たぬきな恋人

 友達に、バラの香りのするハンドクリームをもらった。シアバター配合と書いてある。すっかりご機嫌でアパートに帰ると、誰もいないはずなのに私の部屋の電気がついていて一瞬ドキッとする。鍵はかかっていたので、そっと開けて入ると音に気付いたのか、電気をつけたであろう張本人の足音がした。
「おかえり」
「……来るなら、言ってください」
「たまには、驚かせようかと思ってな」
 目の前でニッと笑うのは、私の年の離れた恋人だ。大した会社じゃないらしいけど、IT系の一応社長をやっている。大した会社じゃない、と自分では言うがそれなりに儲かっているのは彼の住んでいるマンションの外観に内観、それに立地で分かる。
 そんな彼とは対極にいるような貧乏学生の私がなぜ彼とこうしているのかについては置いておいて。なぜ彼はここにいるのだ?
「こんな狭くて寒い部屋にわざわざ来なくても」
「たしかにここはセキュリティがワリィな。心配だ」
「そういうことではなくて」
「なーに言ってんだお前」
 コートを脱いでハンガーにかけながら彼に盾突くと、のんびりとした様子でローテーブルのそばに座った。
「会いたいから来たんじゃねえか。駄目なのか?」
「……別に、そんなこと言ってないですけど」
「奥歯に何挟んでんだ」
「会いたいなら、呼べばいいじゃないですか、あなたのお城に」
「来たいの?」
「そういう意味じゃなくて、こんなところにあなたがいるのはミスマッチというか……」
 首を傾けて関節を鳴らし、彼は面倒くさそうな目で私を見た。たしかにあまりに馬鹿らしいことを言っているのは分かっているんだが、その目はやめてほしい。だって彼の格好ときたら、会社帰りなのかお高そうなダブルのスーツだし。こんな人が私の部屋に出入りしているのをほかの住人に見られたらなんて思われるか。
「分かったよ、帰る」
「あっ……」
 ため息をついて、彼が腰を上げた。そのまま私がぼうっとしている間に玄関に向かい壁に掛けてあったコートを取り、革靴に足を通している。ああ言ってしまった手前、待ってとか引き止めることもできずに、そもそも私にそんな可愛い芸当ができるはずもなく、彼の背中がドアの向こうに消えていくのを黙って見つめているしかできなかった。
 彼がいなくなった部屋で、少しだけ後悔する。それから、もうどうしようもないから、一粒だけこぼれた涙を擦って着替えようと部屋を見渡す。
「……」
 何か、奇妙なものが。
 ローテーブルに隠れてさっきは見えなかったが、何か置いてある。淡いピンク色の包装紙に包まれた小さなそれは、明らかに私のものではない。彼の忘れ物だろうかと思い、それにしてもピンク色の荷物とはそれこそミスマッチだなと思いながらそれを手に取る。包装紙の上に乗っていたのかひらりと紙が落ちた。何気なくそれを拾い上げて目を通し、私は玄関に向かって走った。
もどかしくドアを開けて共同廊下に出ると、彼がドアの隣の壁に背中を預けて立っていた。
「遅い」
「なん、これ、どう」
「そしてどもりすぎだ。そんなに驚くことでもないだろ」
 お前今日誕生日なんだから。
「わ、私」
「さあ来い。今なら無料で俺の胸を貸してやろう」
 あんなことを言ったのに怒っていないどころか少しにやにやしている彼が広げた腕に飛び込んだ。今なら、っていつも無料じゃない。馬鹿。
 じっと抱きついたままでいると、彼がぼそりと呟いた。
「さみぃな。冷えるわ、今日は」
「……」
「ところでお前さっき、なんかイイモン持ってなかったか?」
「え?」
「薄いピンク色の可愛い袋を……」
「……」
 白々しい。袋を開けると中からころんと出てきたのは、深い青色の手のひらの上に乗るくらいの小さい箱だった。これは……。
「開けてみたらいいんじゃねえのかなあ」
「……」
 そわそわして開けると、やっぱりというかなんというか、箱の中央に収まっていたのはきらきら光るリングだった。
「こ、こんなの……」
「もらえないとか言ったら明日足腰立たなくなると思えよ」
「……」
 もらってもそうなる予感はなんとなくしていたが、みすみすそちらの選択をするのも気が引けて、私は素直にそれを右手の薬指にはめた。
「そういうのは普通左手じゃねえのかなあ」
「……そ、そんな……」
「ま、いいか。さみぃ。中入ろ」
 部屋に押し込まれるようにもつれ込むように入ってドアを閉めたところでいきなり壁に押しつけられて、冷たい唇が降ってくる。寒い中、わざわざ私の反応を見て楽しんでいたんだなあ、このたぬきおじさん。と思いながら、私はそっと目を閉じてそれを受け入れた。

『Happy Birthday!』


20140206
20140619