夢の跡

「なんですか、その不思議かつちょっとやらしい水着」
「これは、モノキニという……やらしいですか?」
「ちょっと」

 親指と人差し指の間を少し開いて、和成さんは目を細めた。

「俺にとっては目の保養ですけど……」

 黒い、胸元にフリルのあるモノキニを着てウエストに手を当ててみる。そんなわたしの背後を、すごい勢いではしゃいだこどもが走り去っていった。軽くぶつかられて、和成さんのほうに倒れ込む。砂に足を取られたわたしを支えた彼は、ため息をついて海水浴場のほうに目をやった。

「それにしても……すごい人ですね」
「夏ですからね」
「気温も高いし、砂は熱いし」
「夏ですもんね」

 あまり暑いのが得意そうじゃないから、海に行きたいという願望は完全な賭けだった。実際、彼はあの手この手でわたしを諦めさせよう断ろうとしていたのだが。
 じゃあ、希世と行ってきます。そう言った直後に反応がするりと変わったのだ。「女性ふたりではちょっと危ない」、とのこと。
 和成さんが海にどういうイメージを抱いているのかは知らないけれど、別にそんなに危険な場所じゃない。と思う。去年は直毅と一緒だったし、わたしがずっと住んでいたのは海のない場所だったから、あまり縁がなくてどうと断言もできないのだけれど。

「……和成さん、脱がないんですか?」
「俺、日焼けすると赤く水ぶくれになっちゃうので」

 情けなく眉を下げて儚く笑った彼は、水着の上から白い七分袖のシャツを着ている。海に一緒に入ってくれるつもりはなさそうだ。
 後ろでひとつくくりにした髪の毛を揺らし、駐車場のほうをちらりと見る。
 和成さんが普通免許も持っていた、というのは特に意外でもなかったけれど、でも、バイクを操っているのとハンドルを握っているのとはまた少し違って。やっぱり、車を運転している男の人って格好いい。安直に言うとその一言に尽きてしまうけれど、すごくよかった。
 ……話を戻そう、わたしだって日焼けはしたくない。

「和成さん、背中に日焼け止め塗ってください」

 日焼け止めを手渡して背中を向けると、和成さんがパッケージをまじまじと見て言った。

「海に入るのに日焼け止めって意味あるんですか?」
「ウォータープルーフなんです」
「へえ。では、失礼して」

 かたかたと容器を振る音がする。ぴた、と背中に日焼け止めで濡れた手が当てられて、あ、気持ちいい、と思っていると、なんだか手が不穏な動きをしている。

「……和成さん、何してるんですか」
「何って?」
「なんで水着めくってるんですか」
「少しのりしろというか、余計に塗っておかないとぎりぎりのところが焼けちゃうかなって」

 それらしい言い訳をして水着をめくる。やらしいのは水着ではない、和成さんだ。
 ため息をついて振り返ると、彼はひんやりとした触れると気持ちよさそうな、海辺に似つかわしくない笑みを浮かべた。

 ◆

「……」

 和成さんがめそめそと泣き真似をしている。実際、ちょっと目尻に涙が滲んでいるかもしれない。
 海で、いくら日焼け止めを塗っていたと言っても、やっぱり日焼けしてしまったのだ。かわいそうなことに、彼の首筋は赤く腫れ、水疱をこしらえかけている。軽い火傷だ。
 氷袋をつくって首に当ててあげると、冷たさに肩を跳ねさせて、それからのびのびと力を抜いた。

「……ごめんなさい」
「別に多英さんが謝ることではないですよ」

 ほんのりと火照った珍しい顔色で、彼は苦く笑う。
 わたしの手から氷袋を奪い、自分で都合のいいところに当てて、和成さんはため息をついた。それは、決していやな感じのものではなくて、どちらかと言うと、冷たい感覚に身体が喜んでいるかのようなものだった。

