貴方を探す逃避行



 繁忙期を乗り越えて、余っていた有給を一日だけ使った。誰にも秘密で、私が喜びそうなことを私自身が考えて過ごす。今日をそんな日にしたかった。いつもよりもゆっくり目覚めて、朝食はホットサンドメーカーで少しわがままなサンドイッチを作った。お気に入りのスカートを履き、特別な日にだけ使うリップを塗って、鏡に向かって笑ってみる。そうして、こんな健気な自分自身に、今日をいい日にしてあげることを約束するのだ。
 そのまま、みんなが働いている時間にゆく宛もなく外へ出た。目に付いたお店に入って、雑貨をただ見て回る。こんな日を、たまには作らないといけないなと思う。人間社会の歯車から外れて、ひとりで自由になる時間がなければ。誰のためでもなく自分のために歩いたり、休んだりする時間がなければ、自分の頑張れる度合いを測り間違って壊れてしまう。

 持って出てきた本をどこで読もうかと考えて、ふと向かっていた足先の方向を変える。ここまで来てやっと、心に余裕が生まれたのかもしれない。忘れていた訳ではないけれど、ようやく思い返すことが出来た。この角を曲がった先にあるカフェで、私は今の恋人と出会ったのだ。
 そんな大切なことをやっと思い出して、どれだけ心がくさくさとしていたのかを思い知った。今まで私の中のどこに行ってしまっていたのだろう、あの背ばかりが大きい子供のような恋人の存在は、思い出すと心がくすぐったくなる。会いたいけれど、そんなことを言っても難しい。それならばと向かったカフェで、彼の残り香のようなものを感じたかった。
 戸建てのカフェは、内装は落ち着いていて天井が高く、大きな棚にはこだわり抜かれたコーヒー豆が瓶に詰まって置かれている。道路に面したテラス席にはテラスカーテンがかかっていて、外から見えづらいように配慮がされている。ここがなんとも、天蓋ベッドの中のようで落ち着く空間だった。
 平日のピークをすぎた時間だからか客入りはまばらだ。ひとりがけのソファに座って、選んでもらった今日のおすすめのコーヒーの香りを嗅ぎながらふと隣を見る。そこにはすらりと伸びた足を組んだ、綺麗な人がいた。やけに綺麗な。綺麗な……?
 人生でも一二を争うほどに完璧な二度見をしてしまった。きっと彼はそんなものだってされ慣れているんだろうけれど、私はまだ驚きで震えながら、声のボリュームを最小限まで落として話しかけた。
「み、巳波くん…?」
 本を読んでいた彼は視線を少しだけ上げ、その瞳で私を捉えることは無いまま、ゆったりとした動作でふわりと上げた口角へと人差し指を軽くあてた。
 ファンに見つかったと思ったのだろう。慣れた対応に見蕩れそうになるが生憎私はそういう者ではない。
「巳波くん、私…」
 もう一度そう言って、やっと目があった。眠たそうで可愛らしい広い二重幅が、驚いたのかひゅっと折りたたまれて仕舞われる。次いでよく見えるようになった色素の薄い瞳は、昼間の光の中で綺麗な飴色をしていた。
「……っ驚きました。御堂さんの…」
「私も。巳波くんにあしらわれちゃいましたね。ファンの子だと思いました?」
「ええ、てっきり。お恥ずかしい」
 全く恥ずかしそうでは無いものの、優しそうに微笑んだ巳波くんは、良ければと自分の前の席を私へ促した。これは意外だと思ったけれど、顔見知りがこの場で挨拶だけを交わして、その後はお互い黙ってお茶を飲むなんてことになる方がずっと気まずい。きっとそこまでを見越して気を使ってくれた彼にお礼を言って、目の前に座った。
 テラスカーテンが揺れて、合間からシマトネリコの木の枝が見える。歩道からそうして二重に隠されたこの場所で出会った恋人も、今の巳波くんのように長い足を窮屈そうに組んでいた。
「…このお店、ŹOOĻ御用達なんですか?」
「御堂さんのおすすめで」
「あぁ。なるほどです」
 大して会話が続くわけでは無いけれど、充分だった。巳波くんの着ているこのニットを、きっと彼も見て、もしかしたら触れて。この甘いかんばせを毎日眺めて、微笑みあっているのかと思えば、今日ここへ来た意味は充分ある。
「――さん」
「あっ。はい」
「写真を一枚、いいですか?」
 シンプルなケースに入れたスマートフォンを、巳波くんが掲げた。
「え、私のですか?」
「はい。あとで御堂さんに見せたら、面白いかなって」
「…悪いんだから」
 肩を竦めて笑った私へと、巳波くんの微笑みが降りかかる。ピースが必要かと問えば、「気構えなくていいですよ、自然に」と言われて、私はコーヒーを一口飲んだ。ŹOOĻという人気アイドルグループの、そのうち二人のスマートフォンの中に私の写真があることが不思議だ。
「今日はお休みですか」
 巳波くんから声がかかる。有給を取っていることを伝えれば「それ、御堂さんは?」と、どこか訝しげに聞かれた。
「…あ、言ってない。急だったし、一日だけだし、忙しいかなって」
「…なるほど、そういう事でしたか」
 手のひらの中の機械へと視線を落としたままの巳波くんが、コーヒーの飲み口へ口をつける。絵になる人だった。落ち着いていて、中性的で、脳が彼を男の人だと理解しようとしない怖さがある。
「余計なことではないといいんですけれど」
 そう言ってスマホを撫でた巳波くんの指は紛れもなく男の人で、言われた意味は分からなくてもどこか見入ってしまう。いつも、こんな人と並んで歌っているのだ。彼も。

 そろそろ、と私が席を立つと、巳波くんも同じタイミングでコートを着た。
「せっかくのお休みに、邪魔をしてすみません」
「私が声をかけたから。こちらこそありがとう。その…」
 虎於をよろしくね、と言うのはなんだかはばかられてしまった。奥さんでもあるまいし、何様だと思われるかもしれないと思ったからだ。巳波くんはそんな私を一瞥してからまたあの笑顔でにこりと笑い、すれ違うように一歩前へ出た。
「御堂さんをよろしくお願いしますね」
「…っ」
 振り返ってみれば、巳波くんはぺこりと頭を下げてくれていた。なんだか不思議な人だと思うと同時に、あんな人でも彼のように、必死になって恋をしたりするのだろうかと思ってしまう。素敵なことが起こるだけが恋愛じゃないことを知っている。嫉妬もするし、不安にもなるし、相手の方はなんだかもっと。らしくないことをして、かっこよくない日だってある。
「……今日、空いてたのかな」
 巳波くんがオフだからといって彼がそうだというわけじゃない。巳波くんだって、このあとに予定があるのかもしれないし、それは分からないけれど。しばらく触っていなかったスマホを探して、鞄の中で手のひらをさまよわせると、今まさに震えている機械に触れた。
「わ、何」
 怒涛の通知は、なにか急用でもない限りは許されないほどの量だった。
 だけど開いてみれば、これが巳波くんのした余計なことだということがすぐに分かる。

「何してる?」
「おい」
「なんで巳波といる」
「俺は聞いてない」

 ごめん。スマホ、見てなかったんだよ。だけどずっとあなたのことを考えていた。最後に届いていたメッセージを見て、部屋を片付けなければいけないと悟った私は、やっとこのささやかなエスケープを終えて家へ帰ることにした。
 

「今夜、会いに行く」
 

 
 
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