影の存在


 亜里香が新高島のセーフハウスに持ち込んだのは、下着と部屋着、洗面用具と最低限の化粧品と生理用品、そして、いつかに晴市から贈られたくまのぬいぐるみだけだった。
 もともと、多くを持たずに生活できる自覚はある。ただ、心残りは、晴市に贈られた服や靴、鞄や宝飾品に化粧品だった。
 それ自体が恋しいわけではもちろんない。けれどあれらを晴市が本気で、心を込めてきっと喜んでくれると信じて贈ってくれていたのだと分かった途端、急に名残惜しい。
 あれらに晴市の愛情が詰まっているなら、ひとつ残らず手元に置いておきたくなってしまう。いつまでも眺めていたくなってしまう。

「亜里香、ただいま」

 晴市は最近、少し疲れ気味のようだった。
 きっと仕事が大変なのだ、と思いながら、亜里香は宇藤に食材の調達を頼んでいる。せめて、ここに帰ってきたときに気持ちを落ち着けてほしい一心で、亜里香は広いキッチンに立つ。
 亜里香にはひとつ疑問がある。晴市は今年で三十歳になる、たしか。ただ、宇藤と名乗った男は、部下だと言った男は、晴市よりもわずか年上に感じる。
 それは、見た目ではなく、表情や物腰、醸し出される雰囲気から感じられることだった。

「晴市さん」
「なんだ」
「宇藤さんって、晴市さんよりも年上なんですか?」
「ア?」

 ジャケットを脱いでいる晴市に声をかけると、彼は間の抜けた声で亜里香の疑問を聞き入れた。それから、意味を理解したのかおざなりな態度で頷いた。

「まァな。……あいつ今年でいくつになるんだ……」
「でも、部下なんですね……?」
「あー……、俺が十九の時に、あいつを拾ったんだ、いろいろあってな」
「いろいろ」

 人間という存在は、そう簡単に拾ったり捨てたりできるものではない。おそらく、比喩的なものだろうと思って、いろいろ、と聞き返すと、晴市は予想外のことを言った。

「路地裏でくたばってたのを担いで、医者に連れてったんだよ」
「……」

 物理的なものであったことに驚いて、しかしそれで納得する。
 助けられた恩義があるから、年下の晴市に主導権を握らせているのだな、と。
 十九歳の晴市、に思いを馳せる。きっと、今よりも少しだけ初々しくて、それでもやっぱり女性が、もしかしたら時には男性も、放っておかなかったのだろうなと。
 と言うより、晴市には、言葉に落とし込んでしまうと大変陳腐であるが、カリスマ性があるのだと思う。
 人を惹きつける、何か。それが何かは分からない。ただ、現実に亜里香自身も、晴市の正体の分からない何かに惹かれたのはたしかだ。

「なんだ、宇藤に興味があるのか」
「いいえ、ただ……年上なようなのが気になっただけで」
「言ってもそんなに変わんねえよ、たぶん」

 晴市は、あまり年齢だとかにはこだわらないようだった。

「亜里香、変なことを聞くけどな」
「はい」

 珍しく、晴市が言い淀んでいる。不思議に思って彼のほうに近づけば、亜里香にとっては予想外なことを言い出した。

「宇藤は、変なことしてねえか」
「……変なこと?」
「ああ、いや、ねえならいい」

 変なこととはなんだろう、と思ったが、亜里香は特に追及できなかった。晴市が、この話はもう終わり、と言わんばかりに着替えに寝室に消えてしまったからだ。
 味噌汁を掻き混ぜながら少し考えて、亜里香は、嫉妬だろうか、とほんのり思った。思ったが、それを言葉にして晴市に確認するにはまだ、亜里香には勇気が足りなかった。
 亜里香にとって宇藤という男は、少し不気味で苦手なタイプだ。
 眼鏡の奥の瞳が、まず怖い。それからきっと、亜里香のことを少し疎ましく思っている。そういうものは、なんとなく態度や言動で分かる。
 晴市という上司の命令で仕方なく面倒を見てやってんだ、という心がなんとなく透けて見えるのが、不気味だった。

「……」

 けれど、晴市は彼を信頼して亜里香のことを任せているのだ。個人的な感情で、あの人は嫌です、なんて言えないし、言うつもりもない。
 スーツからラフな格好に着替えた晴市がリビングに戻ってきたのを見て、夕飯を盛りつける。
 ほんとうはみずから買い物に出かけて、その日一番安く良いものを買いたいのだが、亜里香は外に出させてもらえないため、仕方なく宇藤に買い物を頼んでいる。
 薄々、気づいていた。母に惚れていたあの男が堅気でないことなど、とうの昔に。
 そんな義父が用意した縁談もまともなものでないことも、分かっていた。
 それでもあの金曜日、亜里香が晴市を選ばなかったのは、彼が、決定的な言葉を使わなかったからである。
 好きだから俺を選べ、愛しているから攫われてくれ、そう言ってくれたなら、亜里香は迷わず晴市の手を取るつもりだったのだ。
 言葉なんて安いものだ、と思ってはいるけれど、あのときの亜里香には、言葉が必要だった。

