恋に落ちたら

 入学初日から、最悪の展開だ。
 学校探検しようとして、時間を早めたのが間違いだったのか、真新しいきちきちと音がしそうなくらいきっちりした制服に身を包んだあたしは、今日から通うこの私立鷹宮学園で、迷子になっていた。
 辺りを見回す。森である。なんで学園内に森が……と思いつつ、必死で来た道を戻っているつもりがどんどん深みにはまっている気もする。
 鞄から携帯を取り出して時間を確認すると、そろそろ入学式がはじまる時間が近づいてきている。
 それなのにこんなに人の気配がないということは、式が行われる体育館よりだいぶ離れてしまっているということだ。
 親は今日仕事で入学式に来られないし、同じ中学から進学してきている子はひとりもいない。つまり頼れる人がいないこの状況であたしはすっかりしょんぼりしてしまっていた。森は木々の背もあまり高い種類のものがなく、風が吹くたびさわさわと葉擦れの音がして小鳥のさえずりも聞こえるし花も咲いていて決して悪い雰囲気ではないしむしろ逆なのだが、問題はそういうことじゃない。

「どうしよう……」

 がさがさと草木を掻き分けて進んでいると、遠くに白っぽい建物が見えてきた。

「あっ……」

 助かった、と思ってそちらに駆け寄る。が、近づいて見えた建物には工事のシートがかけられて、明らかにひとけはなかった。……これは、もしかして改装工事中の旧校舎だろうか?
 近寄ってみるが、まったく人の気配は感じられない。おぼろげに頭の中にある学園内マップを開くけど、旧校舎からどう歩けば体育館にたどり着くのか、まるで分からない。入学手続き書類の中で、地図というものはあたしにとって大したウエイトを占めていなかったせいもある。どうして地図を鞄に入れておかなかったのだ、馬鹿野郎。
 と、その時遠くのほうからチャイムの音がした。時間を見る。入学式が、あと五分で始まる。きっと今のチャイムは予鈴だ。ぼんやりとしたそのチャイムに耳を澄ませるも、いったいどこから鳴り響いているのかまでは特定できない。
 ジ・エンド。完全に初日からやらかした。もうやだ。帰りたい。いや体育館にたどり着きたい。もう無理。帰りたい。帰りたい。
 うなだれて、浮かれていた自分への嫌悪が爆発する音や張りつめていた気持ちがぽっきりと折れてしまった音が聞こえて、思わずへなへなと膝を折ったそのとき。

「お嬢ちゃん、何してんだ?」
「……え」

 突如降ってきた声に顔を上げると、そこにはおじさんが立っていた。
 きょとんとしている日焼けした精悍な顔立ちに、隆々と盛り上がった筋肉、そしてTシャツに作業着。首にタオルを下げている。
 おじさんは、あたしの顔を覗き込みながら、あたしに目線を合わせるようにしゃがみこんだ。そんなに特別背が高いというわけではなさそうだけど、がっしりとした力強い体格のためか大柄に見える。

