おまえらほんと、見てて恥ずかしい

 

 君を好きになったこと
 間違いだったのかもしれない
 だけど、後悔したことは一度もなかった

 落ちた太陽が照らした、
 細く伸びた四本の影
 そのうち二つが繋がっていたことは
 私達以外の誰も知らない
 





――――――――――


 





「…よろしくお願いします」
「…………え?」

 思い出作り。玉砕覚悟、行け。親友からそんなふうに背中を押されて、ダメで元々お呼び出しをしたのはクラスメイトの和泉一織。学校生活を過ごしていて、その中で誰か一人だけのことをどうしても目で追ってしまうようになる経験は誰にだってあるだろう。後ろ姿を見られただけで嬉しくて、目が合っただけでその日はカレンダーに印をつけたくなるような。私にとってはそれが一織だった。
 テレビで見せる顔とは少し違う、年相応にクラスメイトと戯れ合う姿は可愛らしくて、いつもの完璧な姿とは違って、習ったばかりの難しい問題に眉をしかめる顔は意外性があった。学校での彼は、内向的で、体育系というよりは文系っぽい。そうかと思えば体育祭で信じられない奇跡を起こして勝利をもぎ取ってきたりするんだから、堪らなかった。
 クラスメイト同士の会話は普通にする仲だ。修学旅行では同じ班だった。とはいえ、彼は人気アイドルグループの一人だったから、こんな告白も、まあ普通に考えて望みが無いだろうことは承知のうえ。でももう黙って居られなくて、半ば気持ちを押し付けるような迷惑な告白になるだろうと思っていた。それなのに、目の前の人は何故かこちらに向かって小さく頭を下げている。
 
「よ、よろしくって何が?」
「…え、違いました?好きだと言われたので、交際の申し込みかと思ってしまったんですけど」
「え、その申し込みは通るわけがないと思ったので、まだ好きとしか言ってないんだけど…」
「……じゃあ今してください。通すので」
「…だって一織、アイドルなのに…」
「あなたがそれを言いますか」
 
 本当は、一織をアイドルとして見られるようになったのはかなり最近だ。だって、出会った頃は普通のクラスメイトだった。芸能事務所に入っていることは知っていたけれど、言ってしまえばまだそんなに売れてなかったし、そんな子、うちの学校には山ほどいた。だから私の中での一織はまだ、綺麗で、しっかりしていて、意外と周りに流されやすい、普通の男の子。
 
「え…付き合ってくれる、の?」
「それ、申し込みと取っていいですか」
「え…」
「…あなたから言わせてすみません。私も、よく分からないなりに、あなたのことは特別なので、その。…よろしくお願いします」
 
 傍で揺れる枯れ木の植え込みへ逸らされた瞳が、最後の最後でこちらへ寄越された。吐いた息が白く揺らめく、太ももを擦り合わせたくなるような冬のことだ。








 ――――








「さみーーー!」
「言うなよ!余計寒くなるだろ!」

 そういう割に、亥清くんの歩幅に合わせて歩く四葉の後を着いて歩く。こんな普通の下校の時間を一緒に過ごすようになって、三ヶ月ほど経っていた。昇降口で「っさむ」と言ったきり口数の少ない一織を横に、お揃いの制服の高校生たちがとぼとぼと道を歩く。
 一織とのことは、私が思っていたよりも早くに目の前の二人に筒抜けた。秘密のお付き合いを覚悟していた身からすれば少し拍子抜け、それと同時に嬉しくなったことを覚えている。どんな風に、二人へ報告したんだろう。なんて事ないような顔して、耳の先だけ染まっていたり、したんだろうか。何も言わずに近づいて来た亥清くんに肩でとん、とどつかれて「やるじゃん」と言われた日、私はなんて返したんだったっけ。きっと秘密でお付き合いしていたらもっとずっと先まで感じられなかった実感が、あの時どっと湧いてきた。

「さみーーって、いすみん、なんか笑かして」
「無茶言うな!さっさと歩けよ!もーー」

 大声を出すことで体を温めている二人の声を聞いていると、確かに無音でいるよりはいくらか温かくなるような気がしてくる。とはいえ、それは本当にだの気の所為で、指先はキンキンに冷えきって、スカートからさらけだした足はそんなに早く動かない。早く家に帰って炬燵に入りたい。そう思っていると、不意に隣を歩いていた一織がこちらに少し寄った。
 突然近付いた距離に、初めはただ、車でも来たのかと思った。一織越しに車道を見て、車どころか自転車のひとつも来ていないことを確認する。前を向いて、水色と水色の頭を見ながら、触れそうな肩が急に燃えるように熱い。それでいて、変な汗が体を冷やした。何も言わない一織の息遣いまで気になって、脳が勝手に周囲の音へノイズキャンセリングをかけ始める。これでもう、一織の声しか聞こえない。
 
「……っふ」
「……」
 
 視界の端で、ほんの少しだけ胸を揺らした一織が息を漏らすように笑う。今この瞬間、世界で一番小さかったんじゃないだろうか。そんな音が、私の耳にははっきりと届いた。
 震える私の肩は、もう寒さからなのか、ほかの原因からなのか。ぎぎ、と首の関節が軋むようにゆっくり見上げたその先で、瞳の隅で私を見下ろす一織と目が合った。
 いつから見ていたのか分からない。彼からしたらやっと目が合ったのかもしれないけれど、私は長くそれを見つめてなんて居られそうも無い。瞬きを沢山しながらどうにか逸らして、それでもこの距離だけは開かないように、何とか彼について一生懸命歩いた。

