お気に入りの黒いコートの裾が風に翻る。十二号館の前に立ち尽くし、わたしは少し悩んでいた。
いつでも相談して、彼はそう言ったけれど、あんなの社交辞令なんじゃないだろうか。ほんとうに相談したら迷惑になるんじゃないだろうか。げっ、こいつマジで相談してきたよ、とか思われないだろうか。
とは言え大したことはないとまともに取り合ってくれない、彼女持ちの寿に頼るわけにもいかないし、わたしはほかにあてがあるわけではなかった。女友達に相談したって何も実を結ばないと思うしそれ以前に七十五日を耐え忍ぶつもりで沈黙を守っているのに新たな話題を供給するのは避けたい。ここで必要なのはやはり情報を誰彼かまわず拡散しない口の堅い人間ではないのだろうか、そんな安直な考えでわたしはここに立っているのである。
意を決して、十二号館の入口に足を踏み入れる。
「……!」
その瞬間、刺すような視線を感じて思わず振り返る。誰もいないけれど、たしかに感じた強い視線。どこからかは分からないけれど、でも確実にわたしを見ていた視線。
辺りを見回して、幾度かまばたきをして、それから前を向く。家を知られているのだから大学まで追って来ていてもなんら不思議ではない。今は昼間で、周囲にもぱらぱらと人がいるから、大丈夫だ。大丈夫。
ふっと短く息を吐き出したところで、肩を軽く叩かれた。
「っ」
「こんにちは」
「あ」
片腕で分厚いファイルを抱え、和成さんが立っていた。立ち襟の白いシャツに黒いカーディガンをはおっている。いつもシャツにカーディガンの組み合わせだが、もしかして彼は無限にカーディガンを持っているのではないだろうか。
「こんにちは」
チョコレート色の瞳が優しく細められ、薄い口元が綻ぶ。
「おとといは可愛らしい寝息をごちそうさまでした」
「……!」
面と向かって言われると、恥ずかしいものがこみ上げて、顔がかっと熱くなる。どう返そうか迷って結局何も言えずにいると、彼は笑っていた表情を引き締めて一転真面目な声色で尋ねてきた。
「昨日は、何もありませんでしたか?」
「あ、えと、いや、まあ」
「……何かあったから、わざわざ俺に会いに来てくれたんでしょうけど」
「……」
うなだれる。そのものずばりを言い当てられて唇を噛んだ。ショルダーバッグの紐を握りしめて顔を上げると、真剣な顔でわたしを見つめている和成さんと目が合う。思わず逸らすと、ため息が降ってきた。
「何がありました?」
「……チャイムが、鳴って」
「それ以外には?」
「何も……ちょっと連打したら、帰ったみたいです」
和成さんが歩きだす。研究室に向かうようだった。追いかけてもいいものなのか悩んで立ち止まったままでいると、彼は振り返って笑った。
「これだけ、置いてきちゃうんでちょっと待っててください。カフェテリアでお話聞かせて」
「あ、はい……」
ファイルを軽く揺すって、研究室のほうへ消えていく。そういえば、ハンカチを返しに行ったとき、わたしはたしか彼に、何を研究しているのか、と聞こうとしたのだ。何かあって、すっかり忘れてしまっていたのだが。今更かもしれないけれど、あとで聞いておこう。
入口すぐの、禁煙、と書かれた紙が貼ってある壁にもたれかかって待っていると、和成さんが小走りにやってきた。
「お待たせしました」
「あの、大丈夫なんですか? 時間とか……」
「大丈夫ですよ。今日はそもそも何もない日ですし。俺が好きで研究室に入り浸っているだけです」
ちょっと走ってきただけなのに軽く息を切らせている和成さんは、今度はファイルの代わりにコートとマフラーを腕にかけている。歩きながらそれらを身に着けて、しっかりとコートのボタンも閉じてベルトも締める。カフェテリアに入ったら、どうせ脱ぐのに。と少し唖然とした。
「和成さんって、寒がりですか?」
「ええ? そう見えます?」
「見えます」
「実はそうです」
色のない頬をふわりと持ち上げて、コートの上から腕を抱くようにさする。袖口から覗く白い指は、やっぱりかさかさしていて白樺の枝のようだった。鞄をあさる。
「あの、これ」
「……?」
和成さんに薬局の紙袋を差し出すと、唇をすぼめて不思議そうにそれを見つめられた。さらに強く差し出せば、彼は戸惑ったままそれを受け取る。
「なんですか?」
「ハンドクリームです」
「……」
「手、あかぎれになりかけてるから」
自分の手を見つめた彼は、紙袋のセロハンテープを剥がして中身を覗き込み、ばつが悪そうにはにかんだ。
「電話の、お礼です」
「お恥ずかしい……ありがたくいただきます……」
紙袋ごとコートのポケットに入れて、あらためて自分の手の甲を見つめた和成さんが呟く。
「たしかに……汚いなあ……」
「あっ、そういうわけではなくて、あかぎれになったらあとあと大変だし」
「ふふ、分かってますよ」
なんだか、わたしが和成さんの手を汚いと思ったように取られてしまいそうで慌てて弁明する。細長い指とてのひらを太陽にかざし、眩しそうに目を細めた彼がふとわたしの手元に視線を落とす。
「多英さんは、手、おきれいですね」
「そ、そうですか?」
わたし自身すぐにあかぎれになるので、ハンドクリーム等のケアは欠かせないのだ。冬の乾燥する時期は、顔も身体も保湿が欠かせない。
和成さんもたぶん、乾燥肌なのだろうなと思う。頬も少し荒れ気味だし、唇も皮が剥けている。今度はリップクリームだな、となぜか算段をつけてしまう。頭の中に、薬局の棚が浮かび、男の人が持っていてもおかしくないデザインのものを探る。
「女性はきれいにお手入れしていていいですけど、男がハンドクリーム持ってると、ちょっと滑稽ですね」
「……ご迷惑でしたか?」
「いえ、全然! うれしいです、せっかくのプレゼントなので、棚に飾っておきます」
「使ってくださいよ!」
そうこうしているうちに、カフェテリアに着く。人でにぎわう時間帯ではないものの、静かではない。
コーヒーとミルクティーを注文し、席についてコートを脱ぐや否や、邪魔そうに髪の毛を耳に掛けて和成さんが切り出した。