ふっと意識が何かに引きずり上げられる。
やわらかく髪の毛を撫でている手の感覚があって、ほとんど目を閉じたまま幾度かまばたきのように瞼を痙攣させてから開く。
「ん……?」
「あ、おはようございます」
「おはよう、ございます……」
朝日に照らされて、黒い髪の毛がわずかに紫色に輝く。ぼうっとそのきらきらした髪の毛を見つめていると、小首が傾げられた。
「寝惚けてますね?」
「……」
うろうろと視線をさまよわせ、ここはどこだ、と考えた次の瞬間、一気に目が覚めた。起き上がると、わたしの髪の毛を撫でていた手は離れていく。
「なんか、こんなときに言うのも不謹慎ですけど、生のおはようは威力違いますね」
「……そ、そうですか……」
なんて言ったらいいのか分からなくて、ありきたりな相槌を打つ。
へらへらと笑っているその横顔は、少し疲れたようにやつれている。ベッドのふちから腰を上げたそのしぐさに、わたしはまさかと思う。
「……和成さん、一晩中起きてたんですか……?」
「別に多英さんの寝顔をずっと見てたわけではないですよ。作業もしました」
ベッドに転がっているノートパソコンを示し、ばつが悪そうに言い訳する。そうじゃない。
わたしの顔が青ざめているのに気がついたのか、彼はわたしの罪悪感を払拭するかのようににっこり笑った。
「もともと徹夜の予定でしたし、大丈夫です」
「でも」
「人間、ちょっとくらい疲れてるほうが味が出ますよ?」
将来絶対過労死しそう。自分のせいなのにそんな感想を抱いてしまい、何も言えなくなって口を閉じる。
「朝ごはんにしましょうか。って言っても、大したもの出せないんですけど」
目玉焼きとトマトくらい、と言いつつ寝室のドアを開ける。それに続いてフローリングに足をつけるときに、ちらりと時計を見た。十時半。
「……遅刻!」
「え?」
「今日レポートの提出日で!」
「ああ……何時までにですか?」
「十時半……」
「間に合いませんね」
のほほんとそう言われ、たしかに今からどう頑張って準備しても間に合わない時間であることを認識し、身体の力が抜ける。どうせ、何だかんだあってレポートそのものも完成していないし、あの授業の単位を落としたところで進級には影響しないのだが。
「もう諦めて、のんびり朝食兼お昼を食べましょう。それに事情を話せば、先生も待ってくれるかもしれませんよ」
キッチンに向かい、彼がのんきに言う。それもそうだ、どうせもう正規の時間には間に合わない。諦めて、その背中を追いかけて、となりに立った。
「何かお手伝いできること、ありますか」
「いいですよ、ゆっくり座っててください」
「あっ、紅茶淹れます!」
「……じゃあお願いします」
目玉焼きを焼きながら危なっかしい手つきでトマトを切っている横で、ティーバッグをカップにぶら下げる。沸かしたお湯をカップにそそぐと、昨日は味も匂いも全然分からなかったが、なるほどたしかに茶葉がふわりと広がって、柑橘系のいい香りが漂う。フレーバーティーだ。
抽出の時間、ぼんやりとそこに突っ立っていると、ふととなりに立つ人が呟いた。
「いいのかな」
「え?」
「いえ。俺、こんなにいい目見てていいのかなあって」
視線を向けると、彼は穏やかに微笑んでいる。満ち足りたようなその綻んだ目元に、思わず目を逸らす。
目玉焼きが香ばしく焼けてきて、それを皿に滑らせた和成さんはトマトを飾りつけた。
「紅茶、もういいと思いますよ」
「あ、はい、そうですね」
ティーバッグをシンクに捨て、ソファに向かう彼の背中に続く。テーブルは皿をふたつ置いたらもうスペースがなくて、カップをどこに置こうか悩んでいると、手が伸びてきて片方を優しく奪われた。
熱い紅茶を持て余して、皿と交換して目玉焼きにフォークを刺す。黄身をつつくと、膜が破けてとろりと溢れてきた。わたしの好きな加減。
「パン食べます?」
