01

「通帳はこれで全部?」
「……はい」
「印鑑も? なくなっているものは?」
「ありません……」

 深夜のアパートは、一時騒然とした。近隣の住民が寝惚けた顔で様子を見に来たり、慌ただしく警官が行き来したり。
 確認したところ、何も盗られていなかったのだ。通帳も印鑑も手はつけられておらず、それ以外に金目のものを置いていなかったのもあるかもしれないが、特に減ったものはなかった。それが、逆に不気味だった。
 下着類も荒らされていて、男性の警官が部屋に入るのに抵抗があったものの、そんな悠長なことを言っていられる場合でもなかった。
 和成さんは、ずっとわたしの肩を抱くようにしてそばについていてくれている。それでようやくわたしは質問に答えることができている状態で、きっと彼がそうしてくれていなければ、震えて口も開けなかっただろう。

「ストーカー被害には、いつ頃から?」
「去年の……十二月の、中頃」
「じゃあほんとうに最近なんですね」

 手帳にメモを取りながら、警官の目は和成さんに移る。

「あなたは……彼氏?」
「いえ。親しくさせていただいている、友人です」
「そう」

 警察署に連れて行かれるのに、パトカーに乗せられる。自分は被害者なのに悪いことをしたみたいで、嫌になる。そして、和成さんにもきっとその嫌な思いをさせている。そう思うと、みっともなかった。

「……ごめんなさい」

 となりに座ってあやすようにわたしの手を握ったり撫でたりしている和成さんに呟くと、顔を覗き込まれた。

「なぜ謝るんですか?」
「……だって」
「多英さん」

 呆れたようなため息が降ってきて、それから、和成さんの頭がこつんとわたしの頭にぶつかって、寄りかかられたのだと分かる。

「さっき言ったと思うんですけど、あなたは悪くないんです」
「……でも」
「だってもでももなしです。俺がしたくてしてることですから、文句つけないで」

 説き伏せるように強い口調でぎゅっと手を握られて、思わず口をつぐむが、それでも罪悪感は消えない。

「……」

 また泣きそうになってコートの裾で頬を擦ると、重なっていた頭を少し強く打ちつけられて、揺れた。鈍い痛みが頭に走って、顔を上げると、彼がいつぞやと同じハンカチを差し出してきた。

「今度こそ、使ってください」
「……和成さん、もしかして……」

 ふと、確信めいた思いがよぎる。わたしが煙草を吸っていたのを知っているくらいには観察されていたのなら、もしかして、彼はわたしがあの日泣きそうだった理由くらい、お見通しだったんじゃないだろうかって。

「わたしがあの日泣きそうだった理由、知ってました……?」
「知ってました。準ストーカー舐めないでください」
「今その冗談笑えないんですけど……」

 言いながら、苦笑いする。わたしの肩の力が抜けたのを察知したのか、彼も少しだけ笑った。
 警察署で、更に詳しい事情を聞かれ、指紋を採られた。もちろんそれは和成さんも、成り行き上そうなって、やはり申し訳ない気持ちになってしまったけれど、彼はあっけらかんと言う。

「指紋採られるのなんて初めてですけど、いい勉強になりました」
「……できれば一生知りたくないことのリストには入ると思うんですけど」
「そうですか? 貴重な体験です」

 のほほんとした顔で言われ、もしかしたらわたしに気を使ってくれているのかもしれないと思いつつも、甘えることしかできない。
 警察署をあとにして、わたしはふと立ち止まる。今晩、どうやって過ごせばいいのだ。

「多英さん?」
「……い、従姉に電話しなきゃ」
「いとこ?」
「泊まるとこ……」

 あんな、窓ガラスが割れて鑑識の人が作業をした痕跡が残っている部屋で一夜を明かすことなんてできない。頼れそうな友達は何人かいるにはいるが、こんなことを大学の友達に知られたくはない。そうなってくると、頼れそうな人はかなり限られてくる。
 大学進学を機にこちらに出てきたわたしとは違い仕事が理由ではあるものの、同じようにこちらに出てきている従姉の顔が浮かぶ。事情を説明すれば、きっと一晩二晩くらい快く泊めてくれる。

「……」

 従姉の電話番号をタップして数コール待つも、彼女が電話に出てくれそうな気配はまるでなかった。十コールを過ぎたあたりから、明日も仕事だろうし、もう日付も跨いでいるし、寝ているんだな、と結論付けて電話を切る。
 どうしよう。

「駄目でした?」
「はい……寝ちゃってるみたい……」

 和成さんが、もの思わしげに立ち止まり俯いた。そのとなりで、わたしは、どうしようと知恵を絞る。どこか安いホテルを探さないといけないのだろうか。それとも、鍵を失くしたとかそれらしい理由をつけて大学の友達をあたるべきだろうか。
 彼が、顔を上げる気配がした。

「俺の家に来ますか?」
「……え?」

 思わず、彼の顔をまじまじと見る。いたって真剣な顔をしている。その真面目な表情をふっと破顔させ、髪の毛を耳に掛けてそのまま頭を掻いた。

「何もしませんよ。ただ、頼れる人がほかにいないなら……俺を頼ってください」
「……」
「あなたに頼られたい」

 何もしない。もちろん、それで済むはずがないのは分かっているつもりだ。これでも、男の人とは経験は浅いなりに付き合ってきたし、彼らの言う、何もしない、がいかに信用ならないかも学んだつもりでいる。高校生になりたての頃、付き合ってはいたものの身体の関係はなかった相手を信用して痛い目に遭いかけてから、わたしはそういった言葉たちに少し過敏すぎるきらいはある。
 けれど和成さんの申し出を断っても、あてがあるわけではない。
 わたしは、腹をくくった。

「じゃあ……頼らせてもらえますか」
「っもちろん」

 ぱっと表情を明るくした彼は、わたしの手を取って歩きだす。彼の家に向かうのかと思いきや、警察署に逆戻りする。

「あの?」

 警察署の駐車場に、白バイでも何でもないただのバイクが一台停まっていた。それに近づいて、和成さんがわたしにフルフェイスのヘルメットを差し出した。

「どうぞ」
「あっ、えっと」
「これ、俺のバイクです。警察の方に運んでもらっておきました」

 バイクや車は全然詳しくないけれど、それなりに大きなボディの黒いバイクだ。ふたり乗りも余裕のありそうな大きさで重厚感がある。
 座るところを開けてもうひとつ、簡素なヘルメットを取り出して装着した和成さんは、鍵を手でもてあそびながらわたしに問う。

「バイクに乗ったことあります?」
「な、ないです」
「無茶な運転はもちろんしないですけど、しっかり掴まっててくださいね」
「はい」

 宣言通り、ほんとうに安全運転だった。友達と自転車のふたり乗りをしたことくらいはあって、それがちょっと速度が上がったくらいのものだった。それくらい、安全運転だった。和成さんの背中にしがみつき、わたしは今夜のことを考える。
 乱暴にはされない、と思う。たぶん、きっと、優しくしてもらえる。大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせて、さっきくくったはずの腹をもう一度納得させる。
 それでもやっぱり、恋人でもない男の人と夜を過ごすのは初めてで、自分が軽い女になったような気がして嫌だった。和成さんにも、もしかしてそう思われたんじゃないかと邪推する。思っているだろうか、簡単にやらせる女だって。

「……やだな」