シュレディンガーの和成

 ひとり部屋で食後のカフェオレをすすっていると、いつも和成さんから電話がかかってくるくらいの時間に、メッセージが届いて携帯の画面が明るくなった。友達かな、と思いつつちらりと見る。

『こんばんは』

 白紙だったトーク画面にその文字が浮かんでいて、わたしは既読をつけたことも忘れて呆けていた。我に返り、慌てて返信をする。

「電話じゃないなんて、珍しいですね」

 送ってから、こんばんは、に対して返事をしていないことに気づくも、今更こんばんはと言うのもおかしい。でも、それほど、彼が電話でないことは珍しいことだった。

『風邪で喉をやられて声が出ません』

 あらら。

「お大事にしてください」

 そう打ち込んで送信し、ちょっとそっけなかったかな、と思って、でも和成さんとのメッセージのやり取りが慣れなくて、絵文字などを使ってもいいものかと悩んでしまって、もう一文付け加えた。

「あったかくして寝てますか?」
『今バイトの帰りです』

 秒で返信がきて、そしてその内容にわたしは思わず頭を抱えた。

「なんで喉やられてるのにバイト行くんですか!?」

 メッセージで声を荒らげるというのもおかしな話だが、感嘆符と疑問符を併用することでそれを表現する。そしてそれはわたしの心の声そのものだった。なぜ、メッセージのやり取りにしなければならないほどに声が出ないのに、教鞭をとっているのだ。

『声は出なくても指示は出せます』

 何を、言っているんだ、この人は。

「そういう問題じゃないです」

 こちらの頭が痛くなってくる。なんで、風邪を引いているのにのこのこバイトに行っているのだ。菌をまき散らしてどうする。生徒さんやそのご家族にも迷惑がかかるし、何より彼自身の体調が心配である。
 ふと頭の中に、ホワイトボードを伝言板代わりにして生徒さんとコミュニケーションを取る和成さん、という面白い構図が浮かんだものの、首を振ってそれを頭の隅に追いやる。

「はやく帰って安静にしてください」
『分かりました……』
「風邪を舐めてかかると痛い目見ますよ」
『分かってますよ』

 分かってない。この人は絶対分かってなんかない。そもそも、何かあるとすぐ「徹夜だ」となって、二日三日の貫徹は当たり前のような忙しいこともあるらしい。自分を追い詰めるのがたいそうお得意なようである。いったい何がそんなに忙しいのか皆目見当もつかないが、彼はとにかく、論文や教授のお手伝い、そしてバイトのレジュメ作成などなど常に忙しそうなのである。
 昨日だって着信履歴、というか電話の切れた時間を見るに、夜中の一時半までは起きていたようだし……そういえば。

「でも昨日は元気でしたよね?」
『朝起きると声出なくて……』

 三月。日差しは徐々に暖かくなってきて、三寒四温という言葉が天気予報のお姉さんの口から零れるようなこの時期だが、朝晩は異様に冷えるのも事実だ。それに昨晩は特に、寒の戻りというやつで冷たい雨も降っていた。絶対、ソファの上で作業しながらうつらうつらして身体を冷やしたに違いない。

「今日は早く寝てください」
『今日徹夜で作業の予定なんですが』

 何を、言っているんだ、この人は。

「馬鹿なんですか寝てください」
『ええー……』

 何が、ええー、だ。もうちょっと自分を大事にしてほしい。和成さんは、自分をかえりみなさすぎる。

「身体が資本です」
『資本になるほど立派な身体じゃないです』

 屁理屈もここまで捏ねれば立派なコッペパンになりそうだ、と思いながら、どうにかこうにか説得を試みる。

「少ない資源を大事にしてください」
『厳しい』
「心配してるんです」
『優しさがしみます』

 なんだか、文字だけのやり取りだとほんとうにそう思っているのか、いまいち感情が伝わってこなくてもどかしい。彼が電話を好む理由が少し分かる気がする。

「思ってもないですね?」
『蓋を開けるまで猫が死んでいるかどうか分からないのと同様に、俺が徹夜をしたかどうかもまた翌日の顔を見ないと分かりません』
「何意味分からないこと言ってるんですか寝なさい」

 それっぽいことを言って、全然わたしの話に耳を傾ける様子がないのが腹立たしい。文章だけの会話は、こんなにももどかしい。
 寝ろ、を連発してどうにか彼を説き伏せた。と思う。


