あいのお薬



 雨で濡れたアスファルトがたてる湿気った音で目を覚ます。その瞬間、側頭部を内側から殴られたような痛みでぐるんと目が回った。打ち付けられたような衝撃は物理的なものではなくても、起き抜けの脳はまるでそれを外的刺激かのように感じ取り、狂った自律神経が吐き気を促した。伸ばした手が上手くものを掴めずガタンと大きな音を立てて何かが落ちる。それは私の耳をつんざいて、嫌がるように瞼が勝手に閉じていく。手の感覚だけでベッドサイドの引き出しからビニール袋を取りだして、空っぽの胃から吐けるだけ何かを吐いた。
 隣に彼が居ることを忘れていた訳では無いけれど、温かな手のひらがそっと背に触れるまで気にすることも出来ない。言いようもなく体調が悪い朝のことだった。

「……ッごめ、てん…」
「大丈夫、吐ききって。どこが痛い?」
「あ、たま」
「分かった」

 刺激のない柔らかな声が、安心させるように静かに空気を震わせる。彼だって、朝は強くない方だ。朝イチからこんなにしっかり話してくれることなんてほとんどない。むしろこの時間のふにゃふにゃと覚束無い天を見るのが私の楽しみでもあったのに、彼はきちんとした足取りでキッチンに向かい、氷枕と、薬と水を持って戻ってきた。

「薬飲める?」
「ん……」
「飲んだら横になっていいから、…つらいね、大丈夫だよ」
「ごめ、ぅ……」
「…気持ち悪いね、大丈夫、大丈夫」

 頭が、とにかく割れるほど痛かった。生理痛と、気候の変動と、偏頭痛がまとめてやってきてしまったのだと思う。そのひとつひとつでもかなりつらいものだというのに、月の終わりにこんなふうになることが私は稀にあった。
 荒い息を震えるように吐き出して、引きつけるように吸う。その度に天の手のひらは私の背中を優しく撫でた。

「頭、冷やすよ」
「ん…」
「お腹痛い?」
「うん…」
「カイロ、まだ温まってないけど、とりあえず入れて」
「…天、ごめんね」
「……キミが謝るところがどこにあるの」

 だってせっかくのオフなのに、こんな状態の人間と居てどこが休まるというのだろう。雨予報なのは知っていた。晴れでも雨でも家の中で過ごすのは変わらないから、体調のことまで気が回らなかった。せっかく一緒に居られる日に、彼に何をさせているんだろう。手馴れた様子からも分かるように、これが初めてのことでは無い。こんなことがしょっちゅうある人間に、付き合わせるのが申し訳ない。体調の悪さは、思考までもそんなふうに良くない方向へ影響する。

「ッ……」
「気持ち悪いね、吐き気止め飲もうか」
「…ん」
「頭痛薬は…あとにする?」
「……いま飲む、ごめん」
「ううん」

 何も出すものが無いのにえずき続ける体。堪らずにふらつけば、動かすだけで頭に響いた。支えるようにベッドへ付いた左腕は震えて今にも崩れそうで、それを見ていた天は私の左側へと座り、なるべく揺らさないよう優しく胸へと寄りかかるように引き寄せた。

「ゆっくりでいいよ」
「…うん」

 水を含むために顔を上へ傾けるのも、パキンと薬を出す音でさえもつらい。人間の体は不思議なもので、どこかひとつが痛んでいるとほかの痛みには気が付きづらいという。それなのに、ズキン、ズキンと痛む頭の拍動の合間に、ギリギリと痛む子宮の収縮がハッキリとわかった。つまりもう、どこもかしこも痛くてつらくて、ごくんと飲み込んだ薬が胃の中で溶け出すまで吐かずに居られるかも不安で、どうしようもなく涙が滲む。そんな情緒不安定な状態を見られたくないと思うのは、体調不良とは関係の無い可愛い乙女心だ。
 細く長く息を吐いて、静かにグラスを置く。天によりかかって細い腰に抱きつくと、落ち着かせるように優しく手のひらが体を撫でた。

「…………」
「横になろう?その方が楽でしょう」
「…っや」
「嫌なの?」
「……ごめん、大丈夫、横になる、ね」

 離れたくなくて、反射的に出てしまった言葉を痛烈に後悔した。ここまでしてもらって、これ以上の迷惑なんてかけられない、かけたくない。彼のお腹に手をついて、少し距離をとる。置いてくれた氷枕に顔を押し付けて、広がった血管が元に戻るのを切に願った。

「…キミが楽な体勢でいいよ、お腹痛いならあっためてあげる。ここ、入ってもいい?」
 横になった私の隣へ天がもう一度寝転んだ。
「え…」
「ボク、居ない方がいい?」
「ううん…でも、オフなのに」
「オフだから、でしょ。いつもひとりで頑張ってるんだから、今日くらい甘えて」
「……」
「…泣かないの、もっと痛くなるよ」

