ラブリーサマー
煙草を、吸えたらいいなと思ってみたりしている。こういう業界にいるので、周囲には喫煙者が多い。だから吸えないわけがないと思っていた。俺もいずれは当たり前のようにあちらがわに行くのだと思っていた。
でも違った。煙が、どうしてもだめだった。副流煙はまだ臭いが薄いからましで、自分で吸ってみると、肺にじかに入ってくるあの煙が、肺が縮こまるような感覚が、どうしてもだめだった。
いいじゃん、健康的だし、あんなの身体にいいことひとつもないんだし、金もかかるしラッキーだ。
そう思ってみても、男社会での喫煙というのはコミュニケーションの場でもあって、そこに缶コーヒーを持って入っていくのは少し、恥ずかしかった。
今は、若いやつらは吸わないのも多いし、そんな恥ずかしさも吹っ切れたけど。
で、だ。なんで俺が今そんなことを考えているかと言うと。
待つ間、吸えれば手持ち無沙汰な感覚は消えるのかな、とちょっと思っただけだ。
ちら、と運休と大幅な遅延を知らせる電光掲示板を見た。
「お待たせしてしまって、すみません!」
人を大量に吐き出す改札から、新ちゃんが走ってきた。彼女が乗っていた電車が人身事故と車両点検で運休と大幅な遅延を食らい、間に合うはずだった待ち合わせに遅れることとなったのだ。
気にしなくていいと言ったのに、新ちゃんはメールでひたすら低姿勢で謝り倒してきた。
そして、目の前に息を切らして立っている新ちゃんを見て、しまったな、と思った。
制服でない彼女を見るのは、初めてではない。ただ、これまではちょっとそこまでなご近所着ばかり見てきたため、いわゆるおしゃれした新ちゃん、を見たのは初めてだった。
花柄の華やかなワンピースに、足元はショートブーツとなんだかかわいい飾りのついている靴下。いつも洗いざらしかポニーテールの髪の毛は、今日はなんだか複雑なことになって髪飾りまでついている。
対して、俺は。
いつものTシャツにいつものジーパンというほんとうにいつもの格好だ……。
「さっ、遅れてきてなんなんですけど、吉川さん、行きましょう!」
「……」
「吉川さん?」
「あ、……おう」
申し訳なさがすごい。
新ちゃんがご近所着を堂々と披露していたので、油断していた。……いや、言い訳はやめよう。どうせ、おしゃれしてくると分かっていたとしても、俺には一張羅なんか法事用のスーツくらいしかないのだ。
「どこ行くの?」
もう、過ぎたことを悔やんでもしかたないので、切り替えてせめて今日のデートは新ちゃんに楽しんでもらおうと意気込んで、デートプランを尋ねてみる。
……いや、もうこのへんがだめなんだっていう自覚はあるぞ? 俺が本来プランを立ててリードすべきということくらい分かるぞ? でも、新ちゃんが、あたし行ってみたいところがあるんです! って目をきらきらさせるもんだからな?
「えと、あの、食べたいレストランがあって」
「へえ……」
スマホを取り出した新ちゃんが、どうやら画面に表示されている地図を見ているらしい、こっちです、と言って歩きだす。
てくてくとついていく間、あまり会話が弾まない。というのも、新ちゃんが一生懸命悩まないようにスマホに集中しているからだ。つまり、新ちゃんのほうが話題を振ってこないと、俺は何を話していいのか分からないのだ。
「えっと……こっちです…………えっ」
「ん?」
ぴたり、と新ちゃんが立ち止まる。なんだかうかない顔をしているので、その視線の先を追ってみると、イタリアンっぽい外装の店がある。そして、扉は固く閉まっていて、CLOSEDの札がかかっている。
「……閉まってるな」
「うそ!? 定休日じゃないはず……!」
「張り紙がある。本日店主都合により臨時休業いたします……と」
「……!」
新ちゃんが泣き出しそうな顔になって、何度も何度も張り紙を見ている。
そして、しょんぼりしながらとぼとぼと俺のほうに戻ってくる。
「……本日は臨時休業するそうです……」
「うん、今見たから知ってるよ」
「ですよね……」
すごくがっかりしているような新ちゃんに、かける言葉が見つからない。
よっぽど、このレストランに行きたかったのだろう。ちんまりとしてしまっているので、どうしようと少し悩んで、それから、ぽんと肩を叩く。
「まあ、今度また来よう、別に閉店したわけじゃないんだし」
