01

「ああ、それたぶん平野くんだね」

 十二号館に入って最初に目についた、模造紙の束のようなものを数個抱えている院生らしき男の人に尋ねる。あのう、黒髪で細身で品のよさそうな笑い方をする人をご存知ないでしょうか、身長は百七十後半くらいで、ちょっと猫背の。我ながらひどい説明だとは思うが、よもや他人に「幸の薄そうな、白樺の枝みたいな指をした風に吹かれて転がっていきそうな男性をご存知でしょうか」なんて聞けない。
 たぶん知らないと言われるだろうな、と思いつつ尋ねたところ、平野くん、といやに具体的な人名が返ってきて、少し驚いた。目を瞠ったわたしに構わず、彼は続ける。

「あれでしょ、鈴井教授お抱えの秘蔵っ子でしょ? 幸薄げなほっそい人でしょ?」
「……」

 鈴井教授の秘蔵っ子であるかどうかはさておき、だ。わたしが避けた単語をいとも簡単に、侮蔑的な響きもなく無感情に舌に乗せたあたり、もしかして幸が薄そうという形容詞は共通の価値観から生まれるのだろうか。
 それに頷けず、曖昧に笑い返すと、まあ違うかもしれないけど、と言いつつ鈴井教授の研究室の部屋番号を教えてくれた。
 その部屋の前に立つ。ドアが半開きで、でもやはり覗き込むのは失礼だな、と思いノックしようとして、腕を持ち上げた瞬間ドアが開いた。

「きゃっ」
「あ、すみません……」

 外開きだったそのドアにぶつかりそうになって、悲鳴を上げて後ずさる。すみません、と声のしたほうを見れば、分厚いファイルをいくつかとバラの書類を両腕に抱えて埋もれそうになっている男の人がドアを身体で押し開けつつ立っていた。重たいのか左右に身体が揺れていて、足元が不安定だ。あっと思ったときには、彼の腕の力が緩んでしまい、どさどさとファイルが落ち書類が宙を舞った。

「あっ……!」

 けっこうな量の書類を、彼はすべて落としてしまった。

「すみません、すみません」

 慌てたようにしゃがみこんで書類をかき集めだした彼を手伝おうとしゃがむと、ふと視線が合う。

「ああ、この間の」
「……どうも」

 にっこりと品のいい笑みを浮かべ、チョコレートのような濡れたまなざしを向けてくる彼から目を逸らし、書類を拾い集める。

「あっ、ありがとうございます、俺の不注意で……すみません……」
「いいえ、わたしがそこに立っていたのがたぶん悪いんだし」
「いえいえ」

情けなく笑いながら彼はわたしから書類を受け取って、ファイルとともにまたすべて抱え込もうとしている。

「あの」
「ん?」
「それ、一度には運べないんじゃないですか」

 身体の線が細いせいなのか、どう見たって過積載だ。重たそうに腕が細かく震えているし、これは再びぶちまけるのも時間の問題だと思う。

「手伝います」
「いいですよ、女の子にそんなこと」

 上から、バランスが不安定になりそうな書類を取り上げると、慌てて彼がそれを奪い返そうとした。すると、またも彼は自分が持っていたファイルを廊下に落としてしまう。派手な音を立てて床にめり込まんばかりの勢いで落ちたファイルを見て、彼はため息をついた。

「持ちます。どこまで運べばいいんですか?」
「…………一階の資料室まで」

 白い頬を自嘲的に引きつらせながらそう告げた彼と一緒に、資料室を目指す。道すがら、彼はぽつんと言った。

「すみません、手伝わせてしまって」
「いいえ。先日のお礼です」
「お礼?」

 ふと、彼が足を止める。色素の薄い瞳が丸く見開かれ、それから二度まばたきをした。睫毛は庇のようにまっすぐで目を囲うように生えていて、垂れた目がじっとわたしを見つめている。

「お礼って?」
「あ、今日、ハンカチ返しに来たんです」
「ああ……いいのに」

 相好を崩し、彼は半分に減った荷物をそれでも震える腕で抱え直してまた進み始める。目当ての資料室に着き、そこに置いておいて、と言われたとおりデスクの上に書類を積むと、ファイルを棚に正しく戻して、彼はすたすたと部屋をあとにする。わたしもそれに続き、彼の背を追いかけながらしっかりと洗濯してお礼のお菓子を添えて袋に入れたハンカチを取り出した。

「これ」
「ああ、お菓子まで。ありがとうございます、わざわざ」

 髪の毛を耳に掛けて、伏し目がちになってそれを受け取った。白樺のような指がハンカチの入った袋をつまみ取る。

「せっかくだし、研究室のほうでお茶でもいかがですか?」
「え? でも」
「時間ない?」
「いえ……」

 なんとなく、彼の丸みを帯びた優しい声を聞いていると、何か小さな記憶の扉が開かれるような気分になる。覚えておくほどでもない小さな出来事を掘り返そうとするような、そんな不思議な感覚。いわゆる、懐かしい、という感覚。
 彼の声をどこかで聞いたことがあるのかもしれない。もしくは、先日ハンカチを貸してくれたときの記憶が叩かれているのかもしれない。
 少し高めの、心地よいテノールだった。

