触れたい
たぶんお母さんがぽろりとついうっかり漏らしたのだ。意図的にではないと信じたい。土曜日、いつのもようにお昼ご飯のかぼちゃのホットケーキを作っていると伴田さんがやってきた。眉間にしわが寄るのを抑えられないで、そのまま出迎える。
「こんにちは」
「……いらっしゃい」
ぶすっとした顔で出迎えると苦笑され、それでも家に入ってくる。ふわりと、柔軟剤のきつい香りが玄関に充満した。洗剤の香りはあたしだってさせているし許せるけど、この柔軟剤の香りは、あんまり好きじゃない。わざとらしいフローラルだ。
吉川さんはこんな香りさせない。あっさりした合成洗剤の香りがする。
お母さんはちょっと用事で郵便局に行っていて、もしかしたら出かけている間に伴田さんが来るかもしれないから、ということは聞いていたから別にそれはいいんだけど。でも、あたしは嫌いな人とちゃんとおしゃべりできるほど器用な人間ではない。
「ああ、そうだ新ちゃん」
「……なんですか」
「お母さんから聞いたんだけど」
「……」
細身の体に似合うジャケットとシャツにチノパンという好印象な服装で、伴田さんはリビングの椅子に座った。ジャケットを脱いで椅子の背に掛けてから、あたしが視線で促したのを見て続ける。
「年上の男の人と、付き合ってるんだって?」
「……」
そんなのあなたに関係ないじゃないですか。
そう言いかけたのをぐっとこらえてじろっとにらむと、それを肯定と取ったようだ。
「感心しないな」
「……なんで」
「新ちゃんはまだ高校生で、相手の方の年齢は知らないけど相当年上らしいじゃない? もし何かあってからじゃ遅いんだし……」
「うるさいです」
「え?」
「うるさいって言ったんです!」
「……新ちゃん」
お母さんに反対されたら悲しい。早坂先輩に心配されたら面倒くさい。みこちゃんにからかわれたら恥ずかしい。
この人に言われると、腹立たしい。
吉川さんのことを何にも知らないくせに、そうやって又聞きだけで判断して、いい加減にしてほしい。
ホットケーキを焼こうとして温めていたフライパンの火を消す。それから、おどおどしている伴田さんの横を通り抜けて部屋に向かう。鞄を引っ掴んで部屋を出てくると、お母さんが帰ってきたところだった。
「あらもう来てたの……新? どうしたの?」
「家出する」
「は?」
「吉川さんのとこに行く! ちゃんと言ったらいいんでしょ!」
「ちょっと、新?」
そのまま、きょとんとしているお母さんの横をすり抜けて家を出た。
歩きながら、苛立ちは収まらない。それどころか怒りは増してくる。何か、また何かだ、吉川さんを悪者にして、許せない。
駅で改札を通って電車に乗って、はたと思う。急いで出てきたから、ブーツは可愛いのを履いているけど、服装はお部屋で着るためのトレーナーとデニムのショートパンツだ。コートはおってきたけど、ちぐはぐすぎる。こんなので吉川さんに会うとか、電柱に頭を打ちつけたい。
でも、今更戻る気にもなれないし。仕方ない……。
吉川さんのおうちがある駅に電車が滑り込む。この間来た時にばっちりちゃっかり道を覚えていたので、大丈夫だ。でも、いきなり行ったら吉川さんびっくりするかな。
駅からの道のりを歩きながら、吉川さんに連絡を入れようかどうか迷う。でも、そんなことを迷っている間に吉川さんのアパートの前の曲り角が見えてしまった。もう、ここで連絡したってどうしようもないや。そう考えて、あたしは曲り角をえいっと曲がった。
外壁が新しいアパートはわりと駅から近くて、そういえば来る途中にコンビニもあったし、けっこういい立地条件だなあと思いつつ吉川さんの部屋のインターホンを押す。
「はーい……え?」
「こんにちは!」
がちゃっとドアが開いて吉川さんが顔を出す。そしてあたしの姿を認めるや否やぽかんと口を開けた。
「新ちゃん、どしたの」
「合法家出です!」
「ご、ごうほう?」
戸惑っている吉川さんを見る。今はお昼過ぎだけど、もしかして寝ていたのかもしれない。短い髪の毛がぴょこぴょこ跳ねていて、ちょっと無精ひげも伸びていて、なぜかこの肌寒いのに半袖だ。そして汗がうっすら額に浮いている気がするのだけど。
「何してたんですか?」
「……筋トレ。いや、え?」
「あの、お邪魔してもいいですか?」
そこで、吉川さんが黙った。
やっぱり、家出って言ったらよくなかったのかな。でも今日はちゃんとお母さんに言ってきたし。などなど考えながら吉川さんを見つめる。
「家出って、新ちゃんさあ……」
