01

 野晒しになったベンチに座って、先ほど自販機で買った熱いミルクセーキの缶を手の内で転がしながら、ほっとため息をついた。その息が白く染め上げられてわたしの顔の周りにまとわりついて、ふうわりと立ち上っていく。
 すっかり葉の落ちた桜の木を眺める。広い大学の構内で、ここはひとけがない。というのも、講義棟から少し離れていて、すっかり忘れ去られているのだ、このベンチは。たまに、そのひとけのなさを狙いすましたかのようなカップルが紛れ込んでいたりするのだが、今日はわたしが一番乗りだったようでひとっこひとりいない。
 ミルクセーキのプルタブを起こして一口飲む。手で転がしていたせいか、少しぬるくなっていたものの、猫舌なわたしにはちょうどよかった。甘ったるいその液体を喉の奥に流し込むと、おなかがじんわりと熱くなってぬくもりに満たされていくのが分かる。
 暖冬だと天気予報が報じているものの、寒がりのわたしにとっては、例年どおりの寒い冬だ。インナーの上にシャツ、ニット、コートと重ねて、ようやく安心できるような寒い冬。時折吹きすさぶ風は、凍てつくようなざらつきを伴って頬を撫でていく。
 目を閉じると、まなうらに浮かぶのは親友の申し訳なさそうな震えた表情だった。