「いおりん達、おっせーよ、置いてくかんな」
「あ、ごめん、待って」
「あなたたちが早いんですよ」
「寒いから早く帰りたいんだよ!」

 亥清くんの言うとおりだ。だけど私はつい、この一本道がどこまでも終わらないでいてくれないかと思ってしまった。
 
 絶対有り得ないと思っていたこの恋は、突然成就した。その後の一織は、きっと傍から見れば何も変わらない。だけど私からすれば拾いきれないほど、小さな好意に溢れていた。開かない瓶の蓋が、突然開いて中身が飛び出してくるように、散りばめられたそれを拾い上げるたび、到底信じられなかった一織の気持ちを実感していく。
 指先を絡め合わなくても、肌を寄せ合わなくても、視線の一つ一つに特別だと言われるような生活に、私はいっぱいいっぱいだった。それなのに、少し経てばそれだけじゃ足りなくなっていく。骨ばった指や、揺れる髪に、触れてみたいと思ってしまう。だけどいつだって、すんでのところで私の体は動かなかった。友達同士だった頃の方がもっと楽に触れ合っていた気がする。修学旅行で肩を寄せあって撮った写真を見ながら、その中で笑う自分の手が楽しそうに一織の腕を掴んでいるのを見ながら頭を抱えた。
 
「logってなんなんだ……」
「…そこからですか」

 図書室の窓際で、声を潜めてぼやくと、一織は可哀想なものを見る目でこちらを見た。高校二年生も終わりにさしかかれば、嫌でも勉強しようという気になるものだった。校内であれば、こんなふうに二人でいてもあまり目立たない。こんな光景に慣れきった生徒ばかりの環境に、今更ながら感謝していた。
「数学って言ってるのに英語が出てくるの全然解せない、xが出てきた時からずっと怒ってるからね、私」
「それだと、四年前から怒りっぱなしになりますけど」
「そうだよ」
「根気がいりますね、怒り続けるのも」
 そうは言いつつ、やるしかない。再び問題に目を向けて少し。大きな問題の一番下で、一織のペンが止まったのが分かった。一織でも迷うことあるんだなあと覗き込むと、そこはこないだ塾でやったところ。…三角関数。数学だって言ってるのに、ほとんど英語しか出てこない最悪の単元。
 私から教わるの、嫌だろうな。そう思いながら、自分のノートを超えて一織のノートへ手を伸ばす。綺麗な字で端に書かれていた公式を、指先でとんとんと叩いた。
「…この公式、使うんだよ」
「………」
「一織?」
「…ああ、なるほど」
 ほんとうに分かったんだろうか。親指と人差し指でペンを持ったまま、彼の残りの指が私の指先へ触れる。コトンと転がったペンが机を叩いて、残りの二本で人差し指を撫でられながら、私の指を割るようにゆっくり、全ての指が絡み合った。
「……わ、分かったの?」
「おかげさまで」
「じゃあ、はやく、問題解けば…?」
「せっかちな人だな…。解きますよ、あと少ししたら」
「…あと、少し」
「はい。少し」
 生唾を飲んだ音は、廊下の先から聞こえてくる吹奏楽部のトランペットに掻き消されてくれただろうか。絡んだ指と指はもちろん、一織の顔も、全く見られそうになかった。


 
 それからも、私たちの交際は随分と可愛らしいものばかりだ。一織が出演したテレビ番組を欠かさず見るのは、付き合う前から変わらない。「この子、あんたのクラスの子なんでしょ、綺麗な子ね」キッチンから顔を出してそう言うママの言葉に、「実は付き合ってるんだよね」とは言えそうもないけれど。「好きな人なんだよね」とも言ったことは無いから、結局私はいつも通り、気のないような返事を返すだけ。ひとつ変わったことがあると言えば、この手の中で震えるスマホだった。
『見ました?』
 そんな通知を横目に見る。一織は結構、自分が出た番組の反応を気にするタイプのようで、エゴサしたり、クラスの子達の会話に意外としっかり聞き耳立てていることを知っている。だからだろうか、こうして必ず私の所へ感想を聞きにくるのは。
 
『見たよ』
『ありがとうございます。どうでした?』
『良かったよ。可愛かった。一狼の髪の毛』
『あなた、毎週そればっかりですね。』
『だっていつもの一織と違くてかっこいい』
『は、なにきぬんね』
『え、何、大丈夫?』
『すみません。大丈夫です。別に、髪型なんて普段からいくらでも変えられるでしょう。』
『だって学校じゃ毎日一緒じゃん。ぱっかりセンター分け』
『ムカつく言い方をしてくれますね。』
『別に、なんでもいいんだけどね、なんでも好き』

「……あれ、返信来なくなった」
 
 寝たのか、それか、寮で陸くんや四葉と何か話してるのだろうか。しばらく待ってみたけれど、一織のアイコンは新着メッセージを知らせてくれることは無かった。お風呂に入れとママに怒鳴られ、湯船に浸かりながらドラマの一織を思い返す。だいぶいつもの一織と違う役が来たものだ。陸くんの役の方がまだ合っていたかもしれない。でも、体育祭で見せた気迫は結構一狼寄りだったかもしれないな。そこまで思い返して笑いながら、ふと考えた。
 多分私は、一織の彼女だっていう実感があるようで無い。好かれているとは思う。自信が無いとか、不安があるとか、そうではない。ただ上手く言えないけれど、やっぱり一織はアイドルで、きっと今だってこうしてお風呂に入りながら、さっき見たドラマを思い出して「一織くんかっこよかった、またライブ行きたいな」なんて考えている子が沢山いて、その子たちは私の存在なんて考えてもいない。もし考えたとしたらものすごく嫌で、邪魔な存在だろう。それが私なんだっていう、そういう実感が無い。
 
「……だって、好きになった人がアイドルだったんじゃなくて、好きな人が、アイドルになっちゃったんだよ」
 
 そんなつぶやきは、どこへも投稿できない。我が家のお風呂場の湯気と一緒に消えるだけだ。




 
 その次の日、七星学園の二年生校舎は少し、いやかなりどよめいていた。和泉一織がヤバい。そんな声は、昇降口まで聞こえて来る程に。
 自分のクラスの前にできる人だかりの隙間から一織を見て、ああこれは騒がれるわ、と一周まわって冷静になる。合間を縫って何とか教室に入ると、自販機帰りらしい亥清くんが横に来て、私をじとりと見たあと口を開いた。
 
