恋し花冷え

こちらは英語教師 九条天さん(25) のお話です。








 朝九時、窓から差し込む白い光を受けて輝く綺麗な髪。
 歩く度に揺れるその左側に誘われるように走って、走って、追いつく直前で速度を落として歩みに変える。
「九条先生おはようございます!」
「おはよう」
「先生、今日授業ありますね!会えますね!」
「そうですね。また後でね」
「はい!」
 一度も立ち止まらず、とてつもなく綺麗な営業スマイルで立ち去った背中を廊下の端から見えなくなるまで見送った。
「ねぇ、虚しくない?」
「えっ、好きな人に朝から会えたら、嬉しさしか無くない?」
「……そうだけど」
 友達に可哀想なものを見る目で見られるのだって、もう板に付いてしまった。片思い三年目の人間を舐めないで欲しい。

 九条先生は、うちの高校の英語の先生だ。私たちが入学する年にちょうど新任で入ってきたから、多分今年で25歳。若くて、かっこよくて、だけど厳しい彼についたあだ名は冷徹ハリネズミ。これは歴史の八乙女先生が言ってるのを誰かが聞いてからというもの、生徒みんなのお気に入りだ。そこから派生して、ハリネズ先生だとか、女の子からは普通に天ちゃん先生だとか、好き勝手に呼ばれているのが可愛い。先生は嫌みたいで、その度に「九条先生でしょ?」と恐ろしく綺麗な笑みを浮かべて訂正を求めているけれど。
 先生を好きになってしまって、華の高校生活になる予定だった私の人生は一転してしまった。だって相手は七つも年上の大人で、私とは先生と生徒という関係だ。私はついに、憧れの制服デートも経験できないまま、あと数ヶ月で卒業を迎えようとしている。
「なんでそんなに先生がいいのかね、この子は」
「まあ確かに顔はいいよねぇ、厳しいけど」
「先生の良さは顔だけじゃないから…!」
「うんうん、そっか」

 先生を好きになるなんてよくある話だと思う。それがいけないことなのも頭では理解している。好きだと言いながら、“私を選んでくれる先生”を想像するだけで何故だか受け入れ難いと思っていることも、自分で分かっている。
 分かっているけど好きなんだから、せめて卒業までは好きでいさせて欲しいというのが本音だ。一日一回、姿を見られるだけで充分。だけど本当はその目に映して、大好きな声を聞かせて欲しい。笑顔を見れたらその日はなんだって出来る。そんな恋のパワーを原動力に生きている。

 初めは、綺麗な人だなと思っていただけだった。真面目にやらない生徒には厳しいけれど、成績が上がれば「よく頑張ったね」と褒めてくれる。掴みどころは無いけれど、授業は分かりやすくて、ずっと聞いていたくなるような不思議な声。そんな声で、私語をしている子達には「そんなにおしゃべりしたいなら、ボクの代わりにやってみる?」なんて言うのだから、震え上がってしまう。
 彼に軽口を叩ける人なんて居ないのかもしれない。そう思っていた頃、九条先生が体育館脇で猫と戯れるところを見てしまった。購買にでも行った帰り道だったのだろうか、パンを持っていた先生の足元に白猫が絡みつく。どうするんだろうとハラハラした気持ちで見ていれば、先生はしゃがみこんで手のひらを下から差し出すと「どうしたの?ひとり?」と猫に話しかけた。ひと鳴きした猫に、先生は一瞬持っていたパンを見て「あげられないよ、キミのじゃないの」と擦り寄る猫の背を何度か撫でて、去り際には振り返ってもう一度「バイバイ」と手を振った。
 動物には優しいんだ…と驚いていた私がもっと驚いたのは、その数日後に先生がその猫に猫用のご飯をあげているのを見た時だ。チューブタイプのご飯をスーツのポケットから取りだした先生は「おいで」と白猫を呼んだ。素直に寄ってきて、先生の手からご飯を食べだした猫に、先生は見たことないほど優しい顔をして「可愛いね。美味しい?」と話しかけた。
 きっかけなんて、そんなものだ。誰にだってそういう一面はきっとあって、特別なことなんて何一つない。それでもそのとき、私はその猫に対して羨ましさを感じていた。
 そんなふうに先生に笑いかけて貰えたら、嬉しいだろうなと、思ってしまったらもうダメだった。