「しかし海辺の日差しっていうのはどうして街で浴びるより強いんですかね?」
「……もしかしたら、街でも水着でずっと立ってたら、海辺と同じくらい焼けるかも?」
「ああ、なるほど」

 想像しておかしくなったのか、少しだけ頬が持ち上がる。それから、ふと何かに気がついたように垂れた目を見開き、わたしの首筋に手を伸ばしてきた。

「多英さんも、すっかり日焼けしてますね」
「ウォータープルーフの力を過信してましたね……」
「そうですねえ」

 手の甲で、首筋をやわくさすりながら、吹き出した。なんとなく、骨が当たってくすぐったいので首をすくめると、今度はひっくり返して指の腹で少し強く押される。

「多英さんは、冷やしたりなどしなくていいんですか?」
「大した日焼けじゃないですし、お風呂のあとで化粧水をたっぷり擦り込んでおきました」
「ははあ」
「和成さんは、駄目ですよ。きっと化粧水しみちゃうから」

 唇を曲げて、おとなしく頷く。それからふっと何かに気づいたように、彼は氷袋をテーブルに置いてソファの上をわたしに向かってにじり寄ってきた。

「な、なんですか?」
「もしかして、もしかしてなんですけど」

 一瞬の隙を突かれ、ソファになかば押し倒されるようなかたちになってしまった。逃げ遅れた。いや、逃げなくてはいけない状況なのかは分かりかねるが。
 腕の中に閉じ込められてどきどきしていると、その腕が浮いて、わたしの着ていたスウェットを少しめくる。

「な」
「あ、やっぱり」
「え?」

 彼がしげしげと眺めていたのは、わたしのおなかと背中のちょうど境界線あたり、ウエストのくびれのところだった。

「何?」
「多英さん、うっすら水着のかたちに日焼けしてますよ」
「うそ?」

 スウェットを、自分でも見やすいようにもう少しめくって身体をひねって見下ろすと、……なるほどたしかに、ほんのりと水着と肌の境界線が分かる。
 どうせ見るのは自分と和成さんだけだし、数週間もすればきっと新陳代謝で肌が入れ替わって消える、くらいのうっすら加減ではあったものの、なんとなくショックである。

「和成さんがエロオヤジみたいに一生懸命塗ってくれたのに……」
「一言余計と言うか言いすぎというか……。まあ、ウォータープルーフを過信しすぎた罰ですね」

 エロオヤジ、という単語に心外というふうな顔をしながら、和成さんがずっとわたしのその日焼けの境界線をなぞっている。

「…………あの」
「はい?」
「えっと……」

 あまりにもいつまでもなぞるので、ちょっと変な気持ちになってきて、眉を寄せて身をよじらせる。

「今の身体の動き、やらしいですね」
「やらしくないです!」

 害のなさそうな人好きのする儚い顔で、のほほんと言ってのける。

「……和成さんがやらしく見ようとするから、そう見えるんです」
「まあ、そうですね。男ってみんなそんなものです」

 和成さんが男ってみんな、というふうなことを言うのは未だに違和感しかないのだが、彼はどうも自分を男性の標準値だと思っているようでしばしばそういうふうな表現をする。

「……で、やらしいついでに、何かサービスないんですか?」
「え?」
「運転お疲れさま、のご褒美とか……」
「……」
「日焼けして疲れた俺を癒してくれる、とか……」

 きらきらと期待に満ちた濡れた瞳が覗き込んできて、わたしはため息をつく。

「もう、何かしてほしいことがあるならはっきり言ったらどうですか!」
「いいんですか?」

 にやっと、その人畜無害な顔に似合わぬ勝気な笑みに、一気に後悔が襲う。

「やっぱりやめてください」
「いや、そうですよね、察してくださいなんて、傲慢ですよね」

 その夜、わたしが何をされて何をさせられたのかは省略させていただく。
 霞を食ってそうな顔で人を食いやがって、ほんとうにこれだから仙人は……!
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