「…なあ、あれ、おまえがなんか言ったの?」
「…いや、言ったかな、…言ったのかも」
「和泉ってそういう感じなんだ?オレ結構意外なんだけど」
「まって亥清くん。私も今びっくりしてるところだから、全然ついていけてないから」
「は?おまえがやって来いって言ったんじゃないの?」
「言ってないよ…!毎日ぱっかりセンター分けって言っただけ…!」
「それじゃん…!もう絶対それじゃん!」
 
 見てよ、教室の隅でコソコソ話す私たちに向けられる、一織のあの勝ち誇った顔。いつもは隠れている耳をさらけ出したまま「どうですか、やればできます」って顔をしている一織を遠目で眺めて、とんでもない事に気がついた。
 
「い、い亥清くん、一織、前髪も降ろしてる!」
「今!?だからおまえがセンター分けって言うから、降ろして来てんだろ!?」
「何それ、可愛くない!?可愛いよ、助けて」
「知らないよ!あんま近づくな!」
「亥清さん」
「…ほら来たよ、おまえのぱっかりセンター分け彼氏」
 
 振り返ると、いつもより数割増しでかっこいい一織が傍に立っていた。
「オレ知ーらない」
「亥清さん、彼女さんが探してましたよ」
「…あ、そう」
 行ってしまった亥清くんの背中を眺めて、もう一度一織を見上げた。
 いつもなら見えているおでこが隠されて、代わりにいつも隠れている両耳が見えるようにセットされている。体育やその日の気分で結んだり上げたりしている四葉と違って、普段学校での一織がワンパターンであるが故に新鮮味が強く、本当にドラマか雑誌から出てきてしまった男の子のようだった。
「和泉がやばいって本当?!……うっわ」
「どれ?…うわ、まじかー。……拝んどこ」
 噂は近隣のクラスにまで風のように拡がった。色んなところから一織を見に来た人の悲鳴が聞こえてくる。女子だけならわかるんだけど、結構ダメージを受けてる男子たちは一体何。
 
「…昨日返信無かったから、寝たのかと思ってた」
「あれは、まあ。すみません」
「全然いいんだけど、それ…」
 おずおずと頭を指させば、きまり悪そうな一織が微妙な顔をした。
「別に、あなたに言われたからじゃないです…っていうのは、さすがに苦しいですね」
「うん、苦しい。ごめん、気に触った?」
「え?」
「センター分けって言ったの」
「あぁ、そっちは別に」
 
 言いながら、窓際の席の方へ向かっていく一織について歩く。普段の一織には完全に慣れきっているクラスの女の子でさえ、サッと道を開けていく有様だ。そのぐらい、今日の一織は何かが違う。
 
「おは」
「あ、おはよう四葉」
「みんなすげーびびっててウケんな。ちなみにそれ、俺がやった」
 さっきまでの一織よりも数倍勝ち誇った顔をした四葉がそう言う。
「四葉がセットしたの?一織のこと?」
「そ。いおりん鏡の前で動かねーから、何してんのって言ったら「なんかこう、いつもと変えたいんですけど」って言うから」
「っ、待って四葉、ちょっと似てるのやめて」
「別に、どうしようか迷ってたりとかしてないです」
「言ってねーそんなこと」
 
 噂が噂を呼び、その日一日の間に他学年の男子生徒までもが一織を見に来ていた。教科担当の先生たちもいちいち反応をするから、放課後までに疲れきった一織が「もう二度とやらない」と呟いていたのを、私は一織の前の席で聞いていて肩を震わせた。
 やっと放課後だ。二人の後を着いて歩いて、先に分かれ道の来る亥清くんに手を振った。私の帰り道には、亥清くんと別れたあと、四葉と一織ともバイバイするY字路がある。いつも通りそこへ差し掛かったところで「四葉さん、ちょっと」と一織が四葉を見る。呼ばれた四葉も一織を見て、それから「先ゆーーっくり歩いてっから」と私に手を振ってから曲がって行った。
 
「別に先に帰っててくれていいんですけどね」
「四葉は優しいからねぇ」
「そうですね」
「……」
「……」
 私だけをその場に残した一織が黙ってしまったら、四葉がゆっくり歩いてくれている意味が無い。少し慣れ始めてきたとはいえ、やっぱりすごくかっこいい今日の一織へ、どうしたの?と伝わるように視線を送る。
「…感想」
「え?」
「貰ってないんで。あなたからだけ」
「あ、…い、言ってないっけ」
「言われてないです」
 一織がこんなに欲しがりだって、ファンの子は知ってるんだろうか。だけど、アイドルをしている時の一織は自分単体よりもむしろ、グループやセンターを褒められる方が誇らしげな顔をする。これは一織がテレビに出るようになってからほとんど全部の番組を視聴している私が言うんだから、間違いないはずだった。
 それなのに、今この目の前にいる彼はきっと、私からお褒めの言葉を頂戴できるまで私を逃がさないだろう。そんな目をしている。
 
「…改まって言うの、恥ずかしいんだけど」
「早くしてください、四葉さんがゆっくり歩いて待ってるので」
「わかってる、ていうか、一織だって分かってるくせに、ずるい」
 ほんとうにずるい、狡くて、かっこよくて、だけど私の言葉を待っている彼は可愛くて仕方ないんだから、やっぱり狡い。
「……かっこいいよ、めちゃくちゃかっこよくて、びっくりした」
「……」
「な、なんか言ったら?」
「すみません。四葉さんに、朝から捏ねくり回された甲斐がありましたね」
「…四葉のセット、激しそう」
「激しいですよ、四方八方からドライヤーされますから」
 あれでよく、こうもまとまったなと…と、楽しそうに朝の出来事を思い出している一織に、私も嬉しくなる。私の言葉ひとつで、こんなに機嫌が良くなる一織が可愛い。
 