「あ、の」
「今日ここにいるってことは、新入生か? ……もしかして迷子」
「うっ、助けてください!」
「おわっ」

 ようやく人に会えたうれしさで、涙目になってその人にしがみつく。おじさんは、驚いたように少し肩を浮かせてから、頬を指で掻いてあたしを自分から引き剥がした。

「迷子か?」
「は、はい。たい、体育館、行きたいんですけど、分からなくて……ううっ」
「分かった。連れてってやるから、泣くな」
「うう」

 おじさんが立ち上がり、あたしの手を引っ張って立たせてくれる。大きな、きれいじゃないけどはたらく人の手のひら。やっと会えた人の体温が温かくて、それからまだちょっとだけ心細くてその手をぎゅっと握ると、おじさんは困ったように笑って歩いていく。
 迷いなく進んでいくその背中が大きくて、ちょっとだけ死んだお父さんを思い出した。たぶん。お父さんは遺影から想像するにもおぼろげな思い出の中でもこんなにがっしりとした身体ではなかったと思うのだけど、何しろ記憶がさだかでないのである。
 ざくざくとおじさんの靴とあたしのローファーが土を踏む音が響いている。おじさんは、あたしの歩幅に合わせて時折歩く速度を緩めてくれている。
 ふわっと風が吹いて、おじさんからふんわり何かのにおいがした。汗と洗剤と鉄っぽいにおい、と思って、お仕事をしていたんだなあ、と分かる。お仕事中だったのにこんなことをさせて、と思うのと同時に、なぜかちょっとくすぐったい気持ちになる。
 旧校舎をぐるりと迂回してそのまま少し歩いていくと、ちらほらと人の姿が見え始めた。あたしと同じ新入生や、その親と思われるおとなたちだ。

「ほら、あそこが体育館だよ」
「……」
「もう一人で行けるだろ? 俺は仕事があるから、ここまで」
「あのっ、ありがとうございます」

 ぱっと手を離して、おじさんが立ち止まる。お礼を言って、それから体育館に向かって歩きだし、ふと思い出して、あたしを見送ってくれているおじさんに向き直る。

「あの、お名前……」
「は?」
「お名前は?」

 おじさんは、はじめぽかんとしていたけど、何を言われたのかを理解したようで今度は訝しげな顔になって、それでもゆっくりと口を開いた。

「……吉川」
「吉川さん! ほんとうにありがとうございました!」

 今度こそ、おじさん……吉川さんのもとを離れ、体育館に駆けていく。入口で振り返ると、吉川さんはすでにいなくなっていた。てのひらを見ると、少しだけすすのような黒いもので汚れていた。それが、仕事をしていたのだろう吉川さんと手をつないだ名残だと思うと、なんだか少しだけ、胸がざわざわした。

 ◆

 身体測定で、前の席の槙田さんと仲良くなった。背の高い彼女をうらやましげに見ていた視線に気付いたのか、槙田さんがふと笑う。

「宮本さん、小さくてかわいいよね」
「気にしてるの!」

 それにあたしはそんなに言うほど小さくない。槙田さんと入れ替わりに身長計に乗ると、先生が頭に測定器をぶつけた。

「いたっ」
「百五十三・二」

 去年より六ミリ伸びている。ガッツポーズして身長計から下りて槙田さんに誇らしげな顔を向けると槙田さんはにっこり笑った。

「やっぱり小さいじゃん」
「ま、槙田さんいくつあるの」
「百六十三」
「五センチ分けてくれたらちょうどよくなるよ!」
「あはは」

 わきあいあいと話しながら体育館を出る。広い学園内はまだ迷いそうなので、ちゃっかり槙田さんについていく。それを見て、槙田さんが目をぱちぱちとしばたいた。

「何?」
「えっいや、別に?」
「あ、もしかして道分からないとか」

 図星なので何も言えない。黙っていると、にやりと笑った槙田さんはあたしの頭をぽんぽんと叩いた。

「私もう学園の地図頭に入ってるよ」

 槙田さんは、授業中とか見ていてもすごく頭がいいのが分かる。ノートとかをちらちらと見ても字も整然と並んでいるし。それに、切れ長の二重の目はすごく美人だし、こうして廊下を歩いているとすれ違う男子生徒の目が槙田さんに流れるのが分かる。天は二物を与えずと言うが、与えられまくりの女の子だ。

「いいな」
「宮本さんは」
「あっ、あたしね、新って言うの。あらたでいいよ!」
「じゃあ、新。私、美琴。みんなはみこちゃんって呼ぶ」
「みこちゃん」

 にっこり笑った槙田さん改めみこちゃんが、更衣室のドアを開けて中に入る。それに続いて中に入り、体操服を脱いで着替える。着替えながら、みこちゃんはさっきの続き、と言う。