 そこから一年、二年。先生にとっての特別な生徒にはなれなくても、せめて褒めてもらいたくて勉強を頑張った。特別勉強ができる訳でもないのに、英語の成績だけは少しずつ上がっていくことに、初めに気がついたのは先生だ。
「キミ、英語好きなの?頑張ってるね」
 その言葉だけで、いくらでも頑張れる気がしていた。
 先生にだけは、必ず廊下で挨拶をした。注意されないように、頭髪検査はいつもすれすれでかいくぐった。できるだけ視界に入りたくて、英語の授業は合っていようが間違っていようが発言するようにした。
 そのうちに、先生に懐いていることが色んなところからバレて、今ではもう何も隠せていない。だって先生が好きだ。大好きだと笑って伝えると、初めはぎょっとしていたけれど、今では「ありがとう」と笑って流してくれる。そのくらいの対応が凄くありがたい。
 高校生のとき、大好きな先生がいたんだって、きっといつかそうやって、笑って話せるようになる。
 

 受験を目前に控えた三年生の冬は、思ったよりも穏やかに過ぎて行った。うちは特別進学校という訳でもないから、これで将来が決まるという実感がない人間が多い。頑張っている人には心からのエールを送っているけれど、自分自身のことになるとふんわりしている。
 かく言う私も、せめて第三志望までにはひっかかりたいな、くらいの気持ちで、特に競争心も無く自分に出来るペースでこつこつと勉強を進めていた。
 今日は少し図書室で勉強してから帰ろう。まだ人の残る図書室の一席に座って、スマホでサテライトの動画を見ながら苦手な単元を繰り返し復習する。
 イヤホンをして、できるだけ集中した。だから、窓の向こうから聞こえてくる野球部の声が聞こえなくなったことにも、全く気が付かなかった。そのうちにまぶたが重くなって、……少しだけ。そう思った頃には、もう夢の中に居た。
 夢の中で、ふわふわの白猫を追いかける。
 もう少しで捕まえられそうなのに、何度も逃げられて。
 そんな追いかけっこが初めは楽しかったのに、だんだんと悲しくなってしまった。

 …
 ……
 
 誰かが大きな声を出すのが聞こえた。
 まだ人が居ます、警備員さん、ちょっと!
 そんな声は、少しもしないうちに聞こえなくなって、もう一度眠りにつきかけた時、また大きな声と共に体を揺らされた。
「ウソでしょ!?キミ、何してるの!?」
「え……」
 突然視界に入ってきた好きな人は、ほんの少し取り乱しているような声だった。
「ちょ、ほんと、どうしよう」
「え、先生?…てか外暗!?」
「当たり前でしょ、もう八時だよ?」
「か、帰らなきゃ…!」
 起き抜けに見る先生もかっこよかったけれど、それどころじゃなさそうなことに気がついて急いで立ち上がると、先生が私の腕を掴む。
「待って、そこ、開かないから」
「え」
「…ごめん、閉じ込められた」
 冷静ではありながら、少し青ざめた先生の顔を見て、とんでもない事になったと悟った。

