03

 電話は気まずい。とは言え、わたしは和成さんの電話番号以外の連絡先を知らない。バイト先の休憩室で、携帯の画面に浮かぶ十一桁の番号を眺めながら、通話ボタンをタップしようかどうか悩んでいた。
 何度か着信があったものの、出られずじまいで二日経ってしまった。結局警察にも行っていない。
 彼に他意はなかったと思う。だから、わたしがひとりで勘繰って怒っているだけで、和成さんにはわけの分からないかんしゃくに見えるだろう。
 それに、姿も見せず電話にも出ないのを、心配してくれているかもしれない。

「よ、よし」

 いつもかかってくるばかりだった電話番号をタップする。数瞬の沈黙ののち、コール音が鳴って一度で切れる。

『もしもし?』
「っわ」

 あまりにも短い心の準備時間に、つい携帯を耳から少し遠ざけてしまう。

『よかった、連絡取れて』
「すみません……」
『あんまり心配させないでください』
「ごめんなさい……」

 謝るしかできないでいる。深々と、肺の中の空気をすべて押し出すようなため息をつき、和成さんが小さく言う。

『俺、何かしました?』

 やはり、彼にとっては特にわたしをけなす目的はなく、思ったことをそのまま言っただけだったのだ。それを思うと、くよくよ悩んでいた自分が恥ずかしい。

「……隙があるって、言いました」
『え?』
「なんか、ストーカーされても仕方ないって言われてるみたいに取っちゃって、すみません……」
『……あ、いえ。俺のほうこそ、誤解を招く言い方を……』

 咳払いが聞こえて、少し黙って、探るようなゆっくりとした声が聞こえた。

『俺がつけ上がってるだけの話です。多英さんにこうして頼ってもらえて、調子に乗っていたかもしれません』
「そんなこと」
『多英さんのせいにするのは、狡いですよね』

 しょんぼりした声でそう言われてしまって、わたしは反論の言葉を失くす。そんな声色を使うほうが狡い。何も言えなくなって黙っていると、和成さんが続ける。

『悪いのは、多英さんじゃないですから。気にしないでください』

 髪の毛を梳いて撫でつけるような口調で、説き伏せるように言う。見えていないだろうが頷いた。

『今、おうちですか?』
「いえ、バイトの休憩中です」
『あれ。休憩なのに俺と電話なんかしてていいんですか? もっと有意義に時間を使えば……』
「か、和成さんと話すの、じゅうぶん有意義なので!」
『ほんとう? うれしいです』

 弾みで放った言葉に、想定外に喜ばれてしまって、わたしは何となく情けない気持ちになる。あざとい、と自分で自分を責めてしまう。あざといことが果たして罪かどうかは、わたしには分からないが、少なくとも、格好いい女はこんなあざとい真似はしないはずだ。

『上がりは、何時ですか?』
「十一時です」
『有り余るくらいに用心して帰ってくださいね』
「ありがとうございます」

 通話を切って、しばらく携帯を手に持ったままぼうっとする。和成さんの優しいテノールは、安心する。膨らんで凝り固まった腫瘍のような不安なんて、すべて溶かしてなくしてしまいそうな、そんな甘さがある。

「あれ、多英ちゃんなんか顔赤いよ? 具合悪い?」
「えっ、そうですか……?」

 仕事場に戻ると、マネジャーに顔色を指摘されて、慌てて両手で頬を隠す。
 もしほんとうに、照明の加減のせいとかではなく赤いなら、きっと和成さんのせいだ。
 ぎゅっと気を引き締めて仕事を始める。そのおかげで、少し早く上がらせてもらえた。十一時過ぎには居酒屋の入っている雑居ビルを出て家路に着く。
 必要以上に神経を研ぎ澄ます。不安な、ひとけのないいつもの帰り道、誰もいないはずなのに視線があるような気がして、ふるりと身体を震わせる。歩いている途中、携帯が震えて、もしかして和成さんかもしれない、と思い画面を確認するも、非通知からの着信だった。いつもなら気にもならないけれど、今に限っては気味が悪い。通話を拒否するけれど、もう一度かかってくる。
 何度拒否してもめげずにかかってくる非通知着信に気持ち悪くなり、速足でアパートにたどりつき、鍵を開けてドアの内側に身体を滑らせる。