「ふふ。ねえ、でもね。私いつもの一織も好きだよ」
 そう言えば、可愛く笑っていた一織の目が丸くなる。
「は、?…っあなたね、かっこいいって言うのにはあれだけ時間かけたくせに、なんでそっちはそんなすぐ出てくるんですか…!」
「え、だって、一織のこと好きなのはもうバレてるし」
「わぁー、一織かっこいい…。って思ってることも朝から知ってますよ!」
「じゃあ言わせないでよ!」
 
 これ以上は四葉が寮に着いてしまう。
 じゃあねと言った私に、また明日と言葉が返されてお互い背を向ける。最後の最後に、今日の一織をちゃんと見ておけば良かった。振り返って、姿勢のいい背中を見つめてみる。曲がり角で私の視線に気が付いた一織は、こちらを見てふっと目を細めて笑って、そのまま見えなくなった。
 




 ――


 季節は変わって、私達は揃って三年生になった。
 うちの学校はクラス替えが無いので、正真正銘みんな揃っての進級だ。亥清くんの彼女は隣のクラスの子で、それについてものすごく嘆いていたけれど、亥清くんは「おまえいたらうるさいからちょうどいい…どうせほぼ毎日会うし…」とうんざり顔をして怒られていた。彼女も一緒に帰れればいいんだけど、方向が真逆だからと、私達は変わらず四人で帰宅の道を歩いている。
 一織の前髪は今日もぱっかり分かれていた。何も変わらない、私たちの穏やかな放課後だ。
 
「三年生ーになったーら」
「三年生ーになったーら」
「「友達百人できるかな」」
「っはは!そんなにいらねー!」
「いすみんが乗ったんじゃん!」
 アホみたいな即興を聴きながら、水色と水色の頭をした二人の後ろを一織と並んで歩く。だけど、本当は私たちしか知らない変わったことが一つだけあった。
「……」
「……っ!」
 最近、二人の後ろを並んで歩く時にふと触れた指と指が、離れる前に少しだけ手の甲を撫でていく。私が息を詰めたのを見て、一瞬だけ、周りや二人にバレないように握られる。
 
「…………」
 
 そして、何事も無かったかのように離される。
 
「だぁから、おせーってそこの二人」
「……」
「その歌歌ってる人達と、友人だと思われたくないんですよ」
「どっからどう見てもツレだろ」
 そういう会話、出来ればずっとしていてくれないだろうか。四葉、亥清くん。どうか、一織から目を離さないでいてくれないだろうか。じゃないと、私がドキドキして死んでしまいそう。

 広場に出たところで、四葉が移動販売車のクレープ屋を見つけて私たちを振り返る。
「なあ、クレープ食いたくねえ?食いたい人ー」
「はーい」
「兄さんが夕飯作って待ってますよ」
「いすみんと半分こしたら?」
「なんでオレ半分食うことになってんの…?」
「いおりんと買ってくるから、二人で待っててー」
 そう言って一織を連れていった四葉。お店の方を見れば、数人が並んでいるようで少し待つだろう。広場に残された私と亥清くんは、傍のベンチに座っておくことにした。
 
 亥清悠くん。高二の途中で転校してきて、すぐに一織と四葉と仲良くなった。実際すぐにではなかったかもしれないけれど、女の私からして見たらすぐに、だった。怖そうで悪そうで、言い方がきつい。だけど悪い子じゃないのすぐに分かって、結局仲良くなってみたら意外と世話焼き。ぽやぽやしてる時もあれば、ツッコミに回って忙しそうな時もある。そんな子。
 今日はそんな亥清くんの世話焼きなところが炸裂している。
 
「おまえらまだなんもしてないの?え、なんもってなに?なんも?なんにも?」
「亥清くんが期待するようなことは何も…いや、だから手はたまに繋いだりするってば」
「手……」
「なに…」
「いや、別に。ふぅん」
 
 この子も大概、テレビで見るのとは少し違う子だ。大人に囲まれているのと、同世代の私たちといるのとでは違うのは当たり前なのかもしれない。亥清くんは意外と大人だ。多分だけど、それはきっと、色んな意味で。それを感じるのはいつだって、私が一織と居る時だ。彼が色々と察して、黙っていてくれたり、声をかけてくれたりするのを私も本当は気づいている。敢えて口にするのは野暮なものかと思って何も言わないけれど、彼の存在は私にとって大きかった。
「…このままじゃ駄目だと思う?」
「別に?いいんじゃないの。二人ともそれで楽しいなら」
「私は、……」
「え、なに」
 お店に目を向けて、まだあと少し二人が帰って来ないことを確認する。
「なんか、くっつきたいとかさ、ちょっとも思わなくは無いんだよ。でも、私その時、ちゃんと息とかできるかな…って」
「知らないよもう…聞いたオレが馬鹿だった!おてて繋いで仲良くしてなよ」
「そうする…」
 そう言ってしょぼくれた私に亥清くんは笑って「オレはいいと思うけどね」と付け足してくれた。この子は本当にいい子だと思う。
 
「…ちなみに亥清くん達は付き合ってどれくらいでキスした?」
「はあぁあ…!?言うわけないだろ!聞いてなんになんの、っていうか覚えてないよそんなの!」
「いーや亥清くんは絶対覚えてる、絶対めちゃくちゃドキドキしながらタイミング伺ったでしょ」
「おまえに何がわかるわけ!」
「参考までに、いいでしょ」
「…………知らない、三ヶ月くらいじゃない」
「すごい、とっくの昔すぎる」
「だから意味無いって言ったじゃん」
 亥清くんの彼女さんが、いつも可愛く笑って「悠!」とうちの教室に来るのを見ていると胸が温かくなる。きっとすごく大事にされているんだろうなと思うと、少しだけ彼女の気持ちがわかってしまう。大好きだから、あんなふうに笑えるんだろう。今度もう少し、話してみたいと思った。

