01

 なんとなく、どうしても視線や足音が気になるので、学校やバイトが終わればそそくさと帰宅するようにしている。友人と遊んだりするのも、元恋人と希世のことがあってから気が進まないし、事情を知らない知り合いというのが、地方から単身こちらにやってきた身にはいないのである。だいたいが大学の友達か、バイト先の同僚だ。バイト先の同僚はさすがにわたしが親友に恋人を寝取られたことを知らないが、バイトとは言え仕事でつながっている人と遊んでも、話が広がらなさそう、と思ってしまう。
 今日もどことなく誰かに見られているような気がして急いで帰宅したわたしは、シャワーを浴びて、インスタントコーヒーにお湯をそそいで、たっぷりの牛乳と砂糖を入れて飲んでいるところだった。
 コーヒーの濃い茶色が牛乳を入れてまろやかなベージュになるのが好きだ。とてもとても飲めない苦い液体が白い牛乳によって淡く甘くなるのがたまらない。ベッドに横づけしたテーブルにカフェラテの入ったカップを置いて、勉強するために道具を鞄から出してテーブルに広げて携帯は見ないように背後のベッドに投げておく。さあ、集中して勉強するぞ、となった途端、部屋にインターフォンのチャイムが鳴り響いた。
 うちのインターフォンが機能することなんてめったにない。近隣住民との関係は希薄だし、ネットショッピングもしてないので配達員が来るはずないし、そういえば友達が家に来る以外で、うちのインターフォンが鳴ったことってあったっけ、と考えだしてしまう始末だ。
 そう思っている間に、チャイムは鳴り止んでいて、居留守を使ってしまったことに気がつく。と思った次の瞬間、再度チャイムが鳴り響いた。

「……」

 しかも、次は何秒と間を置かずにインターフォンが押されてチャイムが次から次へと鳴いている。連打されているインターフォンが怖くて、玄関にはとても近づけなくて、わたしは後退りしてベッドに這い上がり布団を上からかぶった。それでも、チャイムの音は布団の綿を貫いてわたしの耳に届く。気がおかしくなりそうなくらいに連打され、そのうちチャイムが鼓膜を破壊するんじゃないかと思うくらいに耳にびっしりと貼りついて離れなくなってしまった。
 乱れる呼吸をととのえようと必死で口元を押さえていると、ようやく、チャイムの音が止んだ。最後の一音がフェイドアウトして、しゅわりと静寂が戻ってきた部屋で、わたしはおそるおそるこもっていた布団から顔だけ出す。いつもと変わりない、わたしの部屋だ。ベッドがあって狭いクロゼットから洋服がはみ出しがちで、テーブルの上には参考書とノート、そして冷めたカフェラテ。何も変わりない。
 ほっと息を吐こうとしたそのとき、先ほどベッドに投げつけた携帯が震えた。わたしのけっこう近くで。声こそ出なかったが、肩を引きつらせて飛び上がってしまいそうになった。大丈夫、これはチャイムじゃない、携帯だ。そう、言い聞かせて着信を告げている様子の携帯の画面を見る。

『平野和成』

 その四文字を見て、全身の力が抜ける。ほんとうに連絡してきた。そう思って、縋る思いで手を伸ばして電話を取った。

「……もしもし」
『こんばんは。もしかして、もう寝てました?』
「いいえ……」

 やわらかい声が優しく鼓膜を揺らして、不覚にも泣きそうになってしまう。鼻をすすると、向こうは一瞬黙って、それから遠慮がちに聞いてきた。

『どうかしましたか?』
「……」

 ちらりとドアのほうに目をやる。もう鳴らないということは、誰もいないのだろうけれど、それでも声をなるべく発さないようにしようと吐息のような小声になってしまうのは仕方ないことだった。

「……部屋のチャイムが、鳴るんです」
『え?』

 怪訝そうに聞き返してきた少しこもった声に、なんて説明しようか考えあぐむ。それで、結局、最近気になっていることからすべて打ち明けることにする。

「最近、帰り道誰かがついてきてる気がしたり、やたら視線を感じることがあるんですけど、それで、今部屋のチャイムが連打されて……」
『……』

 ただのいたずらにしてはしつこい。通り魔にしてもまどろっこしい。なんとなく薄々勘づいてはいるけれど、その存在を言葉にしてしまうのはためらわれた。けれど、和成さんはそうではなかったようだ。

『つまり……ストーカーですか?』
「……」

 何の躊躇もなくそう指摘され、言葉を失った。

『今、おひとりですか?』
「……ひとり暮らしなので」
『そうですよね……。絶対鍵を開けないで、窓も閉めてくださいね』

 彼には見えていないだろうが、必死で頷く。身じろぎするのも不安で固まっていると、それを解きほぐすような甘い優しい声が、わたしの頭を撫でるように包み込むように響いた。

『不安でしょうし、多英さんが眠るまで電話つなげっぱなしにしておきますね』
「え……でも……」
『俺今から作業するので、別に無理に話をする必要はないですよ。でも、つなげておくとちょっと安心でしょう?』

 たしかに、ひとりで部屋で怯えながら眠るよりずっと気持ちは楽だ。けれど、そんなふうに甘えていいものなのだろうか。彼はわたしの何か特別な存在ではないし、数度会って話をしただけだ。そんな人に甘えてしまっていいものなのだろうか。

