エピローグ

 どんな手を使ってでも、死んでもきみを手に入れる。
 そう、いっそ死んでもよかった。それできみの中に俺を永遠に刻み込めるなら。
 でも結果的に、きみには負い目ができてしまったのだから、同じことかな。
 きみの幸せが第一だから、閉じ込めるなんて馬鹿げたこともしなければ、短絡的に命を奪う真似もしない。けれど、そもそもきみの幸せが俺と一緒にあることだけは確信している。どれほど自由にさせても必ずここに帰ってくるのは分かっている。だから、監禁したり生命を絶つなどのことは、する必要のないことだ。
 きみを幸せにするのはたとえば嘘をついた親友でもなければ、きみを裏切り怖い思いをさせた男でもなく、鈍感な気のいい男友達でも口の軽い女友達でも、そしてきみ自身でもない。
 人は自分を幸せにできるのは自分だけだと豪語する。けれど幸せなど相対的なものだ。自分と他人、過去と現在、そのようなものを比べ、さらに自分の置かれている環境が変化することにより、幸せのかたちもまたたやすく変化してしまう。幸せなどというものはあまりにもやわらかく、そして脆く、周囲に影響され姿をくらますものだ。
 自分ひとりで追い求めるのは、はっきり言って困難である。
 けれど、たとえば他人がそれを与えてくれるとすれば?
 きみを守るためには手段を選ばないし、うれしくさせるし喜ばせることもできる。きみが何を幸せと思うのか、きちんと理解してその都度与えることができる。
 恋愛で得られる刺激は、ある意味で爆発的だから分かりやすい。労働や趣味事での達成感よりも楽に快感を味わえる。
 労せず与えられる甘い蜜は、人の判断力、思考力を鈍らせる。たっぷりと吸わせれば、いずれ自力で幸せを追い求める努力を放棄する。
 だって手の届く場所に欲しいものがあるのにわざわざ探しに行く必要なんかない。
 だから断言する。
 きみは、俺以外では、もう幸せにはなれない。