百日紅の木の下で
百日紅の花が咲く。夏だ。じわじわとした熱が迫ってきて今年も否応なく思い出されるのは、木の下にぽつんと佇んでいる彼女のことだ。あの時彼女は誰をどんな気持ちで待っていたのだろうと思うと、ひどくやるせない気持ちになる。
大きな目を少し伏せて、自分の足元を見つめている。白いサンダルは薄汚れて傷が目立っていた。じっと立ち尽くしていた彼女を突然の豪雨が襲う。スコールだ。俺は慌てて、隠れて見ていたことも忘れて彼女のもとへ駆け寄った。
「お嬢様、お風邪を召しますよ」
声をかければ、彼女ははっと顔を上げて俺を見た。
「宮島……どうして?」
「……お嬢様」
俺は、彼女の腕を引いた。かたくなに木の下から動こうとしない彼女だったが、男と女、しかも深窓の令嬢の腕力なんて高が知れていた。雨の中彼女を引きずるように歩いていると、彼女はぽつんと呟いた。
「知っていたのね」
「……」
俺は黙るしかなかった。そして、彼女に言わなければならないことがある。
「お嬢様。糸井の次男坊は、来ません」
「来るわよ! 離して!」
「いいえ。絶対に来ません。今朝、私どものもとへ彼は現れました」
「……」
「約束を反故にして済まないと、伝えてくれと」
彼女が息を飲む。
所詮、彼にはそれだけの勇気が、駆け落ちするだけの気概がなかったという話だ。貴族の彼女と一介の靴屋の息子。うまくいくはずがなかった。
彼女をさらって遠い町へと行くことは、二度とこの町に戻ってこられないこと、家族に二度と会えないことを意味する。それをするだけの勇気が、彼にはなかったのだ。
「旦那様も、今回だけは見逃すと仰っておられます」
「……」
「ですからどうぞ」
「嫌よ」
「どうぞ、竹元様との」
「嫌よ!」
胸が痛い。こんなことを彼女に言わなければならない自分の立場が憎くて憎くて仕方がない。ほんとうなら、好きになった男と連れ添うのが女の幸せであることくらい自分にも分かっている。
彼女が小さなころから、ずっと手塩にかけて育ててきた。自分の生活をなげうって彼女に捧げてきた。結婚もせずに、彼女だけを見てきたのだ。その、娘を見るような淡い想いがいつしか思慕に変わっていたことに気付いた時は、自分を責めた。年齢も二回りほど違う、立場も身分も何もかもが違う、そんな彼女を慕っていたなど。
所詮、俺にも勇気がない。彼女に想いを告げることすらできない。靴屋の次男坊を責められや、しない。
「……宮島」
「なんでしょう、お嬢様」
「どうして、好きな人と一緒になったらいけないの……? どうして私はあんな家に生まれたの……?」
「……」
冷えた身体を持て余し、彼女は青褪めた唇で俺に問う。何も答えられないのだ。それがさだめなのですとしか。そしてそれは彼女の望む答えではなく。
「……帰りましょう。お風邪を召します」
「宮島は、好きな人と一緒にならないの?」
「……」
「いるんでしょう? でもきっと、私のために諦めたのよね。私が手をかけさせる子供だったから」
「……帰りましょう」
そう、こうするのが彼女のためであり、自分のためだと。言い聞かせて想いを告げずにいる。
勇気がないなど、言い訳だ。靴屋の息子が諦めたのとは違う、俺は彼女のためを思い身を引いたのだ。そう言い聞かせないと、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
彼女は今、好きでもない男の隣で嫣然と笑っている。百日紅の木の下で待っていた時の彼女のあの張りつめた横顔を見ることはついぞないのだろう。
ただ、あの時陽炎に飲み込まれそうになっていた彼女の凛とした瞳は、たぶんこの世の何よりうつくしく、俺はひとり、あの横顔に思慕を費やすのだ。
20140626
20150219