ふたりぶんの心臓


 死んだ彼女の話をしよう。
 透き通ったように張りつめた空気が僕の息を白くする冬の日曜日、それは妙に穏やかな日曜日だった。
 辻堂に住む大学の友人の家で朝まで騒いで、そのまま午前中を眠って過ごした。みんなで遅い朝食の代わりにエナジードリンクを飲んで解散した。
 そのままショッピングモールでウインドウショッピングを済ませ、ラケルでオムライスを頼み胃の腑に流し込んでお冷を飲み一息ついたところ。テーブルの上に投げ出していた携帯電話が震えた。
「もしもし」
 今どこにいる、と電話口で激昂している母親に辟易しながら、適当にあしらって店を出る。辻堂の駅前はなんだか閑散として、このショッピングモールだけが栄えているふうな雰囲気がある。もしかしたら、そうじゃないのかもしれないけれど。
 籠原行の電車に乗り込んで、空いていた席に座って携帯電話を手の中でもてあそぶ。藤沢で高校生がたくさん乗ってきた。部活帰りらしい。がやがやと一気に騒がしくなった車内。僕もこんなふうだったかも、と思わせる彼らの頬を抉るにきび。青いにおい。
 彼らは数名が鎌倉で降りてゆき、代わりに乗ってきた三歳くらいの男の子連れの母親が座れそうな座席を探してきょろきょろし、やがて諦めたように男の子をたしなめた。
「つかれた! すわりたい!」
「席空いてないでしょ、我慢して」
 何か用事の帰りで疲れているのか、それともいつもああなのか、厳しい声で男の子を叱りつける。僕は、小さい子の扱いは分からないけれど、疲れたこどもにあんなふうに上から押さえつけるような言い方をすると逆効果になることくらい分かる。案の定、男の子がぐずりだし、それを更に母親は怒鳴りつけ、最終的に何を言ってもわめいても無視を決め込み携帯電話をいじり始めた。
 母親としてどうなんだ、とは思うものの、特段こどもの泣き声が嫌いなわけでもないし、わりとよく見る光景なので、僕は黙っている。
 戸塚で降りて階段を上る。親子もここで降りたようで、背後で男の子がわんわん騒ぎながら母親に無理やりに手を引かれている。もう疲れた、歩きたくない。じゃあ置いていく、ママだって疲れてる。そんな会話ののち、男の子の泣き声がひどくなって、見えていないながらもほんとうに置いていかれかけていることを何となく悟る。
 母親がのちにちゃんと、泣き疲れた男の子を回収していくことは分かっているのに、ほんとうのほんとうに置いていくわけじゃないことくらい分かっているのに、無性に苛立った。
 橋上改札をくぐって東口方面へ足を向ける。腹の中でオムライスが躍っているのを感じて、ちょっと気分が悪い。電車酔いしたかもしれない。僕はもともと、不特定多数の人間が乗る、公共の乗り物が得意じゃないのだ。
 柏尾川は今日も鈍い冴えない色。スーパーを通り過ぎて自宅へ帰りつくと、案の定ご立腹の母親が出迎えた。
「どこ行ってたのよっ」
 電話口でも聞かされた怒りの理由、そして未だ鎮火していないという事実をあわせ見るに、静姉はまだ見つかっていないのだろう。僕は玄関口で靴も脱がぬまま踵を返した。家を出る前に、振り向いて母親の指示を仰ぐ。
「どこ探した?」
「財布が部屋にあったから、たぶん徒歩圏内。学校のほうはお父さんが行った」
「分かった」
 家を飛び出し、再び駅前に走る。静姉がいるのは、いつも決まっている。
 母親はそろそろ静姉の行動の規則性に気づくころかと思いだして、早四十九日。静姉を見つけるのは、いつも僕の役目だ。たぶん母親は、静姉がまさかあんな忌まわしき場所にみずから足を運んでいるとは思いつきもしないのだろう。
 バスセンターわきの交差点に向かう。歩道橋の上で、やっぱり静姉はぼんやりと行き交う人や車を見下ろしていた。
 少し離れたところで立ち止まり、少しだけ呼吸をととのえる。
「静姉」
 呼べば、緩慢に振り返り、唇を持ち上げて笑う。肉の削げ落ちた頬にほんのり浮かんだえくぼがひどくみぞおちをわななかせて、一歩、近づいた。欄干に乗せていた手をゆらゆらと僕に向けて揺らす。信号が青になり、一斉に車が走り出した。
 静姉はこの寒い中、部屋着に少し厚手のカーディガンという無防備な格好だった。
「……風邪引くよ」
「うん」
「帰ろう」
「うん」
「母さんたちも心配して探し回ってる」
 静姉がいないと気づくや否や家を飛び出しただろう父親。静姉が帰ってくるといけないからと不安な気持ちで留守番をしている母親。それから、僕の腹の中で水を吸って膨らむオムライス。
 静姉は、すっかり痩せてしまった。
 こどもの頃のように、手をつないで家に帰る途中、静姉が不意に振り返る。
「静姉?」
 しまった、と思う。つられて振り返った僕の目に、ベビーカーを押す母親の姿が映る。ふくふくとした手が、空気を掴むようにベビーカーから伸ばされて、何度も握ったり開いたりしている。
 僕は、つないだ静姉の手を引っ張って歩調を速めた。静姉はおとなしくついてくる。何も言わない。それが逆に気味が悪い。
 泣き叫べば、いきどおれば、まだ人間らしいのに。
 冷たくかじかんでいる細い手をぎゅっと握りしめる。

 ほんとうは、ああしてベビーカーを押しているはずだったその手を握る僕が、なぜか震えているのだ。
 狂ったようにむせびながら、返して、返して、と医者にしがみついていた蒼白になって目だけがぎょろりと血走った静姉の顔が、今でも脳裏に、べったりと貼りついている。
 あの日、バスセンターの交差点で静姉を撥ねた白い車に飛んだ血は誰のものだったのか、僕にはそれすら分からない。

20160429