「この前、鈴井教授のお知り合いから美味しい茶葉をいただいたんです」

 雑多に物が積まれた研究室の椅子を勧められ、促されるまま座る。いったい何を研究しているのかは分からないが、うちの大学のこのキャンパスは文系なので、たぶん文系なんだろうなあとは思う。
 研究室、という場所に入るのは初めてでなんとなく落ち着かなくて、無礼を承知できょろきょろしていると、目の前のテーブルに湯気が立った美味しそうな緑茶の入った湯飲み茶碗が置かれた。

「どうぞ」
「ありがとうございます……」
「せっかくですし、このお菓子開けちゃいましょうか」

 わたしが持参したクッキーの袋を開けて、彼がひとつつまんで口に含む。コンビニでも買えるような、どこにでも置いてある安価なクッキーを、彼は大げさに美味しいと言って喜んだ。
 一生懸命息を吹きかけて冷ました緑茶を一口飲むと、たしかにふわりと茶畑を連想させるほどの緑の匂いが広がった。

「美味しい」
「でしょう。俺もまったくお茶にはあかるくないんだけど、なんか、老舗のお茶屋のものらしくて」

 自分が褒められたかのように悪戯っぽく笑い、彼もお茶を飲む。

「……あの」
「なんですか」
「お名前、うかがっても?」
「あれ……名乗ってなかったっけ……。平野和成です。和睦の和に成る、って書いてかずなりって言います」

 この棟の入口付近で会って尋ねた人から聞いた「平野くん」という答えを思い出す。やはり、この人が薄幸そうだというのは世間の共通認識なんだな。

「平野さん」
「ええっ、名前で呼んでくれないんですか、漢字の説明までしたのに」

 天を仰ぎ手で顔を覆うという、今時ドラマでも見ないようなしぐさに、知らず笑みが零れてしまう。顔を覆った手指の隙間からちらちらと覗く視線に促され、わたしはもう一度口を開く。

「和成さん」

 かずなりさん、と口に出すと、彼は満足げに何度も頷いた。両手で茶碗を持って、ひなたぼっこしているおじいさんのようなたたずまいでお茶をすすっている彼は、今日は白いワイシャツにボルドーのカーディガンだ。どことなく気品漂う、綿飴のようなふわふわの霞を毎日サラダボウル一杯分だけ食べる上質な暮らしをしていそうな儚い印象を、どうしても持つ。
 それにしても、昨晩遅くまでレポートを書いていたので少し眠たい。ふわ、と飛び出しかけたあくびを慌てて噛み殺し、わたしは自分も名乗ろうと顔を上げる。

「わたしは」
「知ってる。ながおか、たえさんですよね」
「……なんで?」
「なんでって、ふふ」

 おかしそうに和成さんが微笑んだ。口元に軽く握った拳を当てて品よく。わけが分からないで目を見開くと、彼はわたしの鞄の辺りを指差した。

「俺、あなたの定期入れを拾ったんですよ」
「……あ、そっか……」

 定期入れから見えた定期券の名前を彼が覚えていたとしてもなんら不思議ではない。

「たえ、ってどんな字を書くんですか?」

 やわらかに彼が呟く。髪の毛を掻き上げて耳に掛けるしぐさは、どうやら癖のようだ。

「……たくさんっていう字に、イギリスの英です」
「多英さんか。いい名前ですね」

 ほっそりとした腕で机に肘をついて指を組む。その組んだ指の上に顎を乗せ、飴玉を転がすように数度、たえさん、とわたしの名前を口の中で発音した。優しい甘ったるいテノールでそう、噛み締めるように名前を呼ばれると、心臓の奥のほうで誰かがとんとんと軽やかに足踏みしているようなむず痒さが襲う。

「ところで……」

 絡めていた指をほどき、和成さんがふと思い出したように視線をめぐらせる。

「このハンカチ、役に立ちましたか?」
「え……」

 優しいチョコレート色の瞳にまじまじと見つめられ、わたしはうろたえた。使ってない、とは言えないけれど、嘘もつけない。なんて言おうか逡巡し、結果的に曖昧に笑う。

「あ、はは……そ、そうですね……」

 彼女とはあれ以来話をしていないし、彼とももちろん会っていない。一度だけ彼から着信が入っていたものの、怪訝に思うも、連絡し返すような仲でももうないので、無視するついでに着信拒否に設定しておいた。希世からの電話は拒否しないが、彼からの連絡はもう一切受け付けたくない。惨めになるだけだ。それに、もしかしたら指が滑って間違えたのかもしれないし。
 学科の友人に下心丸出しで心配されたけれど軽くあしらっている。一週間近く経って、やはり、わたしの予想通り怒りは静まってしまっているのだ。あとは七十五日も過ぎればなかったこと、もしくは恥ずかしい過去に成り代わっているんだろう。何せ、大学というたくさんの人間が集まる場所は話題に事欠かないし、そうした話題は鮮度が命なので、二ヶ月半も経ってしまえばわたしと希世のキャットファイトもどきなど賞味期限どころか消費期限が切れたカビの生えた食パン以下だ。
 わたしの浮かべた笑みに何を思ったかは知れない。けれど彼ははっとしたように唇を尖らせた。