「いいんですか……?」
『あ、ちょっと待ってください、イヤホンに切り替えるんで』

 イヤホンに切り替えるということは、両手を空けたいということで、作業をすると言っているし迷惑なのではないか。

「ご迷惑ではないですか?」
『作業って言っても、頭使わない単純入力なんで、全然』
「……」
『……寒くないですか? 暖房ちゃんとかけてます?』
「あ、はい……」

 そのまま、彼は黙り込んでしまう。作業を始めたのかもしれない。沈黙ではあったものの、電話の向こう側に人がいるというのはたしかに安心で、少し気が楽になってきた。詰めていた息を深々と吐き出すと、和成さんが言う。

『俺でよかったら、相談に乗るので、だいたい研究室にいますしいつでも訪ねてきてくださいね』

 幸薄そうで枝みたいに細い彼が妙に頼もしく感じる。それでわたしは、ここ最近の足音やさっきのチャイム攻撃に、自分がけっこう参っていたのだと思い知らされた。知らないうちにストレスに感じていたのかもしれない。

「……ありがとうございます」

 やっとの思いでそれだけ告げると、彼はきっと穏やかな笑みを浮かべているのだろうふうに囁いた。

『俺なんかばしばしこき使ってやってください』
「そんな」
『冗談です、ふふふ』

 テーブルに勉強道具を広げたはいいものの、もうそちらに向かう気にはなれなくて、わたしは、眠るまで電話してくれているという彼の言葉を信じて、このままベッドで過ごすことにした。
 彼の言葉を思い返して、わたしも、今和成さんがどんな顔で電話しているのかを想像してみる。それで、ふと思い出した、ハンカチを返しに行った際に昼寝をして起きたら、彼が眼鏡をかけて作業をしていたことを。

「……和成さんって、目悪いんですか?」
『いいえ? どうして?』
「前に、眼鏡かけていたので」

 そこで、和成さんの軽やかな笑い声が響いた。

『よく覚えてましたね。パソコン作業のときだけ、ブルーライトカットの眼鏡かけるんです』
「ああ、そうなんだ……」
『度は入ってないんですよ。こう見えてどこもかしこも健康です』

 美人薄命、を根に持っているんだろうか、こう見えて、を強調した。そう思うと少しばつが悪い。でも、眼鏡もその細面によく似合っていた。
 また、沈黙が下りる。ほとんど付き合いのない人とこんなふうに沈黙を共有するのは、と思ったけれど、意外と気分は悪くないし空気は穏やかだ。気まずくならないかというのは杞憂に終わった。
 そのまま、わたしは神経が研ぎ澄まされてしまってとても眠れないと思ったが、安心したのか少しうとうとしかけていた。

『多英さん、もう寝ちゃいました?』
「ん、あ、まだ寝てないです、すみません」
『いえ。……眠そうですね』

 微笑ましげにくすくすと笑われて、それでも眠たいのは変わらない。反論も何もしないでいると、和成さんが流れる水のようにすらりと続ける。

『声がふにゃふにゃで可愛いです』
「……あの、わたし可愛くはないと思うんですけど」

 先日も自販機の前で言われた、可愛いという言葉。わたしはどちらかというと寿に言わせれば猫みたいなジト目だしきつい顔立ちをしていると思うし、装いだってそういう自分に似合うように暗い色合いのどちらかというと格好いいタイプのものが多いし。
 自分で自分を、可愛くないなと思うことは多々ある。なので、そういうふうに男の人に言われたこともあまりない。

『可愛いですよ。お酒飲ませてべろべろにさせたい感じです』
「……お酒は一滴も飲めません」

 どういう感じなんだ、それは。
 というよりも、わたしはまだ一応未成年なので、お酒は一滴も飲めないことになっている。実際自分が飲めるのかどうかは分からないけれど、父親が飲んでいたビールを横からちょっといただいたりした感じからすると、あんまり好きな味じゃない、というのが正直なところである。
 煙草を吸うことに関しては、もうすぐわたしは二十歳になるし、そもそも吸う、というほど吸っていないので勘弁してほしい。兄がかなりのヘヴィスモーカーで、今年の正月に帰省した際に彼の私物の中からひと箱ちょろまかしてきたものが今わたしのメンタルを支えている。つまり、わたしが気持ちが落ち込んだ際に煙草を吸うという習慣は、たったここ一年程度のことなのだ。この年末もこっそり盗んでやろうと思っていたが、どうやら兄は最近嫌煙家の彼女ができたらしく、夏に帰ったときには煙草の量が極端に減っていて、とてもちょろまかせるほど持ってきていなかったので、望み薄だ。

『それは残念です』
「……」

 ほんとうに残念そうに呟く和成さんの声を聞いていると、ひどく眠たくなってくる。だんだん彼が何を言っているのかも分からなくなってきて、夢うつつの状態で変なことを口走ったかもしれない。
 朝、目が覚めるとカーテンの隙間から外の明るさが漏れていた。もそりと起き上がり、髪の毛を掻き混ぜる。ふと携帯に目をやると、通話は切れていた。通話情報を確認したところ、深夜の二時頃までつながっていたようだ。

「……」

 すごくいい人なんだと思う。儚い浮世離れした見た目のわりに少し言動が軟派だけれど、でも、わたしを心配してくれているのは伝わってきた。
 通話も切れてとっくにぬくもりも消えてしまっている携帯を手の中で握りしめる。
 恋人を親友に盗られたばかりで、こんなことを言うのもなんだかそれこそ軟派だ。しかし、やっぱり可愛いと言われたら照れくさいなりにうれしいのだ。