03
薫のたくましい腕の筋肉をぺたぺたと触っていると、くすぐったそうに跳ねのけられた。
「なんだよ、くすぐったいだろ」
「俺もマッチョになりたいなあ、と」
「比呂には比呂のいいところがあるんだし、筋肉質な比呂とか見たくないわ」
「そう?」
喋りながらふと視線を感じてそちらを振り向くと、秋吉がなぜか私を睨みつけていた。睨んでいるというか、ただ見ているだけなのだろうが。感情の起伏が穏やかな彼は大概無表情で、それが睨んでいるように見えるだけなのだということはなんとなく分かっている。
せっかく美人なのに、損しているな。秋吉に笑顔で手を振ると、しっし、とどっか行けと言わんばかりの払うしぐさをするので、すごすごと薫に向き直った。
「フラれた?」
「手振ったらしっしってされた」
「秋吉は愛想ないからなあ」
薫が笑う。
すべての候補者の演説が終わり、私たちは投票のために立ち上がって体育館をあとにする。紙を渡され、私は迷わず秋吉の名前に丸をして投票箱に入れた。それから、書記の信任投票も済ませて寮に戻る途中、秋吉が合流してきた。
「お疲れさま」
「ん」
「さっき俺にしっしってしただろ」
「あ?」
「あ、眠いの?」
「んん……」
なるほどそれで合点がいった。秋吉は眠たくて不機嫌だったのだ。それで睨まれていたのだ。思わず笑みがこぼれる。なんだ、眠いだけだったのか。妙に安心してしまってにこにこしていると、秋吉はますます不機嫌そうになる。
「秋吉、宵っ張りだからだよ、寝ないと」
「うるせえ……」
「はいはい」
秋吉は、眠いときに私に話しかけられてもだいぶおとなしくなった。はじめの頃のように睨まれたり凄まれたりはしない。だいぶ心を許してくれているのだと思う。
「お前ら、阿吽の呼吸だな」
「そうかな?」
感心したような薫の部屋の前で彼と別れ、会話のないまま秋吉と部屋まで歩く。気まずくはない、彼は眠たいだけなのだから。部屋に着くと、彼はふらふらと自分の部屋に入っていき、直後派手にベッドのスプリングが軋む音がした。どれだけ眠かったのやら。
私は制服をハンガーにかけて、スウェットに着替える。そして授業の予習と復習をはじめる。
これをやっておかないと、ついていけない。私は頭は悪くないとは思うけれど、周りだって馬鹿じゃない。それに、先生たちは一見のんびりしているようで、授業は要点しか出てこないので展開が速い。授業中はノートをとるので精一杯なので、予習復習は欠かさない。ある程度次の授業の内容を理解していないと置いてけぼりになってしまう。
さくさくと予習を進めていると、ふと目の端に黒いものが映った。
「…………」
たっぷりの沈黙のあと、無視して勉強したい気持ちをそっと抑え込み、私は大きく息を吸いそちらを怖々と振り返る。
「ぎゃああああ!」
光の速さで部屋を飛び出してとなりの部屋に飛び込みベッドに突っ伏していた秋吉を叩き起こす。
「何すんだよ!」
「ごごごごご」
「ああ?」
寝起き、しかも最悪な起こされ方をして不機嫌が頂点に達している様子の秋吉に構わず抱きつく。異常に気づいたのか秋吉が戸惑うように私を引き剥がす。
「どうした?」
「ごご、ごき、ごき」
「ゴキブリ?」
がたがた震える私に大仰にため息をついて、秋吉がそばにあった雑誌を丸めて私の部屋に入っていった。何度かその雑誌を叩きつける音がして、戻ってくる。手にはおそらく奴がくるまっているのだろうティッシュを手にしている。どこで奴をやっつけてぶちまけたのか、聞いたほうがいいのか、聞かないほうがいいのか。そしてそのティッシュを部屋のゴミ箱に捨て、彼は呆れたように言った。
「お前、部屋でなんか食ってんのか?」
「す、スナック菓子を少々……」
首を横に振り、秋吉がコンパクトタイプの掃除機をベッドの下の収納スペースから取りだした。
「これで掃除しとけ。女なのに部屋汚すぎ」
「ごめんなさい……」
しょんぼりしてしまってから、私は重要なことを思い出す。お礼を言っていない。