 帰る前に調べ物をしようと、奥の資料室に入っていたこと。つい立てのある席に座って寝ていたから、私がいることに気が付かなかったこと。警備員さんに鍵を閉められたことに気がついてすぐに声を上げたけれど、多分イヤホンをしてて気づいて貰えなかったこと。
 そんなことを、先生は状況説明として、時々「ありえない」と悪態をつきながらも静かに話してくれた。
「先生、スマホは…?」
「職員室。キミのは?」
「動画流しっぱなしで寝ちゃってて、電池切れてる…」
「…充電器は」
「教室のロッカー…」
 そう言うと、先生は手のひらを額に当てて大きなため息をついた。
「休み時間にダンス動画ばっかり撮ってるから…」
「すみません…」 
 だってこんなことになるなんて思っていないから。今日の昼、勉強してる人の邪魔にならないように久しぶりに撮った動画を頭の中で思い返して、猛烈に後悔している。
「……まずいな」
「え?」
「キミがいつも狂ったようにボクにハートを飛ばしてることは友達も知ってるよね」
「親まで知ってる」
「もっとまずい。こんなところで一晩なんてことになったら、なんて言われると思う?」
「よ、良かったね~って」
「……」
「嘘です、先生、怒られちゃう?」
 恐る恐る先生の顔を見上げると、先生は難しい顔をして少し考えてから、意を決したように私を見た。
「……バリケード、作ろう」
「…はっ?」
 そこからの先生はガチだった。ガチすぎて、むしろこの人ちょっと天然なのかもしれないと思ったけれど、それは言えなかった。
 図書室の大きめの机と机をぴったりと合わせて、左側の壁から右側の本棚に、部屋を真ん中で区切るようにくっつける。それだけじゃ飽き足らずに、机の上に掃除の時のように椅子を上げて、かなり頑張らないと向こう側へは行けないようにしてから。
 私たちはそのバリケードの右側と左側を自分のテリトリーにして、やっと落ち着いて座った。
「……ここまでする?」
「しといて損は無いでしょ」
「……」
 ひとつだけ、自分たちが座れるように残した椅子に座る。窓からは、これ以上ないほど綺麗な三日月が見えた。十二月の夜は空気が透き通るように冷たくて、ほんの少し夏よりも夜空の色が濃い気がする。その中に散らばるいくつもの星を見て、思い出したことを先生に話し出した。
「ねえ先生、知ってる?」
 けして、だんまりが気まずいからとかそんな訳では無い。
「今私たちが見てる星の光って、何年も前の光なんだってね」
「……」
「光の速度でも、地球に届くまでに何年もかかるからそうなるって。オリオン座の光は、1500年前の光なんだって。ほらあそこにあるやつ、先生見えてる?」
「…うん」
 机の隙間から見る先生は、私が指差した空を見つめていた。その横顔が綺麗で、私からしたら星なんかよりもずっとずっと綺麗で、1500年前の星の光より、今の先生がいいと思ってしまったのは確かだった。
 そして先生は空を見上げたまま、ぽつりと呟くように話し出す。
「……キミの今の話。ボクも知ってるよ」
「ほんと?まあ有名な話だもんね」
 私はそう言って先生に笑いかけたけれど、先生はどこか寂しそうにその頬に影を落とした。
「…昔ボクには病気がちの弟がいてね。その子が言うんだ。小さな身体で、たくさん管に繋がれながら。オレがお星様になったら、空を見上げてって。大人になった天にぃが見上げる星の光は、オレがいた頃の光だからって」
「……先生、ごめんなさい、私…」
 悪気はなかったとはいえ、辛いことを思い出させてしまった。私がくだらないことを考えて見上げていた空に、先生と弟さんはそんな約束を結びつけていた事が切なくて、想像力の足りない自分への悔しさと、先生の気持ちを思ったら、悲しさから目頭が熱くなる。
「泣いてるの?」
「だって、……」
「…ごめん、ボクの言い方が悪かった。弟、今は元気になって、普通に会社員してるから」
「えっ……?」
 目を丸くして先生を見ると、ごめんとバツが悪そうにしている。
「びっくりさせないでよ~~…!もう、何だっけ…?」
