02

 わたしとしては、彼女と縁を切ったつもりはないけれど、真面目な向こうがどう思っているかは分からないから。こんなのは自分が傷つかないための言い訳に過ぎないことも分かってはいる。けれど、やはり大事な人を同時にふたりも失うのはつらいのだ。そして、親友と恋人のどちらを取る、と問われればわたしは迷いなく、冷め切った仲の恋人ではなく、親友を取るのだろう。
 真面目だから今までわたしに言えずにつらい思いをしていたのだろうな、とか、あの性格では絶対あの男に泣かされる羽目になる、とか、頭の中では彼女をいたわるような言葉が渦巻いていて、自分で自分が気持ち悪くなる。もっと恨むとか憎むとかするほうが自然で、まるで自分が偽善者のような気持ちになってくるのだ。
 煙草の煙を吸い込んだこともあって、胸がむかむかする。最悪だ。
 こんなふうに負の思いを溜め込んで悲劇のヒロインぶったって、何の解決にもならない。
 冬の空気は生命の匂いがまったくしない。死んだような空気を吸いながら、とぼとぼと構内を歩く。自販機の前で、ミルクセーキの缶を捨てて新たにあたたかい飲み物を買うか安い水にするか悩んでいると、声をかけられた。

「多英、こんなとこいたの」

 自分の名前が、漢字はともかく響きが今時じゃないので好きじゃないと言ったから、この男はわざわざ女友達や恋人くらいしか呼ばない名前を口にしてくるんだろうなと思っている。結局安い水にして、ボタンを押して落ちてきたペットボトルを拾いざまにおもむろに振り返る。

「花村先生が探してたけど。ケータイ見た?」
「見てない。先生が? 何の用事だろ?」
「知らんけど。つーか、水とか、しけてんな」
「ほっといてください」

 水の封を切らずに片手に持って鞄を探る。携帯を開くと、なるほど寿栄からのメッセージを受信している。それにしても何度見ても縁起のよさそうな名前である。
「その猫みたいなジト目やめてくれない」
「わたしが猫みたいな目をしてるのはわたしのせいじゃなくて」
「はいはい、親のせい、ひいては親も親のせい、だろ」

 分かっているなら、最初から目つきのことなど言わないでほしい。気にしているわけじゃないし、むしろけっこう気に入っている目のかたちではあるけれど、ジト目、と言われるといい気分ではない。

「つうか多英さあ、学科の女子の間で話題騒然よ」
「何が」

 人に、水とかしけてると言ったくせに自分も水を購入し、寿がキャップを回し一気にあおる。

「しらばっくれるおつもりですか」
「別に」
「どうよ、無関係な人間にこうやってマイク向けられてフラッシュたかれる気分は」
「最悪」

 まったく乗ってこないわたしに、その辺のやんちゃな高校生みたいに剃り込みを入れている眉を寄せ、寿は着ていたキャメルのダッフルコートの一番上のトグルをいじりだす。天然パーマだというその黒い癖毛をくしゃりと音がするほど握り、彼はわたしの顔色をうかがうように流し見て、それから目を逸らす。
 何を話題にされているのかくらい分かるが、それにしても女子の情報伝達速度はほんとうにすごいと思う。事実が発覚してまだ二日目であるというのに。

「てか、希世もよくやるよな。親友の彼氏だぞ?」
「……」

 ペットボトルのキャップを開ける。そこで思い出した、ペットボトルの中身をストローで吸い出したいのだということを。あおって飲めないとかかわいこぶるつもりはないし夏はちゃんとペットボトルに口をつけるが、冬にコンビニで飲み物を買うときは図々しくもストローをつけてもらうように頼んでいる。こんなに寒い日に冷たい飲み物が大量に一気に喉を通り胃に収まるのは、想像しただけで身体のあらゆる場所が凍りそうだ。ため息をついてキャップを閉めた。