「亜里香」

 夕食の最中、晴市が名を呼んだ。
 口の中に食べ物が入っていたため、言葉は返さずに顔だけそちらに向けて返事に代える。

「近々、お前の部屋を引き払う」
「……」
「悪いが仕事も辞めてもらう」
「……」

 そう、なるのだろうなと、思ってはいた。この部屋に匿われてから、少しずつ覚悟も溜めてきた。
 裏社会のことについて詳しくは知らない。だが、晴市が亜里香を攫ったこと、また亜里香が一度は手を離しながらも結局は晴市のもとに戻ってしまったことは、きっと許されはしないことなのだろうと想像はついていた。
 それはつまり、義父を裏切り、恨みを買うことになったのだ。

「……分かりました」
「なあ、亜里香」
「……?」
「ほんとうにいいのか?」

 思わず、食事の手を止めて晴市の目を見た。
 垂れた甘い瞳が、痛いほどの真剣さを孕んで射抜いてくる。まっすぐに見つめ返し、頷いた。

「……どんなことになっても、晴市さんがいてくれるなら、それでいいんです」

 たとえこの先一生何かに怯えてろくに外出もできず暮らしていくとしても。晴市がいてくれたら、それで。
 そんな思いを込めてほほえむと、晴市はしばらく黙ったのち、思わずと言ったふうに吹き出した。

「お前はつくづく、不幸な女だよ」
「……」
「俺みたいな男に捕まって、籠の鳥だ」

 晴市は意外と何も分かっていないな、と亜里香は思った。
 今この瞬間が亜里香にとって不幸なわけがないのだ。

「そうですかね……」

 けれど、それを今言うのは何か違うなと思い、亜里香はほほえんだまま、首をゆるゆると横に振った。

 ◆◆◆

 晴市は、出かけていく時間も帰宅する時間もまちまちだ。昼頃までだらだらしているかと思えば、明け方に帰ってくることもある。
 一応、連絡用にと渡された晴市と宇藤にのみつながるスマートフォンに、帰宅時間の目安は送られてくるものの、亜里香は、それがよほどの時間でない限りは起きて待っていた。

「寝てろって言ったろ」

 そう言いつつもうれしそうにするのだから説得力がない。
 今日も、帰るのは深夜になるから先に寝ていろ、という旨のメッセージが届いていた。亜里香は、なまる身体をストレッチでほぐしながら、シーリングライトを見ていた。
 電球色のやわらかい寝室の光をぼんやり眺めていると、玄関のほうから物音が聞こえた。

「あれ……」

 時計はまだ十一時過ぎだ。深夜と言うには早いが、帰ってきたのだろうか。
 寝間着の上にガウンをはおり廊下に出ると、晴市が靴を脱いでいるところだった。

「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」

 ちらりと亜里香を見て、すぐに視線を逸らし部屋に上がる。いつもなら、晴市は出迎えた亜里香を抱き寄せてくれるのに、だ。

「……晴市さん?」

 亜里香の横を無言ですり抜ける晴市に思わず声をかけると、少し疲れたような表情で笑った。それから、いつものようにふわりと細い身体を抱き寄せ、つむじに鼻をうずめた。

「…………」

 ぎくり、と頬が引きつった。急に心臓がせわしなくはたらきはじめる。つむじにキスをして、晴市が離れる。
 その場に縫いつけられたように動けなくなってしまった亜里香の背中に、声がかかる。

「風邪引くぞ」

 はっと振り向くと、いつも通りの顔をした晴市が亜里香をじっと見ていた。
 ぎくしゃくとリビングに戻ると、晴市はジャケットを脱いでそれをソファに投げ捨て、そのままバスルームに姿を消した。
 じっと、脱ぎ捨てられたジャケットを見つめる。手を伸ばし、それを拾い上げる。顔の近くまで持っていき、すうと息を吸った。

「……、……」

 後頭部に、重たい痛みが走る。目を閉じる。ぎゅっとジャケットを握りしめる。
 甘ったるい女性ものの香水の匂いが、べったりとその存在を亜里香に誇示するように移っていた。

maetsugi
modoru