 







――――

 

 灰色の空から泣くように滴る雨粒を見て、四葉が「ぞーきん絞ってるみてえだな」と言ったのを、私は多分生涯忘れられない。あれから、雨はなんだか汚く見えて苦手だ。

「…雨降ってきちゃったね、四葉濡れずに行けたかな」
「マネージャーが迎えに来たようなので、大丈夫ですよ」
「そっか、良かった」
 こんなに毎日梅雨入り梅雨入りと天気予報で言っているのに、どうして傘のひとつも持ってこないんだろうか、四葉。
 MEZZO"の仕事があるからと五限を早退して行った四葉と、珍しく夜のレッスンも何も無いという一織。時間に余裕のある一織は、亥清くんが先生から頼まれた仕事を代わってあげていた。
「ごめん和泉!ありがと!」
「いいえ、この後仕事ですよね。頑張ってください」
「うん、じゃあね!悪いけど、それよろしく!」
 そう言って亥清くんは走って教室を出ていった。亥清くんがそれ、と指さしたのは、五限の教科で使った資料たち。結構な量があるそれを資料室に戻す役割を先生から仰せつかってしまった亥清くんに、一織が気を回して代わってあげたというのがことの次第だ。
 
「一織。それひとりじゃ大変でしょ、私手伝うよ」
「…すみません。お願い出来ますか」
 素直にお願いされて、にこりと微笑む。こんなのは役得でしかない。両手に資料を抱えて二人で廊下を歩いていく。
「資料室デートだね」
「何言ってるんですか」
 呆れた視線が寄越されても、なんてことない。どうしてこんなに浮かれているのか。多分、放課後に二人きりなんて初めてのことだからだというのも大きい。それに今の私たちは先生からの雑用という、二人でいたって誰からも咎められない大義名分まである。学校内であればもう私たちのことを知らない人も少ないだろうし、そんなに気にする事はないのかもしれないけれど、堂々とできるのはなんだか嬉しかった。
 両手で抱えていた荷物を片手に纏め、引き戸を引いた一織について資料室へ入ると、独特の香りがした。湿った木のにおいと、埃っぽさ、古い紙の匂いが混ざって、なんだか落ち着く。長机に荷物を置いて、資料を元あった場所へ一つ一つ戻していく。このでっかい地球儀は棚の上。踏み台を使って、ベタな事故もなく、つつがなくお役目を終えた。
「一織、こっち終わったよ」
 そう、後ろを向いていた彼に声をかけるけれど、あまり反応が無い。
「…一織?大丈、夫」
 もう一度声をかけて、振り返った一織は、あまり見た事がない顔をしていた。何か大事な話でも打ち明けられるのかと、こちらが心の準備をしたくなるような、そんな顔だ。

「一織?何かあった?」
「…何も」
「そっち終わった?私の方終わったけど」
「終わってます。ありがとうございました」
 私の方はもう帰る準備が万端で、体は一織を向いていたけれど、足先は出口の方へと向かっていた。だけど一織は、振り返った姿勢のまま何故だか動こうとしない。
 それが不思議で、一歩一織に近寄った。
「どうしたの」
「…手」
「手?」
「手、出して」
 資料室は、資料を保護するためなのか分厚いカーテンがかかっていて、隙間から少しの光しか差し込まない。おまけに外は小雨が降っていて、薄暗い。この部屋の中も、資料を戻してすぐに出るだけなら問題ない明るさだったけれど、こうして二人きりで話をするとなると少し気になる暗さだった。だけどもう、今更電気をつけるのもおかしい。
「…はい」
 だからそのまま、彼の言うことをきいた。

 言われた通り、手のひらを見せるように前に出すと、正面から握られる。だけどそれだけ。何か言いたそうな一織の顔は変わらず、だけどそんな顔のまま、指の絡まりを深めてぎゅっと握り直された。
「……これ、なに?」
 普通に話しているけれど、私の心臓はもう限界だった。一織の考えていることが分からない。指先はひやりとしているのに手のひらは私よりも熱い、そんな一織の手がぴくりと動く。
「……資料室デート、なんでしょう」
「……え」
 言いずらそうに、たっぷり時間を使って言われたその言葉は、少し前に浮かれた自分が言ったことだ。
 何言ってるんですかって、一蹴したのは一織なのに。というか、一織の中で、手を繋いだらデートなの?
 可愛くて、嬉しくて、大好きがつのる。一織は私のことを喜ばせる天才だ。そう思っていることはきっと、私の表情で彼に筒抜けたはずだ。可笑しくて笑っているんじゃない。嬉しくて、大好きで、幸せだと思った時、人ってこんなに自然と笑うんだ。
 黙ったまま重なった手のひらの先にある腕がゆっくりと曲げられて、引き寄せられるように彼に近づいていく。
 湿った室内の床と上履きのゴムが擦れて、きゅっと音が鳴った。
 そうして離された手のひらが優しく背中に回されて、肺の中の埃っぽい空気が、いつも隣にいた一織から香る大好きなにおいへと変わった。
 今日の私がなんだかずっと浮かれていたこと。
 ちょうど、付き合って七ヶ月の日だったことを、彼は知っていたんだろうか。



