01

 海沿いは風が強くて、冷たい。
 もう暦の上ではすっかり春だ。日差しもぽかぽかとあたたかいし、花粉の影響か空気が徐々にもったりしてきた。しかしそれでもまだまだ冬物のコートが手放せないわたしと和成さんはチケット売り場で揉めていた。

「俺が出します」
「駄目です」

 次は大きな水族館。そんな他愛ない約束を彼はちゃんと覚えていてくれた。あのときイルカのショーが観たいと言ったわたしの希望を叶えるため、海のすぐ近くまでやってきたのだ。
 入場チケットを、奢りにするか割り勘にするかでこんなに売り場の前で揉めるカップルもあまりいないのではないか。そう、皆思っているのか、行き交う人たちがちらりとわたしたちを見ては目を逸らしていく。
 親子連れやカップル、友達同士。休日の水族館はそのような人々で溢れていた。

「何で駄目なんですか?」
「これは同意の上でのデートだからです。だから対等な関係を……」
「前回が強制だったかのような」

 呆れた様子で大仰に悲しがるそぶりを見せた彼が、チケット売り場にできた列に並ぶ。着々と進みながら、勝手に財布からふたり分の紙幣を出している。

「自分の分は、自分で出します」
「男にいい格好させてくださいよ」
「和成さんの矜持はどうでもいいんです」
「ひどい」

 わたしも財布を取り出したところで、列の最前線、チケットの売り子さんの前まで来た。そこで、和成さんが素早くお金をカウンターに出して大人二枚と言う。

「あっ」
「多英さん、後ろにも人が並んでいますので、ここでもたもた揉めるのは得策じゃないと思いませんか?」
「……」

 チケットを受け取った彼が一枚わたしに差し出す。それをしぶしぶ受け取って、両手で名刺を持つように親指と人差し指で挟む。

「さ、行きましょう」

 そそくさと入場ゲートのほうに向かうその細い背中を追いかけていく。追いついて、ため息をついた。

「帰りに、コーヒーが飲みたいです」
「ん? 構いませんよ?」
「コーヒーはわたしがお金を出します」
「……強情ですね」

 苦笑いして、けれどわたしの我を通してくれるらしい彼は、肩を竦めた。そのしぐさが似合ってしまうのが、なんだか余計に腹立たしい。
 平日の小さな水族館とは違い、休日の大きな水族館は、人でごった返していた。こどもが騒ぐ声が、本来静かであろう空間を引き裂いている。それを微笑ましい、でもちょっとうるさい、と思いながら、水槽から目を離す。

「和成さん、イワシ」
「美味しそうですね」

 群れで泳ぐイワシの優雅な姿を見て、和成さんはあられもない感想を述べる。
 ふと、コートのポケットに入れられた手に目が行った。
 前回は、つなげなかったけれど。そう思ったものの、ポケットに入っているのを引きずり出してまで強引につなぐ勇気はない。
 ふらふらと自分の手を揺らしてみるものの、彼の視線は水槽に向いていて、わたしが手持ち無沙汰にしていることなんかまるで興味がないようだった。

「右回りですね」
「え?」
「イワシの泳ぐ方向です」
「……たしかに」

 じっとよく見れば、たしかに右回りだ。きらきらと薄暗い照明に照らされる銀色の群れが時計の針のようにきちんと、一匹も乱れることなく右回りだ。
 美味しそうだと言いながらきちんとそういう細かいところまで観察しているのに、わたしの手がお留守なことには気づかないらしい。
 水槽を見て回りながら、魚についてああだこうだと喋る。
 和成さんは魚には特に詳しくはないようではあるが、水槽の説明書きを熱心に読んで、なるほど、と何度も頷いている。

「チンアナゴのチンって、犬のことなんですね」
「どの辺が犬なんでしょうね」

 砂からにょろにょろと頭だけ出しているチンアナゴをじっと見つめ、唸る。犬が名前の由来であることが納得がいかないようである。

「顔でしょうかね……」

 結局、イルカのショーがおこなわれるステージまで、わたしは手をつなげずじまいでずるずるとたどりついていた。魚はもちろんきれいではあるものの、魅力の半分も楽しめていない。
 あと十五分ほどで、ショーが始まるらしい。和成さんは真剣に席に悩んでいた。

「前だと水かぶりそうですけど、でも臨場感を取るならやっぱり前ですかね」

 そんなことを言っているうちに、こどもたちとその親が最前列を占拠してしまっていて、わたしたちは中間くらいの席に座る。

「楽しみですか?」
「はい……」
「なんか、元気ないですけど」

 別に、と言おうとして思いとどまる。彼に、別に、と言うと追及されそうだったからだ。
 代わりに笑顔をつくってみる。

「イルカ、生で見るの初めてです」
「実は俺もです」

 そんなことを話しているうちに、スタッフが出てきて軽快なトークを始めた。そして、あれよあれよとイルカの曲芸が始まる。
 可愛いイルカたちが華麗な技を次から次へと披露するのを見ているうちに、わたしは手をつなげないでいた鬱憤をすっかり晴らしてしまった。特に大ジャンプは迫力満点で、わたしたちの席にまで少し水飛沫が飛んできたくらいだった。
 もちろん、最前列のみならずこどもたちは大喜びで、わたしも満足して余韻に浸る。

「可愛かったですね……」
「イルカは賢いですね。多英さんを喜ばせる方法を俺より知っていそう」

 なぜかわずかふてくされたような顔をして、和成さんはイルカのはけていった方角を見つめ、立ち上がる。
 手がつなげないのは、たぶんわたしが意気地なしであるせいだけれど、せめてもの反抗で頷いてみせた。

「そうかもしれません」
「あっ、そういうこと言うんですか」

 席を立って案内の矢印通りに進みかけると、後ろから追いかけてきた和成さんがぎゅっとわたしの右手を掴んだ。

「っ」
「何怒ってるんですか」
「……別に」

 あっ。と思ったが、時すでに遅し、覆水盆に返らずである。

「多英さんの別には全然別にじゃないんですよね」
「……」

 やわらかく手を握り直されて、しっかりと指と指を絡める。絶対、わたしがあげたハンドクリームを使っていない。そう言い切れる荒れ具合に、ようやく唇が緩んだ。
 今度はリップクリームを買ってあげようと思っていたが、ハンドクリームが使ってもらえていないのならきっとリップクリームも宝の持ち腐れになってしまう。

「和成さん、ハンドクリーム使ってます?」
「……お昼どうしましょうか」

 面白くなるくらい露骨に視線と話題を逸らした彼に、吹き出す。彼もちょっと笑っている。

「一応何回か使いましたよ。でもべたべたするっていうか」
「あかぎれできちゃいますよ」

 ばつが悪そうに鼻の頭を掻く。白樺の枝みたいな人差し指は寒そうだ。