「続き?」
「新は慌ただしいなあって思いながら見てた」
「えっ」

 ばっと顔を上げると、にまにま笑ったみこちゃんがブレザーを着ているところだった。

「慌ただしい?」
「うん、なんか、ぴゃーって行ってぴゃーって感じ」
「何それ?」

 あたしもブレザーを着ながら首をかしげる。着替え終えて外に出て教室に戻る途中でみこちゃんが言う。

「突撃! って感じ」

 拳を突き上げるジェスチャーつきだ。ますます訳が分からなくなって眉を寄せれば、みこちゃんは困ったように笑ってあたしの眉間をつついた。

「だって新の自己紹介、めっちゃおもしろかった」

 自己紹介は、今日の午前中のホームルームで生徒ひとりひとりがそれぞれ一分間くらい与えられてやったものだ。あたしの自己紹介はごく普通なものだったと思うが、はて。

「声大きいし、なんか一生懸命だし、最後よろしくお願いしますの時のお辞儀、すごい勢いだったし」

 内容は普通だったが装飾がそうじゃなかったらしい。緊張してたから……と言い訳すると、みこちゃんの肩まであるくらいの栗色の髪の毛が、笑うのに合わせておかしそうに揺れる。
 あたしは、中学の友達にもよく言われていたんだけど、わりと猪突猛進型らしい。思い込んだら即座に行動、で痛い目を見たこともないわけではない。

「新って思い込み激しそう」
「失礼だよ!」
「ごめん、でもさあ」

 ちょっと自分でも自覚があるだけに、強く否定できない。
 教室に戻ってきてみこちゃんと前後の席に座り、ホームルームの準備をする。体操着を鞄の中にしまい込もうと苦戦していると、みこちゃんが振り返ってまた笑う。

「めっちゃ一生懸命」
「あ、えっと」

 なんだか恥ずかしくなる。みこちゃんの手元を見れば、鞄のほかに紙袋があって体操着はそこにきちんとしまわれていた。その手法、いただきです。
 身体測定を受けていたクラスメイトたちがばらばらと戻ってきて、先生が教室にやってきて帰りのホームルームが始まる。帰りの挨拶をして立ち上がってふと思い出す。そういえば今日はスーパーの特売日だ。

「新今日暇?」
「暇じゃない! 特売日なの!」
「とく……」
「スーパーの、特売日!」
「そんな大きな声出さなくても聞こえてるよ」

 みこちゃんがせっかく何かに誘ってくれたらしいのはうれしいけど、特売を逃すわけにはいかない。あたしはがたっと立ち上がり、みこちゃんに手を振って廊下に飛び出す。背後から、みこちゃんの声が響いた。

「新! また明日ね!」
「うん、ばいばい!」

 手を振っているみこちゃんにもう一度あたしも振り返して、廊下を駆け抜ける。……こういうところが、慌ただしいとか思われているんだろうなあ、きっと。と思いつつも、特売日を逃すわけにはいかないのであった。

 ◆

 入学して一ヶ月が経つ。広い学園にも新しい環境にも、だいぶ慣れてきた。友達もできた。学校は楽しい。授業にはついていけている気がしないけれど、一応学費免除の特待生として入学したからには成績を下げるわけにはいかないと頑張っている。
 その日は数学の先生に頼まれて皆の分の課題を集めて職員室に持っていこうとする途中だった。そこで小さな悲劇が起きた。
 何もないところで自分の足につまずき、その拍子に傾ぐ体を守ろうとしたのか腕の力が緩み、窓から入ってきた風により課題のプリントは散り散りに飛んでいった。一瞬呆然とする。見事なまでの負の連鎖である。
 一枚ずつ拾い集めたけど、数えたら一枚だけ足りない。誰の分が足りないのか名前を確認したら、あたしの分が足りない。あたりを見回すもプリントらしきものはもう落ちていない。窓の外に行ってしまったのだろうか。先生に正直に話して、あとで探そう。とりあえず今は時間がない。あたしの過失でクラス皆の成績にマイナスをつけるわけにはいかない。
 職員室に向かうために渡り廊下に差し掛かると、少し前を歩く作業着の人の姿があった。旧校舎の工事の人かな、と思いつつ気持ち急いでいたのでぱたぱたと足音を立ててその人を追い越そうとしたところで、彼が振り返る。

「ああ……迷子のお嬢ちゃん」
「……あの時の!」

 突然のことにばさっとプリントを落としてしまう。あたしをあの時助けてくれたおじさん……吉川さんが、慌てたようにしゃがんでそれを拾い上げてくれる。すみませんすみませんと連発しながらあたしもしゃがみこんでプリントを拾っていると、ふと吉川さんの手が止まった。

