小さな小さな呟きは、バイクの走行音で彼には聞こえなかったようだし、わたし自身の耳にも届かずに夜のびしりと凍ったような空気に溶けて消えた。何より誰より、和成さんに、軽い女だと思われるのが嫌だった。
やがてバイクが減速し、とあるアパートの前で停まる。ふつうの、わたしが暮らしているのとあまり変わりない、ふつうのアパートだった。仙人じゃなかった。
「着きました」
「……」
部屋のドアの前で、今更怖気づく。恋人と、示し合わせてそういうところに入ったり部屋に向かうのとはわけが違う。コートの上から自分を抱きしめるように、ショルダーバッグの紐を握りしめる。彼に気づかれないように、密かに、震える息を吐く。
鍵を挿し込んでから回す前に、彼はちょっと悩むようにこうべを垂れた。
「あの、かなり散らかってるので、ちょっとリビングのほうで待っていていただければ」
「い、いえ、お構いなく!」
「俺が構います」
苦笑いされて、すごすごと頷いた。ドアが開く。電気がつけっぱなしで、あれ、と思ったけれどすぐに気づく。わたしからの電話に慌てて出てきてくれたからだと。かなり急いで駆けつけてくれた。それを思うと、わたしの一晩くらい安いものだな、と本格的に覚悟を決めた。
暖房もつけっぱなしで、部屋は暖かかった。靴を脱いで、小さくお邪魔しますと呟いて上がり込む。リビングで待っていて、と言ったわりには、こう言ってしまうと失礼極まりないけれど、リビングも汚かった。
研究室の様子や普段のどんくさい振る舞いを見ていて、掃除や整理整頓ができる人だとは思わなかったものの、段ボール箱が積まれていたり参考書と思しき本がうずたかく積まれていたり、コピー用紙がそこらじゅうに舞っているそのさまに、寝室はどれほどなんだろう、とぞっとする。
不潔なわけではなく、むしろ研究室の延長のようで生活感はほとんどない。しいて言えばリビングと連結しているキッチンにコーヒーを飲んだあとと思われるカップが置いてあるくらいだ。
「すみません、適当に座ってて……あ、お茶をお出ししますね、いや片づけが先か……わあっ」
「……お構いなく……」
寝室に向かおうとした足を下手にキッチンに向けようとするものだから、そこら辺に落ちていたコピー用紙の袋につまずいた。転びこそしなかったものの、危なっかしいことこの上ない。
「片づけたら、紅茶淹れます……研究室からパ……いただいてきた素敵なティーバッグがあるので……」
「……ありがとうございます」
今確実に、パクってきたと言いかけたな。
寝室に入っていく薄い背中を見送って、コートを脱いで抱く。見たところハンガーはないし、あっても勝手に使うのは失礼だ。
どったんばったんいったい何を片づけているのやら疑問が尽きない物音をバックに、そわそわと部屋を見回す。雑然としている室内はどこからともなく石鹸のいい匂いがして、あ、と思う。和成さんの匂いだ。さっきしがみついたときにかすかに香ったそれに近い。
適当に座っててと言われてもソファの上にも何かいろいろ置いてあって、それらを勝手にどけるわけにもいかず、どこに座ればいいのか分からずに立ち尽くしていると、ようやく寝室が静かになる。
「お待たせしました。……なんで立ってるんですか?」
「あっいえっ座るところが……」
「すみません……!」
慌ててこちらにやってきた和成さんが、わたしのコートを奪ってソファに積まれていた諸々の書類を払った。
「コート、寝室に掛けておきます。ここ、座っててください、紅茶淹れるので」
「……はい」
キッチンで紅茶を淹れている背中をじっと見る。コーヒー用のそそぎ口の細いやかんからお湯をそそいでいる和成さんが呟く。
「落ち着いたら、お風呂お貸ししますので」
「は、はい」
いよいよそのときが近づいているのを実感して、目の前がくらくらしてくる。ソファの手前にあるテーブルの上には、開かれたままで画面が真っ黒なノートパソコンと山積みにされた本があって、その隙間を縫うように和成さんは紅茶の入ったカップを置いて、わたしのとなりに座った。
「美味しい紅茶です、どうぞ」
おどけてそう言う彼の体重で少し傾いだソファ。
身体の右側にわずか触れる体温。
紅茶から立ち上る唇を湿らせる湯気。
すべてが、わたしの緊張を煽っていく。
「……どうしました?」
「あ、いえ。わたし、猫舌で……」
「ああ、そうでしたっけ」
まったく平気な顔をして熱いだろう紅茶をすすっている和成さんは、ほのぼのと日和見しているおじいさんのようなことを言い出す。
「もう少しあったかくなったら、縁側でお茶飲みたいですねえ」
「……どこの縁側?」
「人は皆心の中に縁側を持っているんですよ」
「そ、そうなんですか」
そのまま、彼はわたしの凝り固まった心をほぐすように、くだらない話をする。きっとすべて、彼にはお見通しなのだ、そう思うとあまり気負っても仕方がない気もしてきた。
ぬるくなった紅茶を口の中で転がして、でも味なんて全然分からないくらい、舌が痺れている。
「多英さん、寒くないですか?」
「……平気です」
「お風呂、申し訳ないんですけど水道代の関係でお湯を溜められなくて……」
「ぜ、全然、問題ないです」
こんなに儚い浮世離れしたふわふわした感じの人の口から水道代とかいう単語が出てくると、妙に安堵する。この人も、ふつうの人間だった、って思う。
髪の毛を耳に掛けて、彼が立ち上がる。そのはずみで、せっかく今しがたととのえた髪の毛がぱらりと耳から外れて元に戻ってしまう。
「タオルと、あと着替えですね。俺ので申し訳ないですけど、とりあえずそれ着てもらって……」
「ありがとうございます」
紅茶は、いつの間にか味が分からないなりに飲み干してしまっていて、わたしももうこれ以上ソファにとどまっていられず立ち上がる。
「あっ、下着どうしますか?」
どうせ脱がすんだからそんなことまで、と思ったが、もちろんそれを言えるほど図太い神経は持ち合わせていない。
「コンビニ開いてますし、女性物の下着って売ってないですかね? ちょっと見てきましょうか」
「いっいいです! そこまでしていただかなくて大丈夫です! 今着てるのそのまま使い回すので!」
「そうですか……?」
冬だし汗をかいているわけではないので、多少気持ちは悪いが耐えられるだろう。何より、和成さんにそんなことまでしてもらうのはあまりに恥ずかしい。彼が買ってきた下着をはくのも、だ。