「しかも四ヶ月も隠してたとか、もう何も信じられんよな……」
「……は?」
「え?」

 半分くらいに中身の減ったペットボトルを手の中で持て余すように転がしては軽く宙に投げていた寿が、わたしの、は、という答えに首を傾げた。それから、あれ、と言う。

「……多英、もしかして知らなかった?」
「…………」

 親友は、希世はわたしに二ヶ月前から、と言った。

「女の子ってけっこうエグイよな。希世囲んで皆で総攻撃してゲロらせたらしいよ」

 それはたしかにエグイな、と思う。当事者のわたしだってそこまで追及していないのに、なぜ部外者が当事者が知らないことを知っているのだ。ゲロ、が言葉通りのものではないとは思いつつ、わたしは可愛い顔をした希世が嘔吐しているところを変に想像してしまった。
 そうか、希世はわたしへの告白で嘘をついていたのか。
 それを知っても、わたしの心に怒りはあまりわかない。それよりも、やっぱり、まんまと騙された自分への情けなさがこみ上げる。四ヶ月も、わたしは彼と彼女に欺かれていたのか、みっともない。
 果たして、四ヶ月前からふたりに身体の関係があったのか、それともその頃はただわたしに関する相談で密に会っていただけだったのか、それは今となってはどうでもいいことだ。たぶん、希世がゲロったとおり、会い始めたのは四ヶ月前、そしてわたしに告白したとおり、身体の関係が始まったのが二ヶ月前、ということなんだろうけれど。それにしたって四ヶ月前って、夏だ、まだ彼とわたしは不仲ではなかったはずなんだが。

「ていうか寿も、けっこうそういう噂話好きなんだね」
「俺が、って言うか、俺の彼女がな……」
「……ああ」

 寿の彼女はたしかに、率先してそういうのをつつきたがるようなタイプだな。と、女子大生を絵に描いたようなその顔を思い浮かべて納得する。女子大生を絵に描いたような、というのは皮肉でもなんでもない、去年のミスコンに出場したのだから。たしかグランプリは三年生の美女で有名な女子アナ志望の先輩だったけれど、それに出る度胸や周囲の後押しがあったことは間違いない。
 つまり、絵に描いたような女子大生、というのは間違っていない純然たる事実だ。
 性格がいいとはお世辞にも言えない、女子特有の底意地の悪さとねちねちした陰湿さを併せ持った彼女と寿が付き合う理由は、単純に「顔がいいから」だ。寿だって隅に置けない顔をしているので、お互いアクセサリ感覚らしい。どう頑張っても中の上程度の、寿に言わせれば猫みたいなジト目をしているだろうわたしには持ち合わせようのない感覚だ。

「ていうか、学科で噂って、わたしもう学科単位の授業受けたくない……」
「黙ってりゃ噂なんて四十九日だよ」
「七十五日だよ馬鹿」

 なんでわたしが死んだみたいになっているんだ。

「それに、当事者が黙ってたって、部外者が黙ってないんだよ」
「女子って……怖いなあ……」

 まったくもって同感だ。しかし、ひとたび立場が変われば、わたしだって寿の言う怖い女子の一端を担ってしまうのだろう。それが一番怖いし、嫌だ。
 空を見上げる。どんよりと曇っていて、今にも一雨きそうだった。この時期の雨は、冷たいから嫌いだ。夏のスコールともなるとまだ情緒が残されているような気がするしほんのわずかに冷たい空気を運んでくれるけれど、冬の雨なんていいことはひとつもない。まあでも、今日は一日薄曇りで、雨の予報は出ていなかった。
 雪になればまた気分も変わるんだろうか。そう思うけれど、こんな場所に降る雪の質は北部に降るそれとは全然違うし、吹雪いてしまうと情緒も何もない。結果わたしは晴れているのが一番好きだ。

「なんか、いいことないな……」
「水なんか飲んでるからだよ」

 独り言に対して、まるで理解できない横槍を入れてくる寿のふくらはぎを軽く蹴り、ため息をついた。吐いた息は、白く染まってわたしの顔周りを遊ぶように上っていく。
 あまりの寒さにコートのポケットに手を入れると、指先にやわらかい何かが当たった。なんだ、と思うと同時にその存在を思い出す。ハンカチだ。幸薄げな濡れた垂れ目を思い出す。上手にテンパリングされたチョコレートみたいな、取り出して口に含んだらきっと甘い、そんな瞳。

「……十二号館って、何するところだっけ」
「なんだっけ。そういや、入ったことないな。なんで?」
「いや……ああ、研究室とか入ってる棟だっけ?」
「あ、そうそう、そんな感じ。だからなんで?」

 十二号館にいたということは、院生か何かなのだろうか。教授が怒るとかなんとか、彼は言っていた気がする。せめてその教授の名前さえ分かれば、探すのも簡単なんだろうけれどあいにく彼は教授としか呼ばなかった。

「寿」
「なに?」
「わたし今どんな顔してる?」
「んー……」

 剃り込みの入った不真面目な眉が神妙な表情をしてわたしを覗き込み、彼はこう言った。

「寒そう。鼻の頭真っ赤」