「星でしょ」
「そう!まあ先生には、ちょっとやな思い出かもしれないけどさ」
 涙を拭って、ほんとうに伝えたかったことを話し出す。弟さんの想いと比べたら、薄っぺらくてちっぽけな気持ちかも知れないれど、私にだって、先生を想って空を見上げた夜があった。
「先生、オリオン座の左下の、やたら明るい星見て?」
「…シリウス?」
「そう、あれはね、7年くらい前の光なんだって」
「…それが何?」
「先生が、高校生の時の光だよ」
「……」
 私が知らない、高校生の先生。
 どんな人だったの?部活には入ってた?先生のことだから、学級委員とか風紀委員とかしていそう。そういうことを考えて、そんな先生がいた時代の光を見つめる。
「ごめんね、先生は星にいい思い出は無いのかもしれないけど、私はあの星を見る度に、制服を着て一生懸命勉強してた頃の先生にも、恋してる気になる」
「制服デートがしたいなら、ボクなんかにうつつを抜かしてないで周りを見なよ」
「違うじゃん、いつの先生も好きってことだよ」
「……」
「私は、18歳の先生も、25歳の先生も、40歳の先生のこともきっと好きだし。もし先生が芸能人でアイドルとかだったら、人生賭けて追いかけてたよ」
「妄想の中でまで叶わない恋してるの?キミ」
「ひどい、まだ望みあるかもしれないのに」
「ふふ、ほんとポジティブ」
「……」
 授業中の厳しい顔も、廊下で声をかけた時の営業スマイルも好きだった。だけどそんなふうについ出てしまったような柔らかい笑みを自分に向けられたのは初めてで、何か見てはいけないものを見てしまった気になる。
 本音が半分、おふざけ半分。場を繋ぎたくて始めた会話のはずだったのに。そんな笑顔ひとつで、本当に好きなの、私を選んでと言いたくなる気持ちをどうにか抑えた。
「…でもそうやって考えると、先生とアイドルって似てるよね」
「どこが?」
「教壇(ステージ)に立ってる人に向かって、見つけて~!って手を振る感じ」
「別に授業中にキミを指名するのはファンサービスじゃないんだけど」
「でも私が先生に指されるとみんな、またファンサ貰ってるって笑うよ?」
「最悪。やめさせて」
 うんざり顔の先生も好きだ。先生に軽口を叩ける人なんて居ないのかもしれないと思っていたのに、今まさに軽口を叩きあっていることが不思議で、嬉しい。
 そうしている間にも時間は過ぎて行く。
 施錠の後には消灯があって、そうなると教室や図書室内の暖房も、全て切られてしまう。
 図書室はすぐそこだからと、鞄やコートを教室に置いてきたことを後悔するくらいには身体が冷えてきて、震えた拍子にくしゃみが出た。あんまり可愛くないくしゃみを先生に聞かせたくなくて、少し我慢したのが仇になる。余計に可愛くないのが出た。
「……先生、寒くない?大丈夫?」
「ふふ、うん」
「そっか、良かった」
 取り繕うようにそんな会話をしたからか、また笑われてしまった。先生が笑ってくれるならいいか。そう思いながら、椅子の上で小さく蹲って体表面積を減らす私に、先生が声をかけた。
「何…?」
「投げるから、キャッチして」
「え…っ」
 バサッと風を切って、机と椅子の上から布が落ちてくる。ほんのりあたたかくて、私のブレザーよりも大きなそれは、先生のジャケットだ。
「先生これ」
「肩に掛けるか、脚に掛けるかして」
「ありがとう…匂い嗅いでもいい?」
「やっぱり返して」
「ふふっ」
 嘘だよと笑って、ジャングルジムみたいに積まれた机と椅子の壁の向こうで、先生も仕方なさそうに笑っているのが見えた。
 日付が変わりそうになって、温まった足元からまた眠気が襲ってきた頃。廊下の奥が騒がしくなるのを感じる。
「…?」
「やっと来た」
 バタバタと慌ただしい足音と、解錠される音の後、教頭先生とうちの親が血相変えて飛び込んできた。
 帰ってこない娘を案じて、学校と私の友達に連絡したらしい。入ってくるなりこのバリケード状態の部屋を見て、うちの危機感の無い母親は何かを察したのか可笑しそうに笑っていた。