「……はい……」
新ちゃんの表情がようやく、ほんのりと明るくなって、へへ、と情けなく笑う。
「せっかく考えたデートプランが台無しになってしまいました……」
ああ、それで。と合点する。
新ちゃんは、自分が考えたデートが計画通りにいかないのがちょっと悔しかったのだ。よっぽどこのレストランに行きたいのかと思っていたけど、そうじゃなかった。
ちびちびと新ちゃんが話し出す。
「せっかく、初めてのデートだったので、がんばって計画を立てたんです。ごはんを食べたあとは映画を観に行って、それで夜になったらもういっこ美味しいごはんを食べに行って……」
「待って、ストップ」
ひとつ聞き捨てならない項目があったので、止める。
きょとんとした新ちゃんは、大きな紅茶色の丸い目で俺を見上げた。
「晩飯前には帰るよ」
「え!?」
「言っただろ、親御さんに心配かけらんないって」
「で、でも夕飯くらい……」
「だめ」
そこはきちんとわきまえないと、のちのち俺が親御さんに顔向けできない。
のちのちとはなんだ、って感じではあるが、のちのちはのちのちだ。
一気に気分が急降下した様子の新ちゃんに若干の罪悪感はわくものの、それでもやっぱり大人が未成年を長々連れ回すのはよくない。
「とりあえず、飯食いに行くぞ」
「……はい」
ぶすっとしたご様子の新ちゃんを、駅前に連れ戻そうと歩きだすと、ぽつんと頭になにか当たった。
「ん?」
「……雨?」
新ちゃんがそうつぶやいたとたん、ざああ、とすごい勢いで降り出した。今はやりの……はやりのと言うと語弊があるが、今はやりのゲリラ豪雨だ……。
慌てて、新ちゃんの手を取って屋根のあるところを目指す。あのホテルの軒先……あそこが一番近いか。
あっという間に濡れ鼠になってしまった俺たちは、ものすごい勢いで降りしきる雨を軒先で呆然と見つめている。
「……」
「……」
新ちゃんをちらりと見ると、言葉も出ない様子で目を丸くして豪雨に染まる街を見ている。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……初デートなのに……」
「……」
いろいろな感情をごちゃ混ぜにして、ようやく絞り出したようなその言葉に、胸が痛くなる。
きっとたくさん計画を立てて、楽しみにして、がんばっておしゃれをしてきた。それなのに、俺を連れて行きたかったレストランは臨時休業で、その上豪雨に降られて再起不能なほどにびしょびしょだ。
寒そうに震えている肩が、びっくりするほど頼りなく細い。
追い打ちをかけるようだが、この雨は通り雨だろうからすぐにやむのだろうが、雨がやめば俺たちの服が乾くわけではない。
「新ちゃん」
「っ」
声をかけると、切ないくらいに肩が揺れた。
傷ついたような目で見上げてくる新ちゃんに、提案してみる。
「あのさ、このままだと風邪ひくし、一回風呂に入ったほうがいいかも」
「お風呂……?」
新ちゃんは、ここがどこの軒先なのか思い出したようだった。振り向いて看板をじっと見つめ、俺に視線を戻したとき、彼女の頬はかわいそうなくらいに真っ赤に染まっていた。
「あの……でも……」
「別に取って食おうとか言ってるんじゃねえよ、ただ、これじゃ電車に乗って帰ることもできないだろ」
「……でも」
「なんもしないって」
口をぱくぱくさせながら、新ちゃんが言う。
「でも、でも、母が、男性の何もしないとかそういうのは、先生の怒らないから言ってごらんより信用ならないって」
それはたしかにまるっと信用ならない。俺も何度それに引っかかったことか。
「……たしかにそうなんだけど……でも、風邪ひきたくないだろ? それに、服もちょっと乾かさないと、電車に乗れない」
「…………」
ぎゅっと眉を寄せ、唇をへの字に曲げて、紅茶色の瞳を潤ませて、今にも泣き出しそうな真っ赤な顔で、新ちゃんは、あきらめたようにうなだれた。
「ぜ、絶対何もしないんですよ……、絶対、約束ですよ……」
「うん」
俺が何かするわけじゃないけど、新ちゃんって軽く男にだまされそうでめちゃくちゃ心配だ。
◆
シャワーを浴びて、洗面所のほうから新ちゃんがびしょびしょになった服にドライヤーを当てている音がする。
何もしないとは言ったものの、この状況はいやおうなしに心臓が汗をかくような状況だ。だって、ドア一枚へだてたところに裸の女の子がいるというのは、けっこうなシチュエーションだろ。