 ――――――



 一織の活躍は目覚しい。
 ドラマの出演依頼もひっきりなし。学業優先だから、できる限りスケジュールは調整してもらっているみたいだけれど、それでも四葉や亥清くんと揃って一日居ない日もあったし、午前だけ、午後だけ登校するなんて日も珍しくなかった。そんな中でも、一織はラビチャの返信は欠かさずしてくれた。
『ノート、今度貸すね』
『助かります。今日のところ、授業に出られないの正直少し痛いんですよね。』
『めちゃくちゃちゃんとノート取ったから大丈夫だよ。あとから一織に見せるんだと思うと私もしっかり授業聞くから、むしろ助かってる!』
『普段からそうしてくださいよ。』

「……ふふ」
 両手で自分を抱きしめて笑う。どんなに気持ち悪かろうと、一人の部屋なんだから誰にも咎められることもない。そうやってあの日の一織を思い出すと、私はすぐに世界で一番の幸せ者になれた。
 一旦ラビチャを閉じて、そのまま隣のアプリでSNSを開いく。そこで、一織の名前を検索した。付き合う前にはやらなかったことだ。一織に感化されてしまったのだろうか、最近、私までこうして一織の名前をエゴサしてしまうところがある。そんなことしてどうするんだと自分でも思う。だけどアイドリッシュセブンは楽しいバラエティなんかに出ていることが多くて、エゴサーチ結果も大概はクスリと笑えるようなものばかり。
「…こないだのドッキリ面白かったもんなぁ」
 画面をスクロールさせながら、目に止まった投稿を読んでいく。

〈一織と三月、似てないと思ってたけどぽかんとした時の口の開き方一緒で死ぬ〉
〈一織のドラマヤバすぎる!結婚してくれ… 〉
〈和泉一織の熱愛が出た夢見て熱出た、助けろ一織、私しか好きじゃないって言え〉

〈和泉一織って高校で彼女とかいるの?関係者教えて
 てか居たら無理なんだけど、忙しいし普通に無理だよね〉
〈七星って芸能校でしょ?みんな弁えてるでしょ〉
 :
 :
 :

 なんとなく、それ以上は見ていられなくてアプリを閉じた。表示画面の中の文字たちが、全部私に向かって刺さってくるようで。
 ずっと、どこかに引っかかっていたことだった。
 だけど一織が好きだから。学校の中と、スマホの中と、下校の道の間でだけは、私だけの一織みたいだったから、一織がそう思わせてくれたから、今まで気にせずに来れたことだった。そう、痛感している。一織、やっぱりエゴサなんてやめたほうがいいよ。何より、これを一織も見ているのかもしれない。今までだって、こういうものを見ていたのかもしれない。それで、やっぱり私の存在は、一織が大切にしているものにとって邪魔なのかもしれないと、一織が思ったかもしれないことが一番辛かった。

『一織、明日学校来る?』
『明日は一日ロケなんです。明後日は午後から行きますけど、何かありました?』
『ううん、聞いただけ!頑張ってね!』

 一織に会えないことに、初めてほっとした。
 その間に、私は私なりに彼とのことについて考えたつもりだ。だけど、考えても考えても「和泉一織」という人は私にとって同じクラスの好きな人だった。彼がアイドルをやっていることは私にとって、普通の女子高生が「彼氏が部活で全国大会に行って活躍した」なんていうことと変わらない。
 だけど違うのは、彼がそれをきちんと仕事にしていて、私の存在が彼が頑張っていることの邪魔になる可能性があること。それを、誰よりも私が、どうしても否定出来なくなってしまった。

 
「一織…ちょっと」
「どうしましたか?」
 その日、仕事を終えて登校した一織に声を掛けたのは、お昼休みが始まってすぐのことだった。
「ごめんね忙しいのに。でもちょっと、話したくて…えっと…屋上行こう!」
「…屋上は生徒立ち入り禁止ですけど」
「…じゃあその手前の階段の踊り場…あそこ人居ないから」
「…わかりました」

 頭一つ分高いところにある彼の後頭部を眺めながら廊下を歩く。私たちのことを誰も気にしていない環境はすごく良かった。
 この学校が大好きだ、みんなが普通の高校生活を楽しんでいて、みんなが弁えてる。弁えられていないのは、私だけだった。そう思うと途端に恥ずかしくなってくる。既に泣きそうなのをどうにかこらえて、階段を登った。

「…で、どうしましたか」
 辿り着いた踊り場で、振り返った一織がため息混じりでそう聞いた。
「……」
「酷い顔ですよ。誰かに何か言われました?」
「え…」
「そういう可能性があることは初めから危惧してましたし、私たち、特にトラブルも無かったので、それくらいしか思いつかないんですけど」
「ま、まだ何も言ってない…」
「見たら分かりますよ」
 チェーンで括られた重たい扉の前、少し開けた空間で、一織が静かに声を出す。昼休みの喧騒が遠くに聞こえる中で、お腹が痛くなるほど緊張している。

「学校の子達は、何も言わないよ…みんなそっとしておいてくれてる」
「…じゃあ」
「…ごめん、私、何も考えてなかった。一織と付き合えるとか、初めから考えてなくて、ただ好きなだけだったの」
「は…?」

 怪訝そうな顔をした一織が、一歩こちらに詰め寄った。それに気付いて、一歩下がる。拒絶したような態度に驚いたのか、彼が息を詰めたのが分かった。

「分かりませんよ、それじゃあ。何があって、誰に何て言われたんですか」
「誰にも何も…ちょっと、SNS見ちゃった。ファンの人の」
「……ああ」
「アイドルの一織のこと好きになったんじゃないけど、私にとって一織は一織なのに、みんなにとっての一織はそうじゃなくて……」
「……」
「わたしは、アイドルの一織にとって、居ない方がいいんじゃないかな」


 そう言った彼女は俯いて、私の言葉を待っていた。
 馬鹿な人だ。そうですね。と言えば傷つくくせに、そんなことないです。と言ったって信じないんだろう。
 とりあえず言えるのは、早めに打ち明けてくれたことについての賞賛だろうか。思い悩んで、溜め込んでからヒステリックに別れを突きつけられることだって人によってはあるだろう。そうではなく、きちんと話をする機会を設けてくれた彼女に対して、いい子ですねと手が伸びそうになる。
 私自身、こんなに好きになるとは思っていなかった。
 