「……ごめん……」

 いや、もしかして向こうは真面目だから、もう親友だと思っていないかもしれない。なんせ彼女は、恋人をわたしから略奪してしまったのだから。

「ほんとうにごめん……でも、あたしも好きだったから……」

 最近、あやしいなとは思っていた。それは、親友と彼が、という明確な推測ではなく、単純に彼が浮気をしているのでは、と思っただけのことだ。彼の休日に電話をしてもつながらないとか、携帯を妙に気にするそぶりを見せたり、妙だなもしかして、くらいに思っていたら、昨日の親友による告白で、彼と彼女がこっそり会っていたことが判明したのである。
 最初は、わたしとの仲がうまくいっていない、という内容の相談から始まったと彼女は泣き声で言った。でもそれは何と言うか、単なる言い訳に過ぎない。中身がなんであれ、親友の恋人と秘密で会っていたのは覆しようのない事実なのだから。秘密、という言葉はあまりにも、甘美で不思議な味のしそうな響きだ。
 それにしても、大して感慨もわかない自分の頭が問題だった。
 何せわたしと彼は、彼が親友に相談するほどに冷め切っていたからだ。だから、寝取られてしまっても、ああそうですかこの裏切り者どもめ、くらいの感想しか抱けなかった。そこにあるのは、あと一週間くらいすればぽこっと頭から抜け落ちてしまいそうな怒りと、一ヶ月くらいで薄くちぎれてゆきそうな惨めさと悔しさだった。
 そんなちっぽけな感情よりもわたしの胸をよぎったのは、彼や自分に向けての失望だった。
 彼女がわたしの親友であることはもちろん理解しているはずだ。そんな彼女に手を出しておいて、落とし前すら自分でつけられない、そんな彼を好きだった自分をほんとうに残念に思う。そして、親友に対しても、怒りをぶつけるよりも先に、あんな人相手じゃあこの先絶対苦労するよ、といういたわりの言葉をかけてしまいそうになったのだ。
 もちろんプライドが先に立って、わたしはどうにか親友の前で怒りを保つことには成功した。怒っているそぶりで、努めて冷静に無愛想を装い、あっそう、と冷たく言い放った。親友は泣きそうな顔をすっかり青褪めさせて、わたしをそれでもじっと見ていたのだ。彼女は、今泣き喚く権利を持っているのがどちらか、ということをきちんと頭の中で知っていて、そしてたぶん、先に涙を見せれば許してもらえることを知っている狡い人間ではないため、泣けないのだと思った。わたしの思いを当然優先し、泣くのを必死で我慢したのだと。
 鞄を探る。内ポケットから、煙草と安いライターが出てきた。人前では絶対吸わないし、たぶんわたしが喫煙者だとは誰にも知られていないだろう、それどころかわたし自身わたしを喫煙者だと認識していない、というくらいに吸わないが、むしゃくしゃしたときに一本だけ吸うことにしている。
 たとえば恋人と揉めたり、親友とちょっとしたことで喧嘩になったりしたときに、わたしはこのベンチでひとりで煙草をちょっとだけ吸う。今回は、両方か、とため息が漏れる。今回に限っては、全然ちょっとしたことではないけれど。
 気持ちいいとか、すっとするということは絶対にない。煙草を吸うと、わたしはちょっと気分が悪くなる。兄が吸っている横で煙を吸い込むのだけでもつらいから、たぶん体質的に駄目なのだ。そしてそれが、逆にいいのだ。最悪な気持ちのときに煙草を吸って気分が悪くなることで、気持ちは最低で体調も悪くて、わたしってなんて可哀相なんだろう、そんな感傷に浸れるから。
 悲劇のヒロインぶりたいのかもしれない。いや、かもしれない、じゃない。
 分かってはいるんだけれど、こんな発散のしかたは身体にも心にもよくないというのは。
 ほんの数ミリ燃やしただけで、まだ長い煙草を携帯灰皿にぎゅっと押し込んで潰す。煙草臭いのが周りにばれてしまっては意味がないので、残っていた冷めたミルクセーキでうがいするように、口の中で液体を泳がせて、飲み込む。煙草のえぐい苦みと合わさって、最悪の後味だ。失恋ってこういう味なのか。
 それでも気になる分は、常に鞄の中に入れている薄荷の飴で補った。すうすうする飴を舌の上で転がしながら、わたしはようやく立ち上がる。
 鞄を肩からかけて、前髪を、北風に逆らうかのように横に流してセットし直して、コートのポケットに両手を突っ込む。お気に入りの黒のチェスターコートだ。軽いわりにしっかり分厚くて風をブロックしてくれるのが気に入っている。シーズンの始めに買ったときより、今バーゲンで安く売られているかもしれないが、買った店に確認に行くことはしない。だって安く売られていたらちょっとショックだし、そのショックをどこに向ければいいのか分からない。だから、このコートは人気でバーゲン落ちする前に売り切れた、と思うことにしている。
 ボタンは留めないものの、ポケットの内側から手で押してコートの前を合わせるように抱き、歩きだす。
 太いヒールの足音がこつこつとだだっ広い構内に響いている。次の授業まで、あと三十分もあるので何をして時間を潰そうか考えていたのだ。親友は、わたしと目も合わせてくれないだろうし、かと言って、女同士の醜悪なバトルをかました、と思われている友人軍団の中に入っていくのも面倒だ。格好の餌に己からなりに行くなんて馬鹿らしい。
 けれどもどちらにせよ、学科単位の授業があれば当然親友も顔を見せる。そうして、わたしと彼女が鉢合わせたとき、周囲が彼女に対してどんな態度を取るか、考えただけで胸くそ悪い。これは私と彼女と彼の問題であり周囲には関係がないことなのに、部外者は必ず正義面して何かといちゃもんをつけてくる。
 日曜日の終わりみたいな気持ちが胃の辺りを覆っていく。構内の散歩でもしていようかな、と思い踵を返しかけたとき、わたしはその存在に気がついた。
 少し遠くから、男の人がこちらに向かって駆けてきていた。なんだろう、そう思っているうちに彼はわたしのもとに追いついて、そこで初めて彼がわたしに用事があることを理解した。

「あの、これ落としましたよ」

 少し息が上がった様子の彼が差し出したのは、わたしの鞄についていた定期入れだった。はっとして鞄を見る。もちろんそこに定期入れはついていない。慌てて手を伸ばし、それを受け取った。