「これ、お嬢ちゃんが落とした?」
「えっ?」

 吉川さんが持っていたのは、あたしの名前が書かれた課題だった。

「あたしの!」
「校舎の窓から降ってきたんだよ」

 間違いない、さっきあたしが転んだ時に落ちたんだ。それを吉川さんが拾ってくれていたとは、なんたる偶然だ。
 なくさなくて、よかったな。と言ってあたしに課題を手渡してくれる。その屈託のない笑顔に釘付けになっていると、吉川さんは廊下を引き返していく。慌てて職員室に入って先生に課題を押しつける。

「お疲れ様、宮本さん」
「あ、はい」

 課題を渡して急いで職員室を出て辺りを見回すと、吉川さんはすでにいなくなっていた。お礼を言ってないのに、と思いながら渡り廊下を走り抜けて階段のほうに目をやると、旧校舎の方角にその大きな背中があった。

「あのっ」

 慌てて声をかけると、吉川さんが振り返る。それから、不思議そうに目をぱちくりさせた。

「まだなんかあったか?」
「あの、拾ってくださってありがとうございました!」
「いいって」

 近づいて、ぺこっと頭を下げる。その頭をぐわっと掴まれて、少し乱暴に髪の毛を撫でられる。かさついた指の感触が伝わってきた。

「あの」
「もう落とすなよ、お嬢ちゃん」
「は、はい!」

 ぽわんとしていると、吉川さんはにっこり笑って今度こそくるりと背を向けて小走りになって廊下の向こうに消えてしまった。もしかしなくても、仕事の途中だったよな、と思って引き止めたことがちょっとだけ申し訳なくなって、でもやっぱりもう少しお話していたかったと思う。
 とぼとぼと教室に戻ると、あたしに気付いたみこちゃんがひらひらと手を振った。空いていた隣の席に座って、今しがた起きた出来事を話すと、彼女は少し考えて呟いた。

「新って、おじ萌えなの?」
「おじ萌えって?」
「おじさんが恋愛対象、みたいな」
「……そうかも」

 お父さん、という存在を早くに亡くしたあたしは、恋愛対象がいつでもちょっと年上の男の人だった。たぶん、少しファザコンの気が入ってるんだと思う。別に、お父さんの代わりをしてほしいとかそういうことではないのだけど。だってお父さんはこの世に一人しかいないし。でも、同級生の男の子に何も感じずに年上の男の人に魅力を感じてしまうのは、間違いなくお父さんの影響だ。
 初恋は中学の時の国語の先生だった。たしか三十代後半で奥さんもいたので、見ているだけで満たされていたんだけど。満たされていたと言うか、見ているだけしかできなかったと言うか。バレンタインに、お世話になっていますの体でチョコレートを渡すのが関の山だった。ごつごつした体つきで豪快に笑う威勢のいい先生だった。先生と吉川さんを並べてみると、なんとなくあたしの趣味が分かる気がした。
 みこちゃんがパックのジュースに刺さったストローをいじりながら、眉を寄せて呟く。

「それって、リスク高い恋愛だよね」
「え?」
「だって、どうしても既婚率高いじゃん」
「よ、吉川さん、結婚してるのかな」
「知らない。聞いてみれば?」
「どうやって?」
「旧校舎の改装工事の作業員さんなんでしょ? 旧校舎行けば会えるんじゃない?」

 盲点!