 恋愛くらいしておいた方が、今後の役に立つかもしれない。四葉さんが恋愛ドラマに抜擢されたのを見て、自分にもいつそういったものが来るか分からないと感じた。今のままだって求められていることを完璧に行える自負はあったけれど、演技において二階堂さんのように天才形ではない自分は、多少経験があった方がいいのでは無いか。業界人はリスクが高い。それならば近場で、騒ぎ立てず、私たちのような人間に慣れている学校の人が適任だろう。最初はそんな動機で、たまに周りを見渡していただけだった。
 学校内で想いを打ち明けられることは少なくない。いざ恋愛をしてみようと思っていても、なかなかそれに対して頷くことは出来ないまま時間が経って、別に焦ることもないかと思い直していた頃だ。
「いおりん。何あれ」
「ああ、Tシャツの投票ですね。一般販売の」
 翌月に控えた体育祭。そのクラスTシャツの一般販売が行われることになったらしい。ただ、その販売は投票で一位になったクラスの分のみに限られるという。プライバシー保護のため、名前は一切入っておらず、デザインだけが生徒たちによって決められたものだった。私たちのクラスのTシャツは、他のクラスよりも群を抜いて票数を集めていたことを知っている。
 ライブグッズのようなものか。校外のファンは私たちと同じものが欲しいに決まっている。自分のクラスに票が入っている様を、半ば当然のような気持ちで眺めていた。
「すげえ票入ってんな。なんでうちのクラスじゃねえのに、うちのクラスTシャツいんの?」
「四葉さんあなた、それ外で言ったら駄目ですよ」
 渡り廊下の真ん中で開票されていたその先に、四葉さんのお目当ての自販機があった。真っ直ぐ歩いていく四葉さんについて歩いていると少し先にうちのクラスの女子がいるのが見える。彼女達の所感には差程興味もなく、通り過ぎようとしたけれど、会話の内容は嫌でも聞こえてくる。ふと顔を見た人は、心底不思議そうな顔をしていた。
「なんでうちのクラスだけこんな票入るの?そんな可愛い?」
「あんたまじ?和泉と環といすみんいるからでしょ」
「あっ」
 彼女は友人の方へと顔を向け、気恥ずかしそうに笑った。
「そうだった。分かってるけどさ、毎日一緒にいると忘れちゃうよね」
 楽しそうな笑い声がこちらまで聞こえてきて、なんだか少し、胸がくすぐられたような気がした。笑っていたその人は、修学旅行などで何かと同じ班になったりすることが多いクラスメイトだ。別にこれで好きになったなんてそんな単純なことは言わない。けれど、「一織、四葉、亥清くん!」といつも私たちを楽しそうに呼ぶ声を思い出した。あれは特別な私達ではなく、十七歳のただの私達に向けた笑顔だったのかと思うと、なんだか可愛らしく思う。
 自分がもし、恋をしてみるのなら。まだ想像も出来ないけれど、この人だったらいい。そう思ったのは、けして恋なんかじゃない。
 だけど、そんな自制心が利くものじゃないことをすぐに知った。なんとなく目につく。楽しそうな声が聞こえると思って見れば、必ず彼女がそこにいる。誰かが彼女を呼ぶ声に、何となく聞き耳を立ててしまう。そうなってくると、自分でもあまり否定出来なくなってくる。

 十月、暑さもおさまってきた来た頃に行われる体育祭は、二日間に分けて開催された。一日目は生徒と保護者のみ、クラス対抗で点数を競って行われる。二日目は一般公開もされるため、見世物競技が多い。
 生徒達の気合いはもっぱら一日目に集中していた。この後の二人三脚に出番を控えた私へ、クラスメイトが何人か応援の言葉をかけてくる。そこへ、彼女が走ってやって来た。
「一織!一織は知らないだろうけど、去年うちのクラス負けてるの。今年はみんな勝ちたいと思うから、よろしくね!」
「私に言われても困りますよ。花形の男子四百メートルは亥清さんでしょう」
「二人三脚はポイントが高いの!たのんだ!」
「いっ……」
 叩かれた背中がいつまでも熱い。そして、その面積がずいぶんと小さく感じるのがきっと気の所為じゃないことが、なんというか。
「いおりーん。そろそろ足結ぶ?…どしたん、りっくんでもいた?」
「いるわけないでしょう。なんですか」
「いや、りっくんが可愛い時の顔してたから」
「し、してませんよ!」 

 ――
 
 パン!
 乾いた空気をつんざくような音とともに、私の肩を抱いた四葉さんが飛び出した。左足首を引っ張る痛みを耐えながら、二人三脚で前進する。右足は反射的に前に出され、周囲からはまるでライブ会場さながらの歓声が聞こえてきた。
「ッ……四葉さん!掛け声!」
「いおりん感覚で付いてこい!いちに!いちに!」
「無理があるでしょう……!」
 雄叫びを上げながら走る四葉さんの横を必死になってついて行く。もつれそうになる足を動かして、それでもリーチでは敵わない。前につんのめって、倒れそうになった時。
 沢山呼ばれる自分の名前の中から、彼女の声だけがはっきりと聞こえた。
「……ッ」
「いちに!いちに!おおすげえいおりん、立て直したな!」
「ええ、諸事情で…ッ負けられなくなったので…!」
 どちらかと言うと、火事場の馬鹿力と言うんでしょうね。けれど、それを恋の力だと言ってみてもいいかもしれないと思ってしまったこと、そんなことは本当に、彼女は一生知らなくていいんですけど。