「和成さんは?」
「どうしようかな……」
結局トースターで二枚パンを焼いた。小麦の焼ける匂いがこの部屋の生活感のなさとうまく結びつかなくて、ちょっと混乱した。
でも、和成さんとこうして食事をするのは苦痛じゃない。それどころか、心地いい。
食事とか、生活の波長が合うって大事だな、と思って口に出す。
「ご飯を食べるときに、どうしても相手の食べ方が気になるとか、不愉快に思ったりすることあるじゃないですか」
「……急に何の話を」
「和成さんは、それがないなあって」
言うと、和成さんが目をぱちくりさせて、それからため息をつく。
「今めちゃくちゃ安心してます……」
ほんとうに心の底から安堵したような顔をするので、おかしくて少しだけ笑う。
この人はわたしのどこがいいのだろう。きっかけがきっかけなだけに、彼が思い描くわたしの姿と今のわたしの姿は似ても似つかないんじゃないかって思うけれど、いったいいどこが。
今はこうしてとなりにいても、いつ彼の我慢の限界がくるかなんて分からない。
つきんと少しだけ痛む気持ちに、わたしはそっと蓋をした。
そして思い出される、自分の家の惨状がまた心を鬱々とさせる。
「……部屋の片づけしなきゃ」
「手伝いましょうか?」
「え、でも」
「指紋採取のアルミパウダーは中性洗剤で落ちますよ」
さすがに詳しい。そもそもわたしは、あの指紋を採取する粉がアルミだとも知らなかった。
和成さんのアパートを出て、わたしの住むアパートに向かう途中、電車の中で、従姉からメッセージが届いていたことに気づく。
『深夜に電話があったみたいだけど、どうしたの?』
割れた窓ガラスを取り換えてもらっても、あの部屋ではもう暮らせない、暮らしたくないと思う。引っ越しを考えながら、でもストーカーが捕まらないんじゃいたちごっこだとも感じる。
「犯人、捕まりますかね……」
「どうでしょうね。土足で上がったみたいですから、足跡も採られてるでしょうし、ストーカーの延長なので巡回も強化してもらえるみたいですし……でも前科者じゃないとせっかく指紋採れても意味がないでしょうね」
「……そうですよね」
どこで、誰に目をつけられたのか、わたしには皆目見当もつかない。居酒屋の客だろうか、それとも大学の人だろうか。
とりあえず、従姉に電話をすることにする。携帯の時計を見ると、たぶんちょうどお昼休みだろうと思わしき時間になっていた。
『もしもし?』
「あ、翔子ちゃん」
『夜、寝てたんだけど、どしたの、何かあった?』
「……実は」
経緯をかいつまんで説明すると、従姉の翔子ちゃんは黙り込んでしまった。
「というわけで……引っ越すまでしばらく泊めてほしいの」
『……』
答えがない。名前を呼ぶと、彼女はためらいがちに、言葉を選ぶように言う。
『あのさ……もちろんいいよって言ってあげたいのはやまやまなんだけど……ストーカーがうちにも押しかけたら、女ふたりで太刀打ちできるものかな……?』
「……」
翔子ちゃんの不安はもっともだ。切り刻まれた枕が頭に思い浮かぶ。相手は刃物を持っている。窓ガラスを割るという強硬手段にも出た。
わたしの都合で、翔子ちゃんまで危険に晒すことはできない。
「……そうだよね。ありがとう」
『ご、ごめんね。ほんとに、ただの空き巣なら泊めてあげたいけど……私じゃ多英ちゃんを守り切れないと思う……』
「いいの、気持ちだけで。ほんとにありがとう」
通話を切ると、和成さんが俯いたわたしの顔を覗き込んできた。
「……駄目でした?」
「従姉も女の子だし、何かあったらって思うとわたしを預かれないみたいで」
「そうですか……そうですよね」
駅を出てアパートに向かう。道すがら、和成さんは怖ろしいほど静かだった。
重苦しい空気が立ち込めて、わたしは耐えきれない気持ちをため息に溶かす。うっすら白い呼気は、青い空によく映えた。