「いや、ふつうに考えれば思いつくよ」

 呆れた顔で、みこちゃんがジュースを吸い上げる。紫色のぶどうのジュースが白いストローを通過していく。
そうと決まれば今日の昼休みにやることは決まった。思い立ったが吉日である。ああいう人たちって、お昼休みはきっちり取るって聞いたことがあるし。
 まあ頑張ってね、というやる気のないみこちゃんの応援の言葉を背に、昼休みになると同時教室を飛び出す。
 旧校舎のほうに向かって早歩きで向かうと、旧校舎の入口辺りで、何人かの作業服姿のおじさんたちがお昼ご飯を食べていた。吉川さんの姿はない。
 おじさんたちの視線にも負けずきょろきょろと見回していると、その集団に向かって歩いてくる吉川さんを発見した。

「吉川さん!」
「は?」

 名前を呼ばれて間抜けにこちらを見て、ああ、と吉川さんが少し笑った。やっぱり、笑顔に胸がきゅうっと縮こまる感覚になってしまう。

「あの、あの」
「何?」
「えっと……」

 そこであたしは、明確な目的を持って来たはいいが聞き方をまるで考えていなかったことに気付く。いきなり、ご結婚されてますか、と聞くのは失礼極まりない、とあたしはまとまらない思考で一応考えた。

「さっきは、ほんとうにありがとうございました」
「ああ、いいよ、別に」
「そ、それで、あの」
「ん?」
「吉川さんって」
「うん」
「ご結婚、なさってますか?」
「……うん?」

 結局いきなり聞いたかたちになり、空気が固まった。そうだ、ほかの作業員さんもいるんだった。あたしの馬鹿野郎。変化球とかそういう細かいボールが投げられない自分の性格を恨む。
 ややあって、一番年上に見えるおじさんがけたけた笑いだした。

「お嬢ちゃん、そいつぁ四十越えても嫁候補の一人もいないしょぼいおっさんだぜ」
「藤原さん!」

 作業員さんたちがつられてげらげら笑い出し、吉川さんが羞恥にか顔を赤くした。少しかわいいと思ってしまったことは吉川さんには言えない。ぎゅっと目をつぶって制服のネクタイを握りしめる。

「あの、じゃあ」
「え?」
「あ、あたしにもチャンスありますよね?」
「……え?」
「あの、あたし、宮本新って言います、あのその、吉川さんが好きです!」

 言ってやった。つぶっていた目をそろそろと開けて様子をうかがうように見ると、吉川さんと、作業員さんたちが硬直していた。

「あの」

 やっぱりさすがにいきなり告白はまずかったのか。いやでも、あたしじわじわ攻めるとかそういう方法知らないし、ほかにどうすればよかったのかも思いつかない。
 静かになった旧校舎で、風が葉っぱを揺らす音を聞きながら、あたしは吉川さんの反応をじっと待つしかほかになく。ややあって、吉川さんが戸惑うように口を開いた。

「あの、何かの間違いじゃ……」
「違います! あの、入学式の日に、助けていただいたときからずっと気になってて……それで今日もう一回会えて、運命だって思ったんです」
「うんめい……」

 ぼんやりと吉川さんが呟く。
 座ってご飯を食べていた作業員さんたちが、そそくさと支度をしてその場を立ち去ろうとしているのが目に入る。それを見た吉川さんが、ええっと声を上げた。

「ちょっと、放って行かないでくださいよ!」
「いや、あとは吉川さんがなんとかしてくださいよ。俺ら無関係だし」
「は? いや、俺だって関係ない……」
「吉川さん!」

 茶髪のお兄さんに軽くあしらわれている吉川さんの名前を呼ぶと、困ったような顔で振り返った。一気に間合いを詰めて近づくと、数歩後ずさられた。そこをさらに詰めると諦めたように立ち止まる。

「あの、あたしじゃ駄目ですか、嫁候補」
「え、あの、いや……」
「いいんですか!」
「え、そういう意味じゃなく、てかお嬢ちゃん」
「宮本新です!」
「だからさ、お嬢ちゃん」

 名前を呼んではもらえないようだ。まあいい。
 とりあえずの目標は、吉川さんに、嫁候補として見てもらうこと。そのためにはあたしをもっともっと認識してもらわなくては。

「あの、改装工事、あとどれくらいですか」
「え? えーと、夏までの予定だけど」

 突然変わった話題に、吉川さんが戸惑いがちに答える。夏まで、というと夏休みまでだろうか、それとも夏いっぱいだろうか。あとで先生に確認しておこう。
 授業は大変だけど友達がいて楽しい。そんな平凡な学園生活が、色鮮やかに変わる、そんな予感がした。