「ありがとうございます……失くしたら死ぬところだった……」
「あははっ」

 大げさに笑った彼をよく見る。男にしては少し長めの髪の毛は、ふわっとした程よいストレートで、光の加減によって黒から濃い紫色に輝いた。少し垂れた二重瞼の下の瞳は色素の薄い茶色だったし、細い鼻筋も赤みのない薄い唇も、どこか薄幸そうな、今にもこの冷たい空気の中に溶けて消えてゆきそうな不安を駆り立てる。色白で、頬に色がないため不健康そうに見える。身長は、わたしより少し高いくらいで、でも今わたしはヒールを履いているので、だいたい百七十センチ後半くらいだな、と計算した。

「ほんとう、ありがとうございました」
「いえいえ」

 細い身体にぴたりと沿うような白の立ち襟シャツと深緑のカーディガン、それに黒のスキニーパンツ。靴がきちんとした革靴で、品のいい人だな、でも寒そう、と思った。

「あと、これ」
「え?」

 彼が差し出したのは、それなりに名の通ったメンズブランドのハンカチだった。ほぼ反射的に手を出して、そのハンカチを受け取る。それを渡す意図を測りかねて揺れる目で見上げると、彼は薄いわりに横に大きな唇をにっこりと情けない笑みのかたちにして、頭を掻いた。

「泣きそうだったから」
「…………」

 彼の手は乾燥しているのかざらざらしていて、びっくりするくらい真っ白けで細くて、なんだか白樺の枝のようだった。一瞬だけ触れた人差し指なんて、今にも風に吹かれてころころと転がっていきそうだ。その深爪気味の指先をじっと見つめる。

「……余計なお世話だったかな」
「いいえ……、むしろご心配をおかけして申し訳ないです……」

 頼りない声が降ってきて慌てて顔を上げる。垂れた瞼から覗く瞳はチョコレートみたいな光沢を放っていて、なんだか彼のほうが泣きそうな顔に見えた。よく見れば、頬には色がないのに鼻の頭だけ赤い。その赤い鼻を指で少し触れて、彼はちらりと背後を振り返るそぶりを見せた。

「って、引き止めておいて悪いんだけど、俺そろそろ戻らないと教授に怒られそうなんで……」
「あ、はい」
「定期、金具が緩くなってるみたいだから、もう落とさないように気をつけて」

 それだけ言って、彼は来た道を走って戻っていった。さっきわたしが煙草を吸っていたベンチの裏にある十二号館の入口まで向かう彼の顔の周りは白い吐息で満ちていて、更には途中で寒そうにカーディガンに包まれた腕を抱くようにさすっていて、あ、そうか、と思う。彼は窓からわたしが定期入れを落としたのを見つけて、コートも着ずにそれをわざわざ拾って追いかけてきてくれたのだ、と。
 寒そう、なんて感想を抱いた自分が恥ずかしい。
 定期入れを鞄に付け直そうとして、手にハンカチを持っていることに気づく。泣きそうだったから。彼はそう言ったけれど、わたしは泣くつもりなんて一切なくて、でもやっぱり惨めな顔をしていたのかな、煙草吸ったばかりだから。
 グレー地に白と黒のチェック柄のハンカチをしばし見つめ、やっぱりこれは洗濯してから彼に返すべきだよなと誰にともなく問いかける。とは言え、十二号館に入っていった幸薄そうな背の高い男の人、というくらいしか情報がないので、探すのも一苦労しそうだ。名前でも聞いておけばよかった。
 泣くつもりがないので、このハンカチも使わない。なので、わたしはハンカチをコートのポケットに突っ込んで、また歩きだした。定期入れの金具がたしかに緩くなっているようで鞄につけると不安定な気がして中に入れる。定期入れのデザイン自体は気に入っているので金具だけ替えることはできるかな、と思ったあとで、ああでもこれは親友とお揃いの色違いで購入したもので、もうつけておくべきじゃないかもしれないとも思う。