「これで許してあげる」
甘くとろけるようなアルト、日本中の女の子を虜にさせる響くようなテノール、小さな子から男の人まで魅了するセクシーで優しいバス、その3つが折り重なって、耳を奪われるようなコマーシャルがテレビから聞こえるようになって数日経つ。
『チョコレートの美味しい食べ方、知ってる?』
『齧る。』
『舐める?』
『違うよ。口の中で溶かすんだ。』
…チョコレート。
今年、私はそれを彼に渡すことをしないと決めた。
誤解がないように言っておくと、嫌味な意味なんてこれっぽっちもない。だけどスタッフの人や共演者の人から、それはもうたくさんお付き合いで頂いて帰ってくるものだと思ったから、私からのバレンタインは少し豪勢な夜ご飯にしよう。そう思ってのことだ。
『大切な人と、甘くとろける時間を。』
バレンタイン当日は昼過ぎから半日オフだと聞いて、私は食材を買って彼の家でそんなコマーシャルを見ながら、帰りを待っていた。
カタ、と玄関に続くリビングの扉が揺れる。家主の帰宅の合図は、いつもそんなふうに静かなものだ。私の方が待ちきれずに、扉を開けて廊下の先にいる彼におかえりを言う。
「……ただいま。」ふわりと、甘い匂いがしそうな笑顔が向けられる。これを見られるのは私の特権だった。靴を脱いだ彼がこちらに向き直ると、少しの違和感と、なんだか嫌な予感がした。
「…ね、荷物少なくない?」
「?……家出た時と変わらないけど。」
それが問題なのだ。
「なんで、チョコは?貰ったでしょう、沢山。」
「ボク宛てのものは事務所にある。個人的に貰ったりしないよ。」
「えっ」
「…何、キミが今日家に居るって知っているのに、他の女の子からのチョコレートを貰って帰ってくるような男だと思うの?」
「………そう言われると。」
物は言いようだ。そんなふうに言われたら、「きっといっぱい貰ってくるだろうなあ。」なんて思っていた自分が、悪者みたいじゃないか。だらだらと冷や汗を流す私と、にっこりとこちらを見る天。
「それで、」
「……」
「キミのはないの?」
…無いわけじゃない。だって天の好きなものを沢山作って、楽しいディナータイムにする計画なら万全に立ててあるのだ。冷蔵庫には用意した色とりどりの食材たちが、まるでコンサートが始まる前の会場みたいに、ぎゅうぎゅうになって天を待っている。
「言い方を変えようか。」
「…はい、」
「正月からほとんど働き詰めで、今日半日オフを取ってきたボクに、ご褒美はないの?」
「あっ、あるある、あるけど……!」
私の言葉を聞きながら、スタスタとリビングへ歩みを進める彼を追いかけて続けた。
「天が、いっぱい貰ってくるものだとばっかり思って、私はお菓子と言うより、夜ご飯を作ろうかと思ってたんだけど、ダメ?」
「そう。じゃあ、楽しみにしてる」
必死に口を動かして弁解を述べた私に、天が少し口許を上げて言う。それがかっこよくて思わず逸らした目線の先にある、天が置いた荷物。外装だけで分からなかったけれど覗き込めばすぐに分かる。それは何だか、この季節に貰うチョコレートと言うには随分質素な。と言うよりも、市販で売られているものそのままだった。
「…これはチョコじゃないの?」
「それはバレンタインのキャンペーンでコマーシャル契約した会社のチョコレート」
「……すごい量、」
「これだけは断れなくて」
いつもはモノトーンの衣装が多いTRIGGERが、ガーネット色をしたスーツを着込んで三人でチョコを食べさせ合う姿が話題を呼んだ。ついさっきも、テレビで見たばかりのあのコマーシャル。その製菓会社の板チョコが、ざっと二十枚。
「……あっ、待って。今から作ってもいい?」
「今から?おやつの時間はすぎるんじゃない」
「大丈夫!すぐできる!」
時間は十四時三十分。「二十分待って!」と指を二本出せば、片方の眉が下がって「本当に大丈夫?」という顔をした。
「何が出来るの? 秘密?」
「ううん。見てていいよ。」
キッチンの端からひょこっと顔を出して、天が覗く。
待ちきれないような、気になって仕方がないような様子は珍しくて、なんだか可愛い。使うのは貰ったチョコレート十枚。何かしたそうにしているから、包装紙を剥がして欲しいと頼んだら素直に頷いて取り掛かってくれるその姿はお手伝いをする子供のよう。
なんてことは無い湯煎で溶かしたチョコレートに、温めた牛乳を入れるだけ。前にネットで買ったころんとした形の可愛いマグカップにそれを入れて、時計を見ればちょうど三時前。それから冷蔵庫にあった赤い苺をざっと洗って、棚から前にマシュマロサンドを作った時の残りを引っ張り出した。
元々甘いものが好きな天は、ローテーブルに並んだ色とりどりを見て私にだけわかるくらい、少しだけ雰囲気を和らげた。
「チョコレートフォンデュだ。」
「そう、有り合わせだけど……」
「おやつの時間に間に合ったね。」
「お手伝いありがとうございました。」
パステルカラーの小さなマシュマロは、天が持つともっと可愛いものになる。薄桃色のそれを、天がつまんでチョコレートに付けて口に入れた。苺は二人で取り合うみたいにしてなくなっていくのが、すこし可笑しい。赤と茶色のコントラストは、さっき見たコマーシャルを彷彿とさせた。
「……部屋中、チョコレートの匂いになったね。」
「ね、夜までに無くなるかな。」
「残ってた方がいいんじゃない。チョコレートって、昔は媚薬だったらしいから。」
「……どういうこと。」
「分かるでしょう?」
真っ直ぐなマホガニーの瞳に射抜かれる。見ていて可愛くて、甘くて、少しビターなチョコレート。天は、まるでその化身のようだ。
『チョコレートの美味しい食べ方、知ってる?』
また、あのコマーシャルが聞こえる。
流石にバレンタイン当日は、放送回数が多い。テレビの中の天の声を聞きながら、私は目の前に居る天から目が離せない。
「もう溶けちゃったね。」
「……うん」
唇が重なったことには、今更驚かなかった。
ゆっくりと近づいたから、というわけじゃない。だってこの数秒間、そうされるのをずっと待っていたから。
『大切な人と、甘くとろける時間を』そう言われて、天の瞳が意味ありげに私を映した。
「………」
「……だって」
「いま、そうしてる……」
「足りてる?」
「足りてる……!」
そう、残念。と彼はソファに背中を預けた。媚薬なんて言われた手前、チョコレートはもう口にするのを躊躇ってしまう。そのまま裸の苺を取って齧って見せたのは、悪戯な彼のチョコレートジョークに翻弄されかけたことへの小さな抵抗だ。
「チョコ、付けないの?」
「付けないの。」
「食べさせてあげようか」
「いい、」
「来年は用意してね」
顔を見たら、またこのビタースイートの化身に流されてしまうから。見ないようにしていて、気が付かなかった。
「ボクだって少しは楽しみにしてた。」
ふん、と膨れて拗ねた様子で、最後の苺は無情にも彼の口に放り込まれた。