 翌日、研究室を訪ねてみればそこには彼の姿はなかった。代わりに、普段研究室を彼に任せきりでいないことが多い部屋の主がいた。嫌な予感しかしない。

「鈴井教授、あの」
「ああ、彼なら熱出して寝込んでるらしいよ。お見舞い行ってあげて」
「……あの、馬鹿……!」
「ははは、平野くんに馬鹿とか言えるのきみくらい」

 教授の楽しげな声を背後に、わたしは身体を怒りか呆れか、そのようなもので震わせる。
 絶対、あのあと徹夜したな。自業自得だ、お見舞いなんか行ってやるものか。
 歯噛みしながら、わたしの足は自宅ではなく彼の家の方角に向かっているのであった。

 ◆

 スーパーで、解熱剤とおかゆのレトルト、それから林檎をひとつ買った。

「今から行きます」

 返事を期待せずにメッセージでそう打つと、何秒と間を置かずに返信がきた。

『駄目です』
「なぜですか」
『風邪がうつるからです』

 熱を出して寝込んでいる、と教授が言っていたのでてっきり寝ているかと思ったが、即時返信ができるくらいなら大した熱でもないのかもしれない、と感じつつわたしは返信のメッセージを打つ。

「わたし今まで大した病気したことないので、大丈夫です」
『それは何の説得にもなりません』

 たしかに。でも、熱を出していると知ってしまった以上、そしてわたし自身には何の必要もない買い物も済ませてしまった以上、更に彼の家の最寄駅で降りてしまった以上、もう家に行かないという選択肢はない。

「もうすぐアパートに着くので」
『チェーンかけておきますね』
「寝ててください」

 こんなことを言ったって、彼がドアロックをかけないことくらい分かっている。結局は、わたしのしたいようにさせてくれるのだ。
 アパートの部屋のドアの前で、小さく咳払いして、チャイムを一度だけ鳴らして鍵を挿した。
 ドアを開けると、薄暗い。電気をつけるべきかどうか悩み、結局つける。ぱちん、と視界が開けてひとけのないリビングが広がる。当たり前だが寝室にいるようだ。
 とりあえず買い物袋をキッチンに置いて、コートを脱ぎ鞄も床に置いて寝室のドアを軽くノックして開ける。

「……入ってこないでください……」

 どきっとした。想定外に弱弱しい声だったから。いつもはつらつとした声だなんて天地がひっくり返っても言えないが、それにしたって弱い。

「大丈夫ですか?」
「……」

 もそ、と布団が動いて彼が顔だけ覗かせる。そして、いつもより更に潤んだ目がわたしを捉えた。

「うつるので、帰ってください」
「何言ってるんですか。おかゆ食べて解熱剤を飲みましょう」
「……食欲ないです……」

 泣いたような、濡れたまなざしがわたしをじっと見て、それから逸らす。そして、激しく咳き込んだ。

「熱何度あるんですか?」
「分かりません……」
「とりあえずおかゆを温めます」
「……」

 近寄るなと言わんばかりに眉をひそめている彼に強引ににじり寄り、額に手を当てる。思わず飛び上がって手を離してしまうくらい熱かった。そして、自分の額と彼の額を何度か往復して温度を確認してしまう。冷却シートも必要だったかもしれない。
 鍋にお湯を沸かしておかゆを温めながら、林檎の皮を剥いて擦り下ろそうとして、ふと気づく。この家に擦り下ろし器なんて便利なものがあるはずない、と。
 仕方ないので、食べやすいように小さく角切りにしてみた。だいぶ廃棄部分が出てしまったので、自分で食べる。甘い。しゃくしゃくしている。

「おかゆ温めました。起き上がれそうですか?」
「あなたは人の言うことを全然聞かない……」
「じゃあ、わたしが風邪引いててもお見舞い来ませんね? 帰れって言ったらちゃんと帰ってくれますね?」
「…………」

 一気に分が悪くなり、彼は黙り込む。この人はわたしがもし高熱を出したら、二十四時間体制で手厚い看護をするタイプの人なので、そこを逆手に取ってみる。
 のろのろと上半身を起こした彼の口元に、おかゆをすくったスプーンを差し出す。