「だ、だめですか」
うっ、と吉川さんが言葉に詰まった。それはたぶんあたしが泣きそうな顔をしてしまったからだ。
泣くまいと頑張っていると、吉川さんがぎゅっと唇を噛んでため息をついた。
「ちょっとだけな?」
「ほんとですか!」
「家出じゃなく、ちゃんと帰れよ。送ってくから」
「……」
「返事は」
「……はい」
しぶしぶといった感じで部屋に上げてくれた吉川さんは、あたしが所在なくリビングに突っ立っているのを見ると、適当に座ってな、と呟いてキッチンのほうに向かった。
どこに座ろうか迷って、ローテーブルの隣にすとんと腰を下ろす。それから辺りを見回す。物が多いわけじゃないけど、なんだか雑多な雰囲気だ。この前来た時は一生懸命観察する余裕がなかったけど、今日はゆっくりと部屋を見られる。
寝室につながるドアが開いていたのでそこをちらりと覗き込むと、お布団が畳んであってダンベルが落ちていた。あたしの知ってるダンベルと、大きさが全然違う。スポーツジムにあるみたいな。何キロあるんだろう……。
「新ちゃん、飯は?」
「あ、えっと、……おかまいなくなのです……」
部屋にひょいと顔をのぞかせた吉川さんにそう返した瞬間、おなかがくうう、と鳴った。
「……」
「……」
恥ずかしい!
涙目で顔が真っ赤になっているのを隠そうと頬に手を置くと、吉川さんがへにゃりと笑った。
「ちょっと待ってな」
「……おかまいなく」
もういたたまれない。吉川さんがまた廊下のほうに引っ込んだのを確認して、ローテーブルに顔を突っ伏す。
そのままいじけていると、テーブルにお皿が置かれる音がした。顔を上げるとなんだか彩の悪いチャーハンのようなものが置かれている。あたしの対角線側に座った吉川さんがスプーンを手渡してくれる。
「まあ、新ちゃんの飯に比べたら全然だけど」
「……」
恥ずかしそうに笑う吉川さんに胸がきゅうっと縮こまる。
「い、いただきます」
「ん」
一口食べると、なんだかとてもあたしには作れそうにない濃い味付けで、焼肉の味がした。これが男飯……。
でも、全然まずいわけではないしむしろおいしいのである。ただ……。
「新ちゃん、もういらない?」
「……多いです……」
圧倒的質量にあたしの胃袋が根を上げた。一方で吉川さんはすでに自分の分を食べ終えており、あたしがもう食べられないと言うと、あたしのお皿を自分のほうに引き寄せた。舐めんな肉体労働である。
吉川さんが食べ終えて、グラスにお茶を入れて持ってきてくれる。飲んでいると、で、と吉川さんが話を切り出した。
「今度はなんで家出?」
「……伴田さんが」
「ばんださん?」
「新しいお父さんが……吉川さんの悪口言ったんです」
「……」
「皆で吉川さんのこと悪者にして」
思い出すだけでふつふつと怒りがわいてくる。吉川さんのことを何にも知らないくせにあんなこと言って。
でも、もちろんそれも腹の立つ理由なんだけど、一番の理由は父親面されたことだった。あたしのお父さんはこの世に一人だし、誰にもその代わりはできない。なのにいきなりお父さんが娘に説教するような体を取ったのがすごくもやもやして。
伴田さんとしては、あたしとコミュニケーションを取ろうとしたのかもしれないけど。
「新ちゃん」
「……」
「な、泣くなよ?」
「……泣いてません!」
ずるっと鼻水をすすって目元を擦る。吉川さんがあわあわしながらティッシュの箱を近づけてきた。
それから、何か考えるように唸って首をかしげ、ぼそっと呟いた。
「まあ、なんだ。とりあえず送っていくから」
「もうですか!? か、帰ったらまだ伴田さんいるかもしれないのに!」
「いや、そうは言ってもよ、お母さん心配してるだろ」
「ちゃんと、吉川さんのところに行くって言ってきました!」
「いやでも」
「め、迷惑ですか……吉川さんあたしと一緒にいたくないですか……」
本気でべそをかきそうだ。ショックイズビッグすぎる。
そりゃあ、吉川さんはあたしの勢いに押されて付き合いたくもない女子高生と付き合ってくれてるのは知っているんだけど、それでも、やっぱりそうやって付き合ってくれてるんなら、一緒にいたいって少しは思ってほしい。
目に涙が溜まっていくのを見た吉川さんがぎくっと体を震わせた。
「い、いや。そんなことはないけど……」
「じゃあもう少しいいですよね!」
「え」
「いいですよね!」
「……お、おう」
完全に押し負かした感じは否めないが、とりあえず言質を取る。吉川さん、おう、って言ったもんね。もう少しここにいても、いいよね!