「よ、吉川さん」
「終わった?」
顔だけ、洗面所のドアから突き出した新ちゃんが、頷くでも首を横に振るでもなく、じっと俺を見ている。
「どした?」
「あの、あの……ちょっとだけ、一瞬だけおトイレ行きたいので、向こうを向いていてくれませんか……」
つまりあれだ。洗面所からいったん出ていかなければならないトイレに行くために、まだ服が乾いていないのでバスタオル姿での出場を余儀なくされているため、俺に背中を向けろと。
黙って洗面所に背中を向ける。
「絶対こっち向かないでくださいね!」
危機感丸出しで部屋まで来たくせに、危機感がなさすぎる。トイレくらい我慢しろ。
水を流し、ぱたぱたと洗面所に戻り、再びドライヤーの音。
ややあって、新ちゃんが洗面所から出てくる気配がした。
「あっ、も、もうこっち向いていいです! すみませんでした!」
「……新ちゃん、あのな」
振り向くと、ちゃんとワンピースを着た新ちゃんがきょとんとして立っている。
お説教のために口を開く。
「ホテルに連れ込んだ俺が言うのもなんだけど、もっと危機感を持て。トイレ行きたいからって、裸同然で部屋に出てきて、何かされなかったのが奇跡みたいなものだろ。もうちょっと……」
口をつぐむ。
新ちゃんが、その大きな目をまんまるくして、驚いたような顔をしていたからだ。顔を赤くされるだとか、怒られて泣き出しそうになるとか、そういう反応を想定していた身としては、怪訝に思ってしまう。
「吉川さんが、何もしないっておっしゃるので、信じていたのですけど……駄目だったんですか?」
駄目に決まってる。
男の何もしないは信用ならないって自分で言ったくせに。まるで道理が通らない。
「……駄目ではないけど」
でも結局、新ちゃんを傷つけないようにそう言ってしまう俺が一番、駄目な大人だ。
◆
ホテルを出ると、あんなにどばどば降っていた雨はすっかり止んで、太陽が顔をのぞかせている。
いまいましい気持ちになりながら、改めて、飯を食いに行こうと歩きだす。
すっかり腹ぺこで、俺は何も考えずに新ちゃんの、手を握る。とたん、ぴくんと腕が跳ねて、ん、と思って顔を覗き込むと、真っ赤に染まった頬でこちらをおろおろと見つめていた。
ああ、そういえば、俺のほうからこういう接触をこころみられると緊張するとかわけの分からんことを言っていたな。
「あの、あの」
「やめる?」
「…………つなぎます」
いじわるな質問だった自覚はある。
口をぱくぱくさせた新ちゃんは、しおしおとしぼみながらつなぐ、と言う。
ホテルで無駄な時間を食ったせいか、駅ビルのレストランはどこもがら空きだった。適当に店を見繕って入り、向かい合うように腰を落ち着けると、新ちゃんがぽつんとつぶやいた。
「レストラン、お休みで、雨に降られちゃって」
「ああ、うん……」
まだ、がっかりしているのかもしれない。しょんぼりしているのだろう。そう思っていたわしく相槌を打つと、新ちゃんは顔を上げてにっこり笑った。
「でも、とっても楽しいです」
「……え?」
「吉川さんと一緒だと、なんでも、楽しくって……」
あー、もう。
そんなこと言ってると男に軽く扱われるぞ。
男のハードルはな、これ俺に越えられるかな、っていうぎりぎりのところに設定するのが賢いんだよ、高すぎても低すぎても駄目なんだよ。
男に、なんだ俺と一緒ならなんでもいいのか、という低すぎるあまあまなハードルを提示するとだな、次のデートから確実に手抜きされる。間違いない。なんでもいいって言ったのはおまえのほうだろ、とか理不尽かつ正当な理由を突きつけて、手抜きされる。
「……吉川さんは、楽しくなかったですか……?」
不安げに見上げてくる紅茶色の瞳に、はあ、とため息をつく。
次のデートは、レストランは臨時休業してなんかいないし、ゲリラ豪雨にも降られないし、ましてやホテルで雨宿りなんかしない。そんなデートにする。
ちゃんと予定通りのところで飯を食って、俺が立てた計画通りに進んで、ちゃんと、なんでも楽しいなんて言い訳をさせずに心から楽しんでもらう。
「新ちゃん、魚、好き?」
「え?」
水族館だの植物園だのが健全なのかなあ、とか。
考えてしまっているあたり、俺も俺で、そうとう駄目である。