 本当はこんな夜がずっと続けばいいと思った。先生の声を独り占めできる空間なんて初めてで、早く出たいなんて一度も思わなかった。
 私はそういうところがまだ子供で、だから先生に相手にされないんだと、思い知らされたのは次の日の朝になってからだ。
「謹慎……!?」
「九条先生、三日間お休みだって。…まあ、謹慎だよね」
「えーん、可哀想天ちゃん先生」
「なんで!?」
 いてもたってもいられなかった。でも授業はきちんと出ないときっと先生に怒られるから、ちゃんと五限まで受けて、それから先生が顧問をしてる英会話部の子に事情を話して先生の連絡先を聞いた。
「僕から聞いたって言わないで下さいね」
「わかった!」
 そのうち誰かが、部活の備品を買ってるAnazonアカウントの配達先が先生の住所になってると言い出して、住んでいる所が分かった瞬間は不思議な感覚だった。
 学校の先生って、なぜだかずっと学校にしか存在していないイメージで、ちゃんと家があって、私服で寝たり食べたりしてるところがなんとなく想像出来ない。だから家に突撃して、メガネにゆるめのTシャツとカーディガンで現れた先生に私は腰を抜かしそうになりながら、それでもどうにか経緯を説明して謝った。
「ここ、誰から聞いたの?」
「……」
「ねえ」
「英会話部の二年生……」
「はぁ…」
 多分私もどちらかと言うと被害者で、悪いことは何もしてないはずだったけど、それでも私さえあの場に居なければ。居合わせたとしても、すぐにスマホで親に連絡ができる状態なら、こんなに先生に迷惑はかけなかったはずだ。
「だとしても、なんで来ちゃうかな…」
「だって先生は何も悪くないし、何にもしてないのに!」
「わかったから、声落として」
 謝りに行くのなら手土産がいる気がして、コンビニプリンをふたつ買って行った。それを口実に部屋に上がろうとなんて思っていないというせめてもの意思表示になればと、つけてもらったスプーンはひとつだけ。玄関先でそれを先生に押付けながら、いやいや対応してくれている姿を見上げて、こんなのはおかしいと訴える。先生は受け取ったレジ袋の中身を見て一瞬「プリンだ」という顔をしてから、小さなため息をついて私を見た。
「心配させたのはごめん。でも別に責められて謹慎してる訳じゃないから大丈夫」
「そうなの…?」
「うん。別にキミと何かやましいことがあったとかも、疑われてない。キミのお母さんがすごく理解のある人で助かった」
「もし先生と私があそこで何かあったんだとしたら、もっと馬鹿みたいにテンション高くてすぐ分かるし、ほんとに何も無かったんだねってお母さん言ってた」
「……さすがお母さん」
「あとバリケードウケるって」
「ウケないよ」
 思い返して疲れてしまったのか、先生は嫌そうに目を細める。
「じゃあなんで謹慎してるの?」
「キミを危険に晒してしまったのは事実だし、ボクにも責任はあるから、まあウチ、私立だし。表向きに…って言うと、怖い思いをしたキミには失礼だけど」
「なんで…?あんなの私からしたらラッキースケベみたいなものなのに」
「うるさい黙って、何もしてないでしょ」
 その言葉になんだか、当たり前だけど先生もそういうことをしたいと思うことがあるんだろうかと思ってしまう。急に動悸がして、恥ずかしさから足を軽く擦り合わせた。先生はそんな私を見下ろして、もうひと段階静かに声を落とす。
「せっかく来てもらったけど、部屋には上げられないから」
「分かってるよ」
「……ちょっと待ってて」
「……?」
 そう言って部屋の中に入っていった先生を、大人しく玄関先で待つ。直ぐに戻ってきた先生の手の中には小さいサイズのカイロがあった。
「あげる。昨日も体冷やしたばっかりなんだから、温かくして。受験前の大事な身体なんだから」
「うえ~~。先生、こんな時くらい女の子なんだから、とか言えないの?」
「はいはい。じゃあね、もう来たらダメだよ」
「うん…先生、明明後日には会える?」
「授業があればね」
 貰ったカイロは大切にとっておきたかったけれど、帰り道があまりに寒くて開けてしまった。だけどやっぱり、酸化してカチカチに固まってからも、なかなか捨てられなかった。

