03

 タオルと着替えを受け取って、洗面所で裸になる。この洗面所のドア一枚隔てたところに男の人がいると思うと、喉がからからに渇いてくる。そそくさと風呂場に逃げ込んで、シャワーを出す。
 髪の毛から滴る水の粒を目で追って、心臓が死ぬほどうるさくなってくるのが分かる。身体全体が心臓になったみたいに、今までこんなに拍動したことないってくらいに、針で全身を刺されているかのような痛みが神経を走っている。
 洗面所で身体を拭きながら、自分の足が恐怖にではなく震えていることに気がついた。

「……で、出ました」

 洗面所のドアをそろりと開けると、なぜか和成さんはコートを身に着けている最中だった。トレンチコートのベルトを締めながら、彼はわたしのほうに顔を向ける。

「あ、そういえばうちドライヤーもないんです。すみません」
「いえ……どこか行くんですか?」
「ファミレスです」
「……?」

 首からぶら下げたタオルで髪の毛の水分を拭き取りながら、小さく首を傾げると、閉じたノートパソコンを持ち上げて寝室を指差される。

「他人のベッドじゃ安眠できないかもしれませんけど、ゆっくりしてください。おなかすいたら、冷蔵庫の備蓄品とか適当に食べてて」
「え、待って、なんで?」
「なんでって?」
「和成さん、一緒にいてくれるんじゃないんですか……?」

 ぽかんとした彼に、どうやらその考えは最初からなかったようである。
 それに気がついて、わたしは顔から火が出る思いだった。勘違いだったのだ、彼がわたしの身体を求めようとしているなんて、わたしの妄想に過ぎなかったのだ。
 真っ赤になっているのだろう頬を見て、和成さんが眉を寄せる。

「多英さん」

 絶対馬鹿にされる。変な勘違いをしやがって、と思われている。顔どころかもう首筋や全身が熱くて、その熱が涙になって押し寄せようとする。

「俺だって、男なんですよ」
「……へ……?」

 ため息混じりに押し出されたのは、思いもよらない言葉だった。近付いてきた和成さんの手が、おもむろに首にかけていたタオルに触れて、そのままタオル越しに髪の毛をやわらかく撫でる。目がすうと細められて、剣呑な雰囲気を醸し出している。

「そんな顔して、男の部屋でシャワー浴びて男の服着て、一緒にいてくださいって……それで何もされないと思ってるんですか?」

 自分がどんな顔をしているのか、とりあえず泣きそうになっていることだけは分かるのだが。

「もうちょっと、あなたは自分が俺に好かれてるんだって自覚してください」
「わ、わたし」

 引きつった声が出る。震えた喉を、細い白樺の枝のような指がついとなぞった。服の下を見透かすようななまめかしい視線に、背筋がぞくりと粟立った。

「かく、覚悟してきたんです……そ、そういうの……」
「…………」

 和成さんが息を飲んだ。
 何も自分からのこのこと相手の懐に入っていくことはないだろうに。そう思わなかったわけではない。けれど。
 不安なのだ、ひとりで眠るのは。
 割れた窓ガラスが脳裏によみがえる。無残にも切り裂かれた羽毛の枕も、めちゃくちゃに荒らされた部屋も、嫌いな野菜全部をミキサーでごちゃ混ぜにして飲むことを強要されているような不快感と強い恐怖を駆り立てる。
 誰かがとなりにいてくれないなら、あの部屋もこの部屋も変わらない。

「だ、だから……覚悟してきたから……一緒にいてください……」
「……ああ、もう!」

 低く唸った次の瞬間、わたしは予想外の強い力で身体を引き寄せられて和成さんの腕の中にいた。
 肩口に顔が当たって思わず目をつぶる。コートは、かすかに外の匂いがする。それに混じって、ふわりと甘い匂い。

「……一緒に、います」
「……」

 耳元で囁かれ、首を竦めると、彼は唇の位置をそのままにため息をついた。生温かい湿った空気に、思わず、細い背中に腕を回しかけたとき。

「でも、何もしません。絶対」
「え……?」

 小さな声で、けれど確実に宣言されて戸惑う。身体を離して、その色素の薄い濡れた瞳に見つめられる。額と額が触れそうな、鼻と鼻が触れそうな距離で。
 病的なまでに色のない頬さえ触れそうで。

「覚悟してもらわないと手を出せないような男にはなりたくない」
「……」
「多英さんが、覚悟なんかしなくても俺に抱かれたいと思ってくれないと、嫌だ」

 薄いけれど大きな手が、わたしの頬を包み込む。そのままキスをされるかと思ったけれど、彼は苦く不器用に微笑んで顔を離した。

「なんて、格好いいこと言ってみても、現実問題俺は今勃起している」
「……!」
「男ってほんと……正直ですよね……」

 こんなに呼気が混ざり合うくらい近くでそんなことを告白されて、その情けない笑みにどうしていいのか分からなくなる。状況が状況なだけに下を向くこともできなくて、彼をじっと見つめ返してしまう。

「そんな顔で見ないで、我慢できなくなる」
「……」

 覚悟したから、我慢しなくていいのに。そう思ったけれど、それはきっと彼の決意を水泡に帰す言葉だった。

「多英さん、何か風呂場で使いました?」
「え……? あ、シャンプーお借りしました……」
「嘘だ。俺のと同じシャンプーのはずがない。あれはこんなにいい匂いしない」
「……」

 再び燃えさかりだした頬を、せっかくハンドクリームをあげたのに使っていないのか、ざらついた指が撫でて、もう一度寝室のドアを示された。

「とりあえず、すぐ行くんで、先に寝ててください……」

 男の人のそういうのがどれくらいの時間でおさまるのか、個人差があるのか、そのようなことはまったく分からなくて、けれど情けなさそうにしている彼にこれ以上無理強いはできなくて頷いてドアを開ける。
 ちらりと振り返ると、コートを脱いでいる後ろ姿が見えて、ああ、よかった、一緒にいてくれるんだ、とほっとした。
 薄暗い、忍び込む月明かりだけが照らす寝室は暖房が効いていないらしく、ほんの少しひんやりしていた。冷たいフローリングを踏みしめて、ベッドに腰かける。少し軋んだベッドに、腰かけた状態で左半身をもたせかける。
 和成さんの、匂いがする。石鹸の匂いに、とろんとした甘ったるい体臭のような匂いが加わったそれは、さっき抱きしめられたときとまるで同じ匂いだ。

「……」

 頭に薄靄がかかって何もうまく考えられないような不思議な気持ちに浸っていると、静かにドアが開いた。

「寒いでしょ、ちゃんと布団かぶって」

 羽毛の掛布団をまくって、空いたベッドのスペースをとんとんと叩く。素直にそこに転がると、布団をかけてもらう。そのまま数度肩の辺りを優しく叩かれて、わたしの代わりにベッドのふちに腰かける。
 月の光に照らされて、チョコレート色の瞳があやしく優しくきらめいた。

「髪の毛濡れたままで、気持ち悪くないですか?」
「……大丈夫です。あ、でも、枕濡らしちゃう……」
「気にしないで」

 身じろぎすると、疲れと眠気が一気にやってきた。バイト帰りというだけでへとへとだったのに、今はもう深夜三時近いのだから当たり前だ。
 和成さんはまるで眠たそうじゃない目をきゅうと細めてわたしの頭を撫でた。

「おやすみなさい」