煙に巻かれる夜
「ねぇお願い。キスして。我慢出来ないの」
ねだられたら俺と言う男は断るすべを知らない。いや、こんな可愛い顔でそんな可愛いことを言われたら、拒否できる男はたぶんいないだろう。たぶん、この要望の内容が「ねえお願い。ブランドバッグ買って。我慢出来ないの」、であっても俺は表情を緩める代わりに財布の紐を緩めたに違いない。
それは言い過ぎた。そんな援助交際みたいな真似は俺も彼女もしないと分かっているからのたとえだが、さすがに言い過ぎである。
そしてまんまと九センチメートルのヒールを履いても俺の顎あたりに頭がきてしまう彼女にキスをして、後頭部に手を入れる。くしゃりと手触りのいいロングヘアを軽く握り、持ち上げた。そこで彼女は俺の胸を押してやんわりと唇を離した。
「そこまでしろとは言ってないの」
「……殺生だな」
ディープなものに持ち込もうとしたらあっさりかわされて、俺は不満に唇を突き出した。年相応じゃない、そんなことは分かっている。けれども致し方ない。
何と言うか、蛇の生殺し状態を食らって早三ヶ月、そろそろ指一本くらいその柔肌に触れさせてくれてもいいのではないか。キスをねだってくるくらいなら、それ以上のことを俺が求めているのも分かっているはずだ。
大きな瞳が、照明を映し込んできらきらと輝いている。涙の分泌量が多い、とか言っていたような気もする。ドライアイで逆に涙が出過ぎる症状があるらしいんだが、俺はあいにく眼科の医者でもなんでもないのでそのあたりは詳しくない。が、彼女はいつも涙目である。その目に俺は弱い。
彼女はこうしてよくキスをねだってくるが、決してそれ以上は踏み込ませてくれない。いったい原因は何なのか。
「……やっぱり」
「あ?」
彼女が口元を押さえて顔を歪めた。涙目のせいで今にも泣きそうになっているその表情に少々慌てる。
「おい、おっさんは女の涙に弱いんだぞ」
「泣かないけど」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題なのよ」
ああ、何か怒っていらっしゃるようだが原因はまるで分からない。ぽりぽりと指で頭皮を掻いて、煙草の箱とジッポを取り出した。落ち着く時はまずこれだ。
そんな俺の癒しを、彼女がかすめ取る。しまった。
「やめてって言ったじゃん」
「こればっかりは……」
「だからディープしないって知ってた?」
「え」
寝耳に水だ。俺は思わず奪われた箱に伸ばしかけた手を引っ込めた。やり場のなくなった手でジッポをいじくっていると、彼女が続ける。
「キスはしたいよ。でも、それ以上は臭いから嫌なの」
「臭いってお前」
「事実だよ。喫煙者にはなんでもないかもしれないけど、臭いの」
「……」
こうも臭い臭いと連呼されると実に肩身が狭い。もちろん、昨今の禁煙ブームの余波で俺だって非喫煙者がどれだけ煙草を嫌うかくらいは知っているつもりである。しかしそこまでとは思ってもいなかった。
「だからやめてくれるまで、あたしは絶対しないから」
「今すぐやめるから今やらせろ」
「無理。臭い」
ぎりぎりと歯を食いしばる。俺は、煙草の箱を奪い返してゴミ箱に投げ捨てて、土下座せんばかりの勢いで彼女に掴みかかった。
「頼む。やらせろ。我慢出来ない」
「……ちょっと、カッコワルイ……」
呆れたような顔の彼女が結局やらせてくれたのか、それは神のみぞ知るところだが、とりあえず部屋の電気は消えたことだけお伝えしておく。
20140625
20140626