書の中に記載されていた事だった。
 話しつつ水を注いでいたコップを置くと、渡した首都の地図を捲ろうとしていた手を止めて、アドルは少しだけ目を丸くしていた。思い当たる箇所が幾つかあるのだろう。
 きっと、あの稽古中に感じた痛み≠ノ関してもだ。
「リンドハイムから僕≠フ事は聞いている。……昼間、君が謁見に来てくれた時、初対面という気がしなくてね。そこでようやく実感したよ」
「……」
「僕からも一言言わせて欲しい。――ありがとう、アドル」
 静寂。一つも音がない小さな空間の中を、ただそれだけが満たしていく。
 アドルと目が合う。澄んだ夜空を切り取ったような瞳は、ほんの少しだけ揺らいでいた。そう簡単に、褪せるようなものではないのだろう。
「礼を言われるほどの事じゃ……」
「ただ、今のは君が僕≠ニ立ち合ってくれた事に対する礼じゃない」
「?」
「存在してはならなかった、生きる事を許されなかった僕≠フ想いを、君はここまで連れて来てくれた。価値を与えてはならないものが確かに居た証を、あの監獄都市から連れ出してくれた――その礼だよ」
 謁見の時に言葉を交わしてから、自分が礼を言うならばそちらだろう、と思っていた。もう一人の自分がアドルと交わした約束≠ヘ、彼と共に冒険をして、今ここに辿り着いたのだ。
「僕は、あの時あの場所に居た僕≠ニは違う。その時の記憶もないし、君と過ごした時間は何一つ持っていない。……それでも僕は、君とは皇帝と冒険家∴ネ前にただの友人≠ノなりたいと思っているんだ」
 だからこの場所を選んだ。ロムン帝国現皇帝、マルクス・クラウディア・ガルマニクスとして在るあの城ではなく、ただのマリウスとして居られるここで、そういった話をしようと決めたのだ。
 一国を率いる身に、個人的な我が儘は許されない。そう分かっていても、アドルを前にした後から、そのたった一つの願いは心の中に留まり続けてしまっていた。
 アドルにとっては酷な願いだろう。それしか方法がなかったとはいえ、かつて自身の手で殺めた友人の元の存在からそのように言われた時の心情は、こちら側から完全に推し量る事など出来はしない。
「……。敵わないな」
 間が空く。壁に掛かった時計の秒針がどれだけ動いたかは分からない。
 ぽつり、と零されたその一言は、静寂の中に染み込んでいくかのようだった。
「アドル?」
「断るわけないじゃないか、僕だってそう思っていたよ。君とも、友人になれたらって」
 アドルの笑顔は、ほんの一瞬だけ、どこか寂しげに見えた。その胸中に渦巻いているであろう感情は、読み取れそうで読み取れない。
 君とも友人になれたら――。その一言が、あの時感じた痛みに寄り添う灯火となって、心の中に現れたような感覚がした。
「……まいったな。心のどこかで、君がそう言ってくれる事を期待していたみたいだ」
 本心は時に、自分ですら掴みきれない。皇帝である以上許される事ではないが、今だけは、その錠が外れている事を見逃して欲しいと願ってしまった。
 改めてよろしく、と差し出されるアドルの右手。あたたかなそれを握り返して、ようやく、心の底から笑えた気がした。


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