 先生は言った通り三日後には復帰して、いつも通り授業に現れた。クラスの男子に変に面白おかしく冷やかされて迷惑をかけないか心配していた私を他所に、話題になったのはあのバリケードのことばかり。
「先生襲われなかったん?」
「そのためのバリケードだろ」
「大丈夫です。襲いも襲われもしてないから」
 そう言った目が随分妖しくて、黄色い悲鳴が飛んでいた。だからファンサって言われるのに、分かってないんだろうか。
「え、じゃあ先生達、その間何してたの?」
 そんな質問になんて答えるのかと思っていると、先生は私を見るでもなく、ただ教室の窓から昼間の明るい空を見上げて「…科学の課外授業、かな」と零す。
 その言葉の響きからは、ロマンチックなことなんて一切感じられない。「そんな時まで勉強かよ」と野次が飛んでいる中で、あの日の会話と先生の笑顔は、私と先生だけの秘密になったのだ。

 その後すぐに冬休みがやって来て、共通テスト、私立の入試、最後の定期試験まで重なってきた。そうなってくると、さすがに先生のことを考えていられるのも一日のうち、寝る前の少しの時間くらいになってしまう。だけど先生のことを考えられない時間が多い日が続くだけで、なんだか少し大人になれた気がしていた。
 あっという間に自由登校の時期になって、高校生活の終わりの日が近付いている。
 最後がこんなに呆気ないことを、誰かもっと教えて欲しかった。徐々に閑散としていく学校に寂しさを感じながら、数日ぶりに大学入学の手続きのため、人もまばらないつもの道を通って登校する。
 先生に会えないだろうかと期待をして覗いた職員室には、おにぎりをほおばる八乙女先生しかいなかった。
「……八乙女先生、九条先生は?」
「あ?あいつならこの時間二年の授業だろ」
「ふーん」
「お前あいつの時と態度違いすぎだろ!」
「当たり前じゃん!ただのメンクイじゃないんです!」
「ああそうかよ」
 八乙女先生はつまらなさそうにゴミ箱へおにぎりのカスを投げて、なっがい足を組んだ。
「もう卒業か」
「だね」
「切ねえな」
「……」
 八乙女先生はきっと、私が居なくなったところで悲しくもなんともない。うるせえのが居なくなるって笑うだけだ。それなのにそう言うのは、つまり。この恋の終わりがやってきていることを、そんなことで強く感じる。
「おい、大丈夫か」
「……ねえ八乙女先生。私いつか、ちゃんと思い出に出来るかな」
 ぽつりと、零してしまっただけだった。ひとりきりじゃこの心に向き合えない気がして、行くべき方向に背中を押して欲しかっただけ。それを感じ取ったかのように、八乙女先生は私に厳しい目を向けた。
「してえのか、思い出に」
 よく響くテノールで発せられる語気の強い言葉に、はっとする。
「本当に手に入れたいなら、何年かかってもいい。周りの言葉に揺らぐな。自分の気持ちは自分にしか分かんねえんだ。自分に嘘ついて、周りが言ってるからって流されて、それでお前が大人になった時、後悔しねえって言うなら思い出にでもなんでもすればいい」
「……」
「出来るか」
「…八乙女先生って、先生なんだね」
「良かったな、卒業前に気付けてよ」
 最後まで小馬鹿にしたような私の言葉に、八乙女先生は怒らない。怒ったのは、私が自分を欺こうとしていたことに気付いた時だけ。
 鼻をすすって、校門を出て振り返る。
 何も変わらなくていい、同じ結末でもいいから、三年前からもう一度やり直せたらいいのに。

