02

「これは言いたくなかったんですけど、多英さんの慰めになるなら」
「……?」
「カツアゲされてた日、俺百万持ってたんです」
「……は?」

 彼は、だってカツアゲしそうになっていた怖いお兄さんたちに、今持ち合わせが、と言っていたじゃないか。
 もちろん百万円持っていますと馬鹿正直に告げる奴はいないとは思うが、そんな大金を持っていてあんなふてぶてしい態度で動揺もせず持ち合わせがないなんて、言えるものだろうか。

「高校時代からこつこつ貯めていたやつを少額投資に回そうと思ってて、銀行行く途中だったんです」
「少額投資……って、コマーシャルとかでやってる?」
「そう。だって、口座に寝かせておいてもカビが生えるだけでしょ?」

 そういえば、そういった非課税の少額投資は限界が百万円とかそれくらいだった気がする。

「そこであのチンピラどもですからね……とことんついてないなと思った」
「……たしかに」
「たしかにじゃないですよ。俺は女神に助けられたんですから」
「え」

 ベッドのとなりに椅子を置いて座っているわたしの額に、人差し指が突きつけられる。ふと見ると、和成さんは少し身を起こして顔を歪めていた。

「あの、まだ起き上がらないほうが……」
「あのとき、多英さんが声を張ってくれなければ、俺の百万は確実に飛んでました」
「……」
「別に金額でどうこう言うわけじゃないんですけど」

 三たびのため息をつき、彼はベッドに横たわり唇を尖らせ眉を寄せた。

「お金はどうでもいいと思ってました。……俺、あんまり何かへの執着っていうものがなくて。だから金を巻き上げられるより、暴力をふるわれるのが嫌だなあくらいに思ってて、でもだからと言ってやすやすと大金を渡すのも屈服したみたいで嫌だし。それであんなことになっていたわけなんですけど。俺、多英さんが声を張ってくれたの、すごくうれしくて。見た目もこんなひ弱でで性格もちょっとひねくれているので、ああやって他人に露骨に無償で気にかけてもらったことないんですよね。だって多英さんにとっては通りすがりのどうでもいい男だったはずでしょ? 逃げるほうが安全なのに、多英さんは俺のために声を張った。そのときにほとんど初めて、他人に、多英さんに興味がわいたんです。なぜこの人は見ず知らずの他人にこんなことができるんだろうって」

 それは、わたしが和成さんに抱いていた気持ちと似ていた。なぜ、彼は一度助けただけのわたしにここまでできるんだろうって。

「どうして、それだけでここまで……?」
「……最初は興味だけだった」

 過去を探るような、舐るような視線を虚空に向けて、彼はそこにある秘密を暴こうとするかのように目を眇めた。

「でもそもそも、人間性そのものに興味がわいた自分に、少し驚いた」
「……飼ってたカブトムシ以外に、興味がなかった?」
「……母から聞いたんですか」

 苦虫を噛み潰したような顔をして、彼は無理やりその唇で笑った。

「今でもわりと他人には興味ないですけどね」

 遠い目をして、乾いた笑いを漏らした和成さんが、つまり、と言う。

「多英さんは、今回俺に守られたことで、百万の貸しを返してもらったと思ってください」
「和成さん、自分の命がたった百万円でいいんですか?」
「けっこう高値じゃないですか? ああでも臓器の闇取引とかはもう少し値が張りそう……」

 のほほんと言うので、わたしは思わず彼の寝ている枕のとなりに拳を振り下ろした。安いスプリングが軋んで、口をつぐんだ和成さんがぽかんと間抜けな顔をする。

「人の命はお金じゃないです! わたしがどれだけ心配したと思ってるんですか!」

 先ほど我慢した涙が、ぼろぼろ溢れてくる。

「和成さんがもし死んじゃったら、わたしどうすればいいんですか、お礼も言い切れてないし、謝罪もし切ってないし、それに!」
「た、多英さん、一応ここ病院なので……」
「まだ好きって言ってない!」
「……は?」

 垂れた目を精一杯見開いて、和成さんがわたしを見ている。その視線に、はっとした。
 今わたしはなんてひどいタイミングで告白してしまったのだ。

「多英さん、今なんて?」
「あ……えっ、と……」

 先ほどまでの勢いはどこへやら、わたしは顔を赤くしてしおしおと萎れていく。半ば浮かせていた腰を椅子に落ち着けて、未だ流れている涙を拭おうと頬に手をやると、火傷したように熱かった。
 もう、悲しいとかそういう理由ではなく、単純に感情が高ぶって惰性で流れているだけの涙だ。早く止めたいのに、そんな気持ちに反して涙腺は全然活動の手を緩めてはくれない。

