02

 結局、そのあとは手をつないだまま最後までぐるりと魚を観賞し、ペンギンも見たし写真もたくさん撮ったし、二度目の水族館をわたしは満喫した。
 帰り、手をつないでホームで電車を待ちながら、やっぱり三月と言えど夕方になると寒い、と身体を震わせる。
 スヌードも巻いてくればよかった、と若干の後悔を抱きながら和成さんに寄り添うようにして暖を取ると、顔を覗き込まれた。

「ねえ、多英さん」
「はい」
「新しいおうち、どうですか?」

 ストーカーの件が落着したので、わたしは新しくアパートを借りた。前より少し広くて、けれどちょっと不便な場所に建っているので家賃は安い。
 逡巡し、見つめ返す。そこでちょうど電車がやってきたので、乗り込んだ。

「やっぱり、ひとりはちょっと不安です」
「もう、ストーカーいませんよ」

 安心させるように、和成さんはつながれたわたしの手を揺らす。

「……分かってるんですけど、何だろう、視線とか物音に過敏になっちゃって」

 自分でも自意識過剰だとは思うものの、植えつけられた恐怖はそう簡単には引っこ抜けない。
 隣人の生活音や、ひとけのない住宅街を歩いていて背後に人が立ったときに、急にぞっとしてしまう。これは、もしかしたらこれから先一生そうかもしれないし、ある日突然気にならなくなるかも分からない、そんなものだった。

「それに……刑事さんが言ってたように、もしかしたら直毅だけがわたしたちを見ていたんじゃないかもしれないし」
「……思い込むことにより、それが真実になる。そういう場合があります」
「え?」
「たとえば……俺の話なんですけど、生徒に対してこの子はできる子なんだって期待……ある意味そう思い込むんです。そうすると、俺がそう思っていることが生徒本人にもおのずと、自然に伝わってやる気が出る」

 思い浮かべると、なんとなく分かる気がする。先生に、あなたはできる子なのだ、そう思われることはけっこう誇り高いことかもしれないし、純粋な気持ちを持っていれば期待には応えたくなる。

「でもこれって、お世辞で言っていると相手もそれを嗅ぎ取ってしまうんですよね」
「そうですね」
「つまり、相手をうまく操縦するために、自分をまず騙すことから始めるんです」
「……なるほど」

 たしかに、まず生徒さんをやればできる子だと自分が思い込むことから始めなくてはならない。それは彼らの才能が開花していない段階では、もしかして賭けになってしまうかもしれないし、つまり結果的に自分を騙すということかもしれない。

「俺もけっこう自分に暗示をかけています」
「生徒さん相手に?」
「まあ、そうですね。それ以外にも、いろいろ」
「いろいろって?」

 首を傾げれば、彼はやわらかな笑みを浮かべてとろけるような口調で告げた。

「多英さんもそうやって、俺が操縦しているかもしれませんよ」
「わたしを?」

 わたしが、彼にうまく操られていると言うのだろうか。できる、と信じられた彼の生徒さんたちのように。
 嘘かほんとうかよく分からない曖昧な、どうとでも取れそうな表情を顔に乗せている。

「そうだ、多英さん今日俺の家寄っていきません? ちょっとお高いチョコレートいただいたんです」

 急に話題を変えて、彼がお誘いをかけてくる。お高いチョコレート、という餌までぶら下げられて、特段断る理由もないので頷く。

「行きます」
「ベルギーで修業したショコラティエのチョコレートらしいですよ」

 チョコレートの本場だ。ただ、わたしは外国産のチョコレートに関しては好き嫌いが大きく分かれるので、もし外国産チョコレートの嫌なところを色濃く受け継いだ味だと嫌だなあ、と即答したことを後悔しながら話を戻す。

「それで、犯人がもうひとりいるかもしれないことと、その、えっと、思い込むことでうまく相手を操縦する話に何の関係が?」
「ふふふ、知りたいですか」
「はい」

 一瞬、彼の瞳が鋭く輝いたような気がした。けれどそれはほんとうに一瞬で、次の瞬間にはいつもの垂れた柔和なチョコレート色に戻る。
 大きな駅に電車が停まり、たくさんの人が乗ってくる。人に揉まれて押し合いへし合いしながら、和成さんから離れないようにしがみついた。
 過密な人いきれに、今度はコートを着ていると暑くなってくる。電車の窓がうっすらと湿って曇りを帯びる。
 話どころじゃなくなって息を詰めているうちに、電車は降りる駅に滑り込んだ。

「すごい人でしたね……多英さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫……あ、人身事故の影響でダイヤが乱れてるらしいです」
「それでですか」

 ふたりで納得し、火照った頬をひんやりとした空気に晒しながら、アパートまでの道を手をつないで歩く。

「そうだ、さっきの話の続き」

 思い出して言うと、和成さんが鍵を取り出した。彼のアパートは駅からほど近い場所にあるのだ。あまり交通の便のいい地ではないけれど、こんなに駅に近くてあの間取りなら、けっこう家賃も、と下世話なことは何度か考えたが、もちろん聞けるはずがない。
 鍵穴に鍵を挿して、ドアを開ける。

「どうぞ」
「お邪魔します」

 先に通されて、勝手知ったる我が家のように電気をつける。ぱちん、という音とともにわたしたちが入室したことにより埃が舞ったのが肉眼で確認できる明るさになった。

「話の続き、ね」

 独り言のように、ほとりと落ちたその言葉は、しんと静まり返った空間にいやに響く。

「多英さん、今幸せですか?」
「え……何て……?」

 靴を脱いだ和成さんが、口元だけで微笑んで後ろ手に鍵を閉めた。