「はい、あーん」
「……」
「あーん」
「……こどもじゃないんですけど」
「あれ。こういうの好きだと思ったんですけど……」

 てっきり、彼女にあーんしてもらうのとか好きなタイプだと思ったんだが。違ったのか。普段の軽やかさがまるでない別人のような反応に、こちらが困惑してしまう。
 ややあって、彼はためらいがちに口を開けた。

「嫌いではないですけどね……」

 しぶしぶ、といった体でスプーンを口に含んだ彼は、咀嚼するまでもないそれをいつまでも飲み込まない。
 どうしたのだろう、と思っていると、ようやく飲み込む。嚥下機能が低下しているのだろうか。
 そのまま、食べさせてあげてさっさと横になろうとする和成さんに水の入ったコップを差し出す。

「かなり熱高いみたいなので、解熱剤飲みましょう」
「薬を飲むと悪夢をみるって言いません?」
「……聞いたことないです」
「抗アレルギー剤とか……」
「じゃあ問題ないです。これ解熱剤なので」

 今度は、彼は頑なに口を開こうとしなかった。薬を飲めとコップを押しつけるが、それを頑として受け取らない。

「もう。飲まないとつらいんですよ」
「……」

 だんまりだ。絶対に俺は口を開かないぞ開いたら無理やり薬を放り込まれる。そう言わんばかりの表情である。たしかに、わたしが薬をすでにシートから取り出しててのひらにあけてしまっているのも、その猜疑心を煽るばかりかもしれない。

「飲まないと、安眠できませんよ」
「……」
「早く元気になってほしいです」
「……」
「……飲まないならわたし帰ります」

 目が、ようやくちらりと薬を見た。そして、わたしと薬を交互に眺め、顎に梅干しをつくるほど唇を曲げて、ようやくため息とともにコップを受け取る。

「……悪夢みません?」

 最後の抵抗のつもりか、全責任をわたしに押しつけようとしている。わたしは、ここぞとばかりに頷いた。

「わたしがとなりにちゃんといるので、悪夢をみても大丈夫です」
「……答えになってません……」

 それでも、ようやく彼の顔から緊張の色が抜けていく。そして、薬を飲み干して横になった。

「ところで」
「はい?」
「昨日徹夜しました?」
「…………してません」
「しましたね?」
「……すみません」

 結局、蓋を開ければ風邪の引き始めに徹夜なんて馬鹿げたことをしている。まったくもう。
 そういえば、角切りにした林檎をキッチンに置き去りにしてきてしまった。立ち上がると、彼が慌てたようにわたしの服の袖を引っ張った。

「俺薬飲んだんですけど」
「え?」
「帰っちゃうんですか」
「帰りませんよ。林檎、キッチンに置きっぱなしなので」

 言うと、袖を引っ張っていた手が今度は手首に巻きついた。

「行かないでください」
「……」
「林檎なんていりません。となりにいてください」

 でもせっかく苦労して角切りにしたのに……と思いはしたものの、駄々を捏ねてコッペパンにしようとしている和成さんはちょっと可愛い。
 なので、わたしは思い直して再びベッドわきに腰を落ち着け、彼の汗で湿った黒髪を梳いた。

「分かりました」
「あの、もうちょっと髪の毛撫でて」
「……なんで?」
「気持ちいい」
「……分かりました」

 つやのある髪の毛は、いつもさらさらと触り心地がいいのに、今だけべったりしていて、なんだか可哀相だった。だから、早く治って元気になって、という気持ちを込めて、精一杯優しく梳く。
 やがて、うっとりと目を閉じた彼の口から、やわらかな寝息が零れ出でる。わたしより宵っ張りで老人みたいに朝の早い彼がこうして無防備な寝姿を見せることはまれなので、しばしその愛らしい寝息を堪能することにする。


「……だから俺は言ったんですよ。来るなって、うつるって」
「……」
「苦しくないですか? 水、いります? 手はつないでおきますか?」
「……大丈夫です」

 数日後、見事に彼の風邪を貰い受けたわたしは、自室でうんうん唸っていた。彼は、わたしに説教をしながらも手厚い看護をしてくれている。予想は大当たりだ。二十四時間体制も、あながち誇張ではなかった。
 毛布で簀巻きみたいにされながら、手厚いながらも不慣れな看護に、わたしはやっぱり笑みを禁じ得なかった。