「多英さん、俺のこと好き?」
「……」

 ここが病院でなくて、和成さんを前にしていなくて、ひとりきりだったなら、間違いなく手足をばたばたさせている。
 チョコレート色の瞳がにわかに糖蜜のような濃い色を帯び、心なしか彼の顔色までわずか明るくなったように見える。その些細な変化を捉えてしまう自分からも、変化そのものからも、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

「まだ言ってないんですよね? じゃあ言って」

 意地悪だ。頬に置いていた手を口に当て、絶対言わない、という意思表示をしたにもかかわらず、彼はあろうことか無理を押して身体を起こしてベッドの上をにじり寄ってきた。

「弾みじゃなくて、ちゃんと、聞きたい」
「安静にしてください……」
「多英さんが、ちゃんと言ってくれたら、安静にします」
「…………」

 それを言われると弱い。
 期待にか、もともと潤みがちな瞳を更に潤ませて、情けなく眉を下げて、口元は笑みを隠し切れていなくて口角が持ち上がっている。
 人に好きだって言うのなんか簡単だった。直毅のときだって、麻生先輩のこと好きかも、となんとなく言えば、あ、オレも、なんて返ってきて。簡単にそういうことって始まるんだと思っていた。
 でもこの人に、わたしのためなら自分の身さえ投げ出すような人に、好きだと告げるのは、ひどく勇気がいることだった。
 だってそれはもうどこにも後戻りなんてできない行為だからだ。この人の手を取って腕に抱かれてしまえば、きっともう今まで通りの生活なんてできないと、わたしは分かっているから。
 和成さんがいるまったく未知の世界と、今まで通りのわたしの生活。そっとふたつを秤にかける。
 結果は火を見るよりも明らかなのに。

「……す、き、です……」

 燃えさかる頬をどうしたらいいのか持て余し、わたしは蚊の鳴くような声でそう囁いた。案の定、和成さんは儚い笑みを乗せて顔を近づけてきた。

「聞こえませんでした」
「意地悪……!」
「はい、もう一回」

 白樺の指がそっと頬にかかる。きっとわたしの頬が熱いせいではあるのだろうがひんやりと体温の感じられないその指が、あの夜わたしの涙を拭った直後に力を失くしたことを思い出し、ぞっとする。
 この機を逃したら、きっとわたしは意地を張ってしまってもう言えない。

「すきです。和成さんが、すきです」

 言葉にすると、かたちにすると、それらはわたしの心の中にあったときよりも生き生きとして、可憐な色をもらって花弁のように舞っていく。
 わたしの口からひらりひらりと零れ落ちた花弁たちは、きちんと和成さんの心に届いたのだろうか。
 伏せていた目をそっと上げると、和成さんはこれ以上幸福な笑顔ってあるんだろうかって思うくらいに幸せそうに笑んでいた。
 いつも幸薄げにのほほんと笑っているくせに。そんな悪態が喉まで出かかるくらいには、恥ずかしい。

「多英さん、こっち向いて」

 向いたら何をされるのか分からないほどかまととぶるつもりはない。けれどやっぱり、泣きそうになって顔を俯かせる。

「ようやく合法的に多英さんに触れる権利を得たんですよね、俺」

 ぽつりと、何の色も表情もついていない声が落ちてきた。呆然としている、そんなふうな声が。合法、という単語があまりにも彼らしい。
 指の腹で頬を撫でられて、くすぐられる。指先から、彼のかすかな動揺が伝わっていたたまれないのと同時に、胃の奥のほうがあたたかいもので満たされていく感覚になる。
 どうせ、今顔を上げなくたって、いつか上げなくちゃいけない。それなら、いっそ今。
 ずっと頬をくすぐっている指があまりにも正直で真摯なもので、今きっと泣き腫らしてひどい顔をしているとは思いつつ、頤を持ち上げた。

「夢かな」
「……怒りますよ」
「すみません」

 人の必死の告白を、夢かな、の一言で茶化そうとしている彼が、不意に真面目な顔をした。
 ほんの少し前、彼の部屋で服を脱ぐのに死ぬほど緊張している自分がいた。あのときは、心臓が壊れてしまうんじゃないか、もう一生分の鼓動を刻み切ったのではないか、そう思うほど全身が拍動していた。
 けれど今は、不思議と穏やかな気持ちなのだ。
 これからされることの予想はついているのに、心臓はたしかにせわしなく動いているのに、やわらかくてあたたかな血液の流れを感じる。
 和成さんの青白い顔が近づいてきて、指先にわずか力がこもった。