 時の流れは残酷で、卒業式の日はあっという間にやってきた。真冬の気候が長引いて、桜さえもまだ咲いていない今日、私はいろんなものから卒業しなくてはいけないらしい。胸に付けるようにと配られた薄桃色のブローチでさえも、先生を思い起こさせてくるからたまったものじゃない。
 講堂に入れば、教員席に並ぶ先生がいる。先生は式典だからなのか、珍しくスリーピースのスーツを着ていた。長い校長の話と、送辞と答辞、お決まりの歌を歌う約一時間半の間、私は飽きもせずその横顔を目に焼きつけて、そうして最後まで先生一色だった私の高校生活は終わりを告げた。

 …
 
「キミ、まだいたの?」
 式が終わってからの寄せ書きタイムと写真撮影を終えて、名残惜しそうにバラバラとみんなが帰り出しても、私は教室を動けないでいる。
 最後の最後に先生と話せないで終われる訳がない。もう少ししたら職員室まで会いに行こう。そう思っていたタイミングで聞こえてきた足音で、それが先生だとわかってしまった。先生の足音は落ち着いていて、少しゆっくりで、革靴の底の硬い音がする。
「だって先生が人気で、全然近寄れないんだもん」
「別に話しかければよかったでしょ」
 そう言いながら、先生は教室に入ってきてくれた。私の気持ちを抜きにしても、先生にはお世話になったし、何かと関わりも多かった。先生も少しくらいは思う所があってくれたらいいなと思う。
「…先生、寄せ書き書いてくれる?」
「いいよ、おいで」
 先生は空っぽになった席に座ってペンのキャップを取ると「卒業おめでとう。素敵な大人になってください」と、少し癖のある文字で書いた。几帳面そうなのに、先生の文字はいつも微妙に崩れている。本当によく見ていると実はぽやっとしたところのある先生らしい。英語の授業が終わる度、消さないでと願っていた大好きな文字が、私のアルバムに残されていく。
「先生、これで最後だね」
「そうだね」
「寂しい?」
「そうだね、少しは」
「そっか、…少しは寂しがってもらえて良かった」
 しおらしく呟いた私に、顔を上げた先生は少しだけ目を丸くして驚いていた。
「…どうしたの?いつもならもっと怒るでしょう」
「……だって今、我慢してるから」
「何を?」
「好きって言っちゃいそうになるの」
「……」
 今更だと、自分でも思う。きっと先生からも「いつも言ってるくせに」だとか、そんなふうに笑われると思った。だけど、先生はそれを言わずに黙って受け止めた。私から溢れ出てしまいそうなものが、いつもの軽い「好き」じゃないことに気がついていたからだと思う。
「…あの日キミがした星の話」
「え…?」
「あれから考えてた。キミはこれからも星を見る度に、7年前のキミと同い年だったボクを想ってくれるのに、ボクは今日からもう思い出の中でしかキミと会えない」
「……」
「なんかずるいね」
 18歳の私に、「好き」と言わせてくれない先生はきっといい大人だ。だけどこんなふうに忘れさせてもくれない先生は、悪い大人なのだろうか。それが分かるようになるまで、きっと私は先生には追いつけない。手を伸ばしても、さらりとかわされて、振り返ってくれるのに、先生はまだ先にいる。
「…先生、私早く大人になるから、そしたら、先生のこと好きって言いに来てもいい?」
 どんなにやめようと思っても、やめられなかった恋だった。同級生との制服デート、下校の寄り道、ドキドキするようなファーストキス、あるかも知れなかった輝くような経験の全てを代償にしても、おつりが来るほど大切な気持ちだった。
「キミが、ボクがもう我慢出来なくなるくらい、素敵な大人になったらね」
 先生の指が文字をなぞる。
 私はきっと、その言葉を抱えて大人になる。
 



 




 

 