 そして、恋をしておいた方がいいと思ったのは、おそらく正解だった。だけど、もっと早く学んでおくべきだった。こんなとき、泣いている好きな人を慰めるうまい言葉のひとつも出てこない。何も言わない私に不安を覚えたのか、彼女が顔を上げる。その顔を見て、やっと口を開いた。

「…そんなことは」
「……無くないよね?」
「…確かに、無くはないです」
「……」

 
 自分から、私の存在が邪魔じゃないかどうかを聞いておいて、結局一織にそう言われてしまって傷つくなんて馬鹿なことをしている自覚はあった。だったらどうして付き合ってくれるなんて言ったの、と彼を責め立てたくもなる。
 だけどそれ以上に、幸せだった。何度も隠れて繋いだ手に、もう二度と触れられなくなったとしても、あの時間を無かったら良かったなんて私には到底思えない。
 それなら最後くらい、笑ってお別れと、ありがとうを言おう。
 そう、彼の顔を見て、その顔があまりにも不機嫌そうで、思わず声が出た。
「え?」
「あの、舐めないで貰えますか」
「え?」
 不機嫌を通り越して少し怒っているようにも見える。腕を組み、こちらを見下ろす一織の姿勢からは、明らかに何か物申したそうな様子が伝わってきた。

「…私なら、アイドリッシュセブンのメンバーとして、メンバーやマネージャーを支えながら学業も両立できますし、その中で、あなたの彼氏だって完璧にやってみせます」
「……」
「普通の人よりは、制限されることもあるでしょうし、…あなたが見たSNSの内容は知りませんけど、想像はつきますよ。そうやって、色々と詮索されることもあると思います。ただ、少なくとも相手が私なら、上手く切り抜けられるようサポート出来ます」
「あ、わ、私の事までサポートしてくれるの…」
「当たり前ですよ」
「………」

 彼の言い分はめちゃくちゃだ。だけど、私の事が邪魔になることは、一織の中で初めから想定内。考えてみれば、あの一織が何も考えなしでこんな大切なことを決める訳がなかったのかもしれない。

「…あなたが」
「…ん?」
「あなたが好きだと思って下さったのは、きっとただの私ですよね」
「…うん」
「アイドリッシュセブンの和泉一織は、嫌いですか」
「…えぇ?」
「ああこいつ、アイドルなんだなと実感してしまって、幻滅しましたか」
「しないよ、しない」
 突然言われた言葉と、初めて見る自信を無くしたような一織に思わず声が上がる。不満に不安が混じったような彼の顔を見ながら、自分がしてきた恋を思い出す。
 例えば、全校朝会の帰り道。体育の後の現国の授業。こんなの、上げだしたらキリがない。私の高校生の色んなところに、一織のことを好きだった気持ちが混ざって、きっといつになって思い返してもときめくような思い出になっている。
 
「私が、好きになったのは…四葉の後ろ歩きながら、四葉の制服についてるうさぎの毛、いちいち取ってあげてる一織とか、…授業中、すごい眠そうにしながら目が覚めるツボ押してる一織とか」
「ちょ…」
「走るの、四葉よりは遅いし足の長さも違うのに…っ二人三脚で絶対転ばずに頑張って、い、一位取ってくる一織とかっ」
「ちょっと」
「わ、私が好きになったの、そういう一織だもん……っ」
「泣いてるとこすみません、ちょっとディスりましたよね!」
「う~~~~っわたし、一織が、一織が好き…」
「ああもう、…ほら」

 一織の手が伸びてくるのを待っていた。広げられた腕の中へ誘われるように、すっぽりと閉じ込められに行く。前回のただ近くに寄り添うようなハグとは違う。すぐに背中へ腕が回されて、ちゃんと一織の体温と力強さを感じる。

「…じゃあ、いいじゃないですか」

 そう言って、大きな手で撫でられながら、私も広い背中へ手を伸ばした。何も解決したわけじゃない。だけど、他の誰でもない一織がそう言ってくれる。それだけで、何万人のファンに認められるよりもずっとずっと心強かった。


 恋人同士の抱き合いらしかったものは、次第に兄が妹を慰めるようなものに変わった。いつまでもぐずぐずと泣く私を、初めは優しく、最後の方はだいぶ適当にあやしながら、それでもたまに頭に乗せられた手がぽんぽん、と動いたりするのが好きで、中々離れられなかった。
 
「泣きやみました?」
「……ん」
「戻りますよ、もう昼休み終わるんで」
「はい……」
 泣き止んだばかりの私と違って、しばらくの間無心で私をあやしていたのだろう一織はスタスタと歩き出した。とんとんと階段を降りながら、私の数歩先にいた一織がふと振り返る。
 何かまだ、あっただろうか。
 段差で出来ていた身長差を埋めるように、何歩か戻ってきた真顔の一織がちょうど目の前まで来て、近づいた。もう当たり前のように肩に触れた手が、少しだけ私の体を前に引く。
「え…っ」
「…黙って」
 触れる直前、そう言われた。驚く暇もほとんどないほどスマートに重なった唇は想像の何倍も柔らかくて、それに一番驚いた。

「……」
「っ、な、に…」
「何って、キスですけど」
「そうじゃなくて…」
「いけませんか」
「…いけなくないけど、突然過ぎて、よく覚えてない…」
 目の前の彼の顔を伺うように見れば、胸を抑えて何やらダメージを受けていた。べつにからかっている訳じゃないけれど、初めてだったから。ちゃんと覚えていたい。

「…あなた、そういうところありますよね…」
「どういう?」
「いいです、もう。…宣言すればいいですか」
「え?」
「…ほら、目閉じて」

 手のひらが頬に触れる。好きだと思ってくれていることが言葉にされなくても分かる真剣な目。
 そんなふうに見つめられたら目を閉じてしまうのが勿体ない。なんて、思いながら瞼を閉じた。
 ゆっくりと鼻先から触れ合っていくのを感じながら、今度はちゃんと、一織の肩に手を置いた。






 
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