深いため息をついた吉川さんが、寝室のほうにちらりと目を向ける。
「俺筋トレの途中だったんだけど」
「おかまいなく! あたし見ているだけでいいので!」
「見られるとすげーやりにくいよ」
「あっ、じゃあ」
あたしが目をきらきらさせると、吉川さんが後ずさった。何かを察したらしい。
「あの、あたし一回やってみたかったことがあるんですけど」
「何?」
「腕立て伏せをしている人の背中に乗りたいんです!」
「……」
眉を寄せた吉川さんが、いけんのかな、と呟いた。
「いけます! 吉川さんならきっといけます!」
「じゃあ、ちょっとだけ」
うつ伏せで腕を立てた吉川さんの背中にちょこんと座る。足は床についたけどお尻に体重をかけるようにして負荷をかけると、吉川さんがうめいた。
「けっこうキツイ」
「がんばってください!」
そのまま、吉川さんが腕を上下させるとあたしの体も上下に揺れる。すごい、ちゃんと腕立て伏せになってる。肉体労働侮るなかれ。
ただ、二十回を過ぎたあたりから背中が震えだして、二十五回目の下がりで吉川さんがダウンした。
「限界……」
「すごいです!」
小さく拍手をしながら床に寝そべるかたちになった吉川さんのたくましい背中にぺったり上半身を寝かせるようにしてくっつくと、動かないと思っていた吉川さんが素早い動作で起き上がり、ころっと落とされた。
「吉川さん?」
「……なんでもない」
「え?」
顔を手で覆ってため息をついた吉川さんの腕にそっと触れると、ちらっと横目に見つめられる。恥ずかしくなって視線をそらすと、吉川さんの手が伸びてきた。そのまま頬を大きな手で包まれたので、慌てて目を閉じる。
ちゅっと軽く一瞬だけ重ねられた唇が、何かを請うようにあたしの下唇を甘く噛んで、頭の中がふわあっとして卒倒しそうになる。思わず、閉じていた目をさらにぎゅっと強くつぶって頬に置かれた手に自分の手を重ねて握り締めると、唇は離れていった。
そわそわと少しだけ目を開けると、吉川さんの顔が間近にあって急いでまた閉じた。すると、また唇にふにっと当たる。そんなつもりじゃなかったのに!
吉川さんの手に包まれた頬が、際限なく熱くなる。たぶん、首まで赤い。がちがちに固まってしまった背筋を、吉川さんの手が不意に撫でた。びくっと肩が浮く。
「力入れすぎ」
「……だ、だって」
唇が触れそうな、吐息の混じりそうな距離で交わされる会話に、心臓が止まりそうになる。
背中を上から下へと行ったり来たりしている手が底なしに優しくて、その手にそのまま引き寄せられてしまう。ぎゅっとたくましい腕の中に閉じ込められて、心臓が思い出したようにばくばくと鼓動を刻む。破裂するかも、そう思ってしまうくらい、心臓の音がうるさい。
「ひゃ」
耳を噛まれて、吐息が直接聴覚を震わせるような錯覚に陥って、怖くなってしがみつく。知らず体が、未知の感覚に震えだした。
そっと体を離された。
「よ、しかわさん」
「……」
ちょっとだけ、気まずそうな顔をしている理由が分からなくて、あたしはぼうっとする頭で名前を呼んだ。そうしないと、岸に戻ってこれない小舟のようになっちゃいそうで心細くて。
不安な顔をしていたのかもしれない。吉川さんの手がわしゃわしゃと髪の毛をかき混ぜるように頭を撫でて、ちゅっと額に唇が落ちた。
「送ってく。あんまり遅くなると、お母さん心配するだろ」
「……はい」
立ち上がった吉川さんの手をぎゅっと握る。
このまま、ずっと一緒にいられたらいいのに。そう思っているのはあたしだけかもしれないけど、ちょっとだけきっと、吉川さんだってそう思ってくれていたらいい。