「えーーーっ!それで天にぃ、その子とそれっきり?連絡取り合ったり会ったりしてないの?」
 
 双子の弟、陸がコーヒーを零しそうになりながら、机から乗り出してボクを見る。長い間決まった相手のいないボクに、ここ一年ほどでついに陸がおかしいおかしいと頻繁に言うようになった。これは浮いた話で安心させてあげられない代わりに話した話。言うつもりもなかったんだけど、あんまりうるさいから仕方なく。
「してないよ」
「ほんとに来るか分からないじゃん…大人になったらっていつ?何歳?」
「さあ。別に約束してないし」
「……なのにずっと彼女も作らず待ってるの?天にぃらしくなくない?」
「たまたま居ないだけだから」
「天にぃがぁ?そんなことある?」
「陸はボクをなんだと思ってるの」
「爆モテ委員長……」
「やめて」
 一体何年前の話をしているのか。みんな揃って、高校時代のボクにこれ以上思いを馳せないで欲しい。別にそんなにモテてないし、陸の方が凄かった。
 陸は怪しむようにボクを見てから、ふぅんと小さく息を吐いて、それから少し下を向いてしまった。共感力の高い子だから、彼女の方の気持ちに充てられてしまったのかも知れない。
「……天にぃはさ、その子のこと好きなの?」
「……好きっていうか」

 彼女の好意にはもちろん気付いていた。初めの印象は、やけに英語だけ頑張ってる子。そのうちにあけすけに好意が伝わってくるようになって、どうしようかとも思ったけれど。成績が上がっていることは事実だったから、期待させない程度に受け流して、彼女の先生として正しい行動を取っていたつもりだ。
 テストの点数が上がれば、他の生徒と同様に褒めてあげるし、挨拶をされれば、他の生徒と同じように返した。それが彼女のためだったし、何より彼女はきちんと理解している子だった。もちろん初めは驚いたけれど、繰り返される「先生大好き」の言葉は、彼女自身そうして口にすることで気持ちを整理しているように思えてならなかった。
 だけど神様は意地悪で、そうして一生懸命、精一杯の恋をしている彼女にいたずらを仕掛ける。図書室で閉じ込められた時。多感な時期に、気になっている異性とこんなところに閉じ込められてしまったら、整理がつくものもつかないだろうと、ボクは意外と焦っていた。現に彼女がどうにか場を繋ごうと頭と口を回していることには気がついていたし、あれは本当に、可哀想だったと思う。
 いつだったか。
 ああそうだ、卒業前の、バレンタイン。
 自由登校が始まったばかりで、名残惜しいのかまだ登校してくる生徒が多かった頃、教室で彼女が友達と話しているのを聞いたんだ。
 

『ねえ、九条先生にチョコあげないの?最後だよ』
『ずっと好きだったじゃん…もう卒業だし、オッケーしてくれるかもよ…?』
『うん、…いい』
『なんで?』
『軽い好きなら今まで散々言ったけど。私が先生の年齢で、今の私に本気ですって告白されても、嬉しくない』
『え…』
『そんな考え無しな子、困るし、大人に憧れてるだけでしょって思う。だからちゃんと色んな世界を見て、それでも先生が好きだって、先生に信じて貰えるようになるまでは言えない』

 
 彼女はそう言って、浮かべた涙を拭った。
 結局卒業式では、それに近しいことを言ってしまっていたような気がするけど、彼女がそうしたいと思うのであれば尊重したい。彼女はボクのことを、最後まできちんと先生のままで居させてくれたから。

 陸は今までの話をボクを真っ直ぐ見つめて聞いていた。話し終わると、すっかり大人になった優しい顔つきで口を開く。
「…なんか、可愛いね。一生懸命で」
「可愛いよ。そんなふうに想われて、嬉しくないわけない」
 そう言ったボクを見て、陸は嬉しそうに笑った。
 ここから先は、双子のシンパシー。
 明確な言葉なんて必要なかった。
 


 
 
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