03

「警察行きましょう」
「え」

 ぱっと顔を上げると、彼はいたって真面目な顔をしている。いきなり発せられた穏やかでない単語にわたしが目を瞠ると、もの思わしげに眉を寄せて神経質に指を組んだ。

「まあ……夜中にチャイムを連打されてるくらいの実害では本格的に動いてはくれないかもしれませんが……」

 彼の言う通り、あとをつけられて、チャイムを鳴らされるくらいのことで警察が真剣に取り合ってくれるとは思えない。世の中にはもっと大きな事件や深刻な被害があるのだ。

「被害届を出すのではなく、相談というかたちで気に留めてもらうだけでもいいと思います」
「……」
「下手に犯人を刺激すると逆効果になることもありますので、一概に警察に行くのがいいとも言えないんですけど」
「行きたくないです」

 とっさに、そう口走った。
 つい最近も、つきまとわれていた女性が警察に相談したその帰り道で襲われた、という事件があったばかりであることを思い出したのだ。ストーカーをする人間なんて、正常な思考をもはや持ち合わせていないのだから、常識が通じるとはとても思えない。
 わたしの即答に、和成さんはため息をついた。

「そう言うとは思いました」
「これ以上面倒事増やしたくないし、それにほんとうに逆効果になっちゃったら怖いし……」
「そうですよね」

 表情を曇らせた彼は、組んでいた指をほどいて片頬杖をつき何か考えるように唇を尖らせる。

「とは言え、昨日もよく眠れなかったんじゃないですか?」
「……」
「ちょっと目元に疲れが見えます」

 自分の目元を指でとんとんと叩き、指摘する。一応メイクしたものの、やはり隠しおおせていないらしい。両手で下瞼のクマを隠すように触れて、深々と息を吐く。

「相談すれば、家周辺の巡回を増やしてもらうこともできます。制服の警官がいるだけでかなりの抑止力になるとは思うんですが」
「……そう、かもしれませんけど……」
「無理にとは言いませんよ、もちろん。でも、選択肢のひとつとして考えておいては」

 そうやって真剣に考えて言ってくれる気持ちはありがたい。でも、脳裏をよぎるのはやはり、逆上したストーカーに襲われる自分だ。ミルクティーのカップを手に取り、一口飲む。まだ熱い。
 同様にまだ熱いだろうコーヒーを平気な顔で飲んでいる和成さんを眺める。白い首に浮き上がった喉仏が上下するのを見ていると、ふと目が合った。

「……この前も言ったと思うんですけど、見れたものではないですよ」
「そうですかね……」

 じっと見ていたのがばれてしまって照れくさくなって笑うと、笑みを返されて、中身を飲み干したカップをソーサーに置いて使わずじまいだったポーションをいじりながら彼は言う。

「今は、まだ大丈夫だと思うんですけど、これ以上ひどくなるようなら警察も検討してくださいね」
「……はい」
「俺でよければ、いつでも電話してください。よっぽどのことがない限り出ますから」
「……ありがとうございます」

 こんなに甘えて頼ってしまっていいのだろうか、この人に。付き合いも浅く、まだお互いのことをそんなに知らないのに。そういえば。

「あの、和成さんって」
「はい」
「何の研究をされているんですか?」
「ああ」

 まずは相手のことを知ることから始めよう、そう思い、何となくタイミングを逃して聞けずにいたことを聞いてみる。スティックシュガーをもてあそんでいた和成さんが、少し照れたふうに口角を持ち上げる。

「犯罪心理学です」
「……犯罪、心理学」
「鈴井教授は、その分野ではかなりの権威ですよ」
「へえ……」

 犯罪心理学というのは、具体的にはどういうことを学んで分析するのだろう。少し気になったものの、たぶん聞いても専門的な言葉が返ってくるのだろうなと思うと、自分の無知ぶりを晒してしまいそうで聞けなかった。一応わたしだって、心理学の授業は取ってはいるけれど、それがメインではないので適当に履修しているのが浮き彫りになってしまうのは避けたい。まったく知らないならともかく、下手にかじっている身としては、自分より詳しい人とそういうことを話すと惨めになるのである。

「分かりやすく説明して差し上げたいのはやまやまですが、俺にそんなスキルはないですね……」

 どうやらわたしは、犯罪心理学と聞いただけですでにちんぷんかんぷんだったのを表に出してしまっていたらしい。慌てて首を横に振る。

「いえ、わたしが無知なのが悪いんです」
「無知って」

 吹き出した和成さんが、その拍子にいじって紙が弱くなっていたスティックシュガーの封を切ってしまった。

「あっ」

 粒状の砂糖が和成さんの膝や太腿に落ちていく。

「だ、大丈夫ですか」
「俺は自分のこういうどんくさいところをどうにかしたいですね……」

 苦笑いしながら太腿に降りかかった砂糖を手でかき集めてカップの中に入れている和成さんに、一応自分がどんくさいという自覚はあるんだな、と思いつつ手伝えるはずもないので黙って見ておく。

「取れました?」
「ええ、なんとか」

 最後に、ぱっと膝を払い軽く叩き、恥ずかしそうに鼻の頭を触る。爪は短くきれいに切り揃えられていて、四角形になっていてすごくきれいだった。わたしなんか、丸くて小さいし、マニキュアをしても面積が小さすぎてよくはみ出すのでとてもうらやましい。
 細部のパーツがきれいな人は、憧れる。神様がすみずみに細かく手をかけてくれた証拠のような気がするからだ。指先や、髪の毛の先までうつくしい人はきっと、心までうつくしい。

「爪、きれいですね」
「え? ……そうですか?」

 和成さんが、自分の手をひっくり返して爪を見た。右手の親指の腹で左手の中指の爪を触りながら、彼はぼそりと言った。

「弱いので、すぐ折れちゃうんですよね。だから深爪気味にして、なるべく外敵から守ってます」
「外敵」
「衝撃とかそういうやつから」
「なるほど」

 頷くと、彼は至極真面目な顔をして続ける。

「多英さん、マニキュアとかされないんですか?」
「わたし、飲食店でバイトしているので」
「ああ、そっか」

 唇を尖らせて、和成さんが少しだけ残念そうな表情をつくった。何だろう、と思っていると、彼はわたしの指先をじっと見つめて、言う。

「多英さんは、寒色が似合いそうです」
「そ、そうですか?」
「もしくは大人っぽい濃いめのこっくりした色」

 男性からこうも正面切って、似合いそうな色だとかマニキュアのことを話す機会などそうそうないので、どぎまぎしてしまう。こっくりした色や寒色は、わたしの好きな色でもあるので、余計に、見透かされたようで心臓がとくとくと鼓動を速めた。
 そのまま世間話に足を突っ込んだ和成さんとわたしは、わたしの授業が始まる時間までカフェテリアで座っていた。好きな音楽の話をしたし、気になっている恋愛映画の話もした。

「じゃあ、……また何かあったら、遠慮なくご相談くださいね」
「……ありがとうございます」

 けれど結局そういうふうに締めくくられて、犯罪心理学を研究しているから、ストーカーの相談に親身に応じてくれるのだろうか。なんとなくそんな思いがよぎって、ほんの少し心臓がちくりとした。