夏の記憶


 死んだ彼女の話をしよう。
 夏はふたしかで、ぱっきりとした紺碧の空にかかる白い入道雲が不安を煽る季節だった。少なくともあたしの心はいつだって、夏をこわいと思っていた。
 なにもかもを飲み込もうとするように大きな口を開けている夏は、あたしにとっていつだって畏怖の対象だった。
 大嵐がやってきて町をめちゃくちゃにしていったのも夏だった、ぎらぎらと日照りが続いて土地をからからの乾いた場所にしていったのも夏だった。そしてあの長い長い夏……。
 おばあちゃんの家の縁側で、盥に氷水を張って足を浸ける。夏なのに足だけぞくぞくと冷たくて気持ちがいい。この縁側は、玄関のインターホンの音も聞こえないし、蝉しかいないから楽でよかった。俗世と切り離されたような、まだ日本にこんな風景が残っていたんだって、都会っ子のあたしは思うような景色が広がっている。遠くに見渡せる青々とした山の連なりの向こうに入道雲が育っていた。
 小さな頃、あたしはこのなんにもない、山が遥か向こうに広がるばかりの町で育った。
 おばあちゃんがあたしを連れてきたのだ。あの頃のことはよく覚えていないけれど、高校生になった今なら知っている。あたしの両親はあの頃離婚調停のまっただなかで、両親はそれぞれ離婚調停や自分の生活に手いっぱいで、あたしの育児を放棄していた。見かねた、父方のおばあちゃんが、あたしをここに連れてきて、小学校生活の六年間をここで過ごした。
 あたしは結局お父さんに引き取られることになり、今はお父さんと暮らしている。けれど、お父さんは経済的な理由を武器にしてあたしの親権を勝ち取ったので、こどもを育てることに関してはまるで無知だった。なので、今でもおばあちゃんの家に、住んでいる街から電車で三時間かけて、ときどき訪れている。
 お父さんと暮らしていると、楽だ。生理がはじまったときも、あたしはおばあちゃんや保健の先生に相談して難なく乗り切ったし、好きな男の子と初めて付き合ったときも、帰りがちょっと遅くなっても仕事で遅いお父さんには全然ばれることはなかったし。経済的な理由であたしを引き取ることに成功したお父さんは、なんであたしを引き取ったの、と思うくらいにあたしに関心がない。
「ななおちゃん、スイカ食べる?」
 不意に、背後から声をかけられた。振り向くと、こどものお絵描きみたいに見事なカットのされ方をしたスイカの乗ったお盆を持って、おばあちゃんが立っていた。
「……食べる。島田のおばさんから?」
「そうよ、あとで会ったらお礼を言おうね」
 島田のおばさんは、毎年おばあちゃんの家にまるまると肥えたスイカをくれる、近所に住む気のいいおばさんだ。小さな頃から顔なじみのあたしにもよくしてくれている。
 なんだかいいことだらけのおばあちゃんの家は、けれどそう簡単に幕を下ろさせてはくれない。
 鉄風鈴の涼やかな音を聞きながらスイカをしゃくしゃく食べて、盥に浸けた足をちゃぷんと揺らす。蝉がやかましく鳴いている。空はびっくりするほど青くて、それなのに山はかすんで見える。
 種を勢いよく吐き出して、庭の土に落とす。黒く濡れた種があたしを見ているような気がして、おぞましい。
 夏を嫌いなわけじゃない。ただ、こわいだけだ。
 氷が融けて、だんだん水がぬるくなってくる。りん……と風が吹くたびに鳴る風鈴は、さびしげに煤けている。
 ここに来ると、あたしのこわい夏を全身で感じる。緑の少ない都会では、暑い、と思うだけの夏だけど、ここに来ると迎えてくれるのはいつだって大きな入道雲と紺碧の空だった。
 気がつけばスイカを食べ終えている。あたしは黙って浸けていた足を引き上げて水気を拭い、盥を持ち上げ水場に向かう。台所には、放り出された包丁とまな板があった。残りのスイカは冷蔵庫の中だ。さっきあたしが入れたのだから間違いない。
 島田のおばさんには、スイカをもらったときにもうすでにお礼を済ませてある。気遣わしげにあたしを見て、おばさんは今度うちの子の勉強を見てやって、と言った。もちろん、とおばさんのところの生意気な小学生男子を思い浮かべ、快諾した。
 水を流しに捨てて、盥をひっくり返して置いておく。それからあたしは奥の床の間に向かった。
 代々のご先祖様の写真がずらりと並ぶ部屋。こどもの頃あたしはこの部屋があまり好きではなかった。抹香くさかったし、たくさんの写真に見下ろされてずっと観察されているようだった。そこに、おばあちゃんの写真が追加されてから、あたしはますますこの部屋がこわくなった。
 ここに来ると、おばあちゃんがもういないのだと、ご先祖様が視線で教えてくるような気がして。おばあちゃんはもうあちら側の人間なのだと思い知らされるような気がして。
 去年の夏だった。あたしがここを訪ねると、縁側であたしのための氷水を用意している途中らしかったおばあちゃんが、庭に倒れ込んでいるのを見つけた。
 庭の向こうには、青々とした空と山が広がっていた。
 仏壇に手を合わせてから、ため息をつく。おばあちゃんは、あたしが見つけたときまだかろうじて息があった。それで、最後の力を振り絞りあたしの名前を呼んだ。ななおちゃん、と。
 死の間際にあたしの名前を呼んだおばあちゃんは、たましいをその際あたしのたましいと結びつけたらしかった。なので時折、あたしはあたしのものでない記憶に苛まれる。
 だからあたしはきっと、夏をこわいと思うのだ。

20161001