「……あれ?」

 朝家を出たときと、何か違う。そんな気がした。何が違うのかまでは分からないけれど、どこか違和感を覚えつつ中に入る。家主のいなかった部屋はひんやりとしていて、風が吹いているような空気の流れが感じられて首を傾げた。玄関で電気をつけて部屋に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。

「嘘……」

 窓ガラスが割られてカーテンが風になびいている。ベッドの横に置いてあったごみ箱の中身が床にぶちまけられ、積んでおいた参考書も崩れていて、クロゼットから洋服が引きずり出されて戸棚という戸棚もすべて開け放たれて中身を引っ張り出されている。そして、枕が刃物のようなもので切り裂かれて羽毛が埃と一緒に風に舞っていた。
 思わず、一歩、また一歩と後ずさる。玄関のドアに背中が当たり、逃げ場がなくなってしまう。とっさに、施錠してあることを確認した。

「け、警察」

 ぐちゃぐちゃになった部屋から目が逸らせない。鞄の中に入れた携帯を手でまさぐって、手帳を掴んだりキーホルダーを掴んだりしてしまう。やっとのことで携帯を探り当て、番号を押して耳に押し当てた。

『もしもし? 多英さん?』
「あの、か、和成さん、和成さん」
『……? 何かありました?』
「和成さん……」

 腰が抜けて、その場にへたり込む。携帯も、両手で持っていないとすぐに取り落としてしまいそうなくらいにがたがたと細かく震えていた。
 何度も何度も縋るように名前を呼ぶわたしに、彼はただ事でない空気を察したらしい、落ち着いた声でゆっくりと喋ってくれる。

『どうしました? バイトの帰り道ですか?』
「ち、違うの、家、家」
『多英さん?』
「う、ひっく、和成さん」

 ついに声に涙が混じった。それをみっともないと思うより先に、電話の向こうで動く気配がする。

『家にいるんですね? すぐ向かいます。電話、絶対切らないで』

 息が詰まる。和成さんが慌ただしくしているのが電話越しに分かる。鼻をぐすぐす言わせながら携帯を握りしめ、もうすぐ後ろはドアなのに、部屋から逃げようと身体が勝手に後ずさっていく。
 なんで、なんでこんなことに。
 みっともなく、喉からうめき声が押し出されるように零れる。と、和成さんが声を張った。

『イヤホンつけてますけど、バイクなんで音が聞こえないかも。何かあったら叫んで!』

 こんな状況で声なんか出ない。そう思ったけれど、こんな夜中に来てくれるのにこれ以上わがままなんて言えない。涙でぐしゃぐしゃになった顔を何度も上下させて頷いて、見えてない、意味ない、と自嘲する。
 揺れるカーテンの向こうに人がいるような気がしてならない。もちろんそれは、今わたしが無事でいるのだから錯覚に違いないのだが。
 どれくらい時間が経ったのか、分からない。十分にも二十分にも感じたし、それ以上か以下だったかもしれない。アパートの窓側でバイクが荒々しく停車する音がした。そのすぐあと、部屋のチャイムが鳴る。

「多英さん!」

 チャイムと同時に外から電話口から名前を呼ばれて、ますます腰の力が抜ける。どうにかして振り返り鍵を開けて、震える手でドアノブを握る。わたしが押すより早く、外側から勢いよく引かれた。

「多英さん、大丈夫ですか」

 玄関にへたり込んでいるわたしを確認して、和成さんがしゃがみ込み肩に触れる。いたわるように肩を撫でてくれる細い指の動きが止まった。

「…………」

 部屋の惨状に気がついて、彼はわたしから少し離れた。その手には、携帯が握られている。

「もう、反対しませんよね」
「……」

 警察に通報する。暗にそう言った和成さんに、わたしは一度だけ、こくりと頷いた。
 惨めな気持ちだった。彼の再三の忠告をないがしろにした結果がこれだ。もっと早く相談していれば、こんな事態は防げたかもしれなかったのに。
 和成さんのコートにしがみついて、声を押し殺して泣く。淡々と、いっそ怖いまでの無感情な声で通報しながら、彼はわたしの頭を引き寄せて自分の薄い胸板に押しつけた。数度、強く押しつけられてそれから髪の毛を細い指が宥めるように絡めて梳く。
 初めて触れた彼の身体は、細くて薄くて、きっと普段なら頼りなく感じてしまうくらいのものだったのに、体温はちょっと高くて、めちゃくちゃ安心した。