 優しい言葉に目頭が熱くなったのは目ざとく見つけられてしまう。仕方なさそうに天は笑って、足を絡めてお腹をくっつける。ここであってる?と言いたげな顔は可愛くて、やっと少し笑みがこぼれた。

「…ありがとう、でもあんまり近寄らないで、吐いたから」
「ほとんど何も出てないし、その後水飲んでたでしょ」
「でも」
「余計なこと考えなくていいから、目閉じて」

 眠れるわけでもなかったけれど、言われた通りに目を閉じる。一定のリズム、同じ強さで痛み続ける側頭部と、そのレベルに波のある腹痛。大きな波がやってくると、耐えきれずに喘ぐように声が漏れた。

「つらいね、ごめん」
「…なん、で」
「……変わってあげられなくて、ごめん」

 大切そうに触れる手のひらから伝わる熱が、痛みを解いていくように優しく染み渡る。それなのに、何故だかまたどうしようもなく泣きたくなった。
『変わってあげられなくてごめん』
 その言葉に、気持ちに、どれだけの意味が込められているのか。あの年季の入った手際のいい介護を見ていれば、こんなに痛む頭でも理解出来てしまう。震える私の体調の変化を、一瞬も見逃さないようにと見守る彼が、悲しい日のことを思い出していたらいやだ。
 天の胸板にこつんとおでこを擦り寄せる。

「……?大丈夫?」
「三十分だけ、そしたら、治るから」
「いいよ、ずっとこうしてて」
「…だめ、今日映画見るって言ったのに」
「くっついて見ればいいよ。寝っ転がりながらポップコーン食べてもいいよ。今日は、許してあげる」
「……だめだよ」
「痛いのなくなっても、それ、薬が効いてるだけだから。キミにバレないように、身体は頑張ってるままなんだからね」
「……」
「ああしてこうしてって言ってくれる分、陸の方がよっぽどわかりやすい」
「……だって」
「どうして隠しちゃうの。言ったでしょ、甘えてって。キミがいろいろ考え込んで、出来ないって言うなら、無理矢理にでもさせるからね」

 頭に響かないよう優しかった声に、少しの厳しさが混じる。胸元のパジャマを握りこんで、もう顔はあげられなかった。一生懸命隠したけれど、肩が震え出したことに、きっとすぐに気が付かれてしまったんだと思う。
「キミが自分にできない分、ボクに大事にさせて」
 だってその声が本当に、慈愛で満ち溢れていた。
 優しく抱きしめられ、頭のてっぺんに唇が触れる気配がした。とん、とん、とあやされているうちに、瞼が降りていく。あんなに不安だったのに、天の香りしかしない空間で、天の身体の温かさだけを感じていると、身体の力が抜けていった。
 大事そうに触れる唇と、大切そうに撫でる指先が、思い違いや、誰かの姿を重ねていた訳じゃないんだと、言われなきゃ分からない私に一つ一つ教えてくれる。
 私なんかよりよっぽど、私の可愛がり方を知っている人。触れた部分から魔法にかかるように痛みが引いていくのは、溶けだしたばかりの薬のおかげか、それとも――
 






Tenn Side


 すんすんとボクの胸で泣いていた彼女は、そのまま落ちるように眠ってしまった。その瞬間、すとんと全身の力が抜けるのが分かって、自分が緊張していたことに気がついた。

「…良かった」

 これできっと、目が覚める頃には薬も効いているはず。どこもかしこも痛くて、痛みで嘔吐するなんて状態では無くなる。頭痛や嘔吐のつらさは理解出来ても、ボクには無い臓器が痛むつらさは想像するしかなくて、それが本当に歯がゆかった。
 つらいんでしょ、痛くて泣きそうなんでしょ。それならもっと我儘を言えばいいのに。喚いて、いらいらして、なんで私ばっかりって言ったっていいのに。謝ってばかりで今日の予定すら気にする彼女に、ボクの方が少しだけ苛立ちに似たものを感じていたことは言えない。

「ボクってそんなに怖いかな」

 もちろん、弱った頭で感傷的だったんだろうことは分かる。だけどボクが彼女にとって、手放しで頼り切るのは難しい相手なのは事実なわけで。

「…………」

 いや、ボクだって弱ってたら、相手の休みを使って付きっきりで介抱されるのは申し訳ないと思うよ。それだけの事……
 ――――いや、気に入らないな。
 なんかすごく気に入らない。今までこんな時、ボクは大抵仕事があって、どうしても彼女を一人にしなきゃいけなかった。ボクはそれが申し訳ないと思っていたけれど、もしかしてむしろその方が身体が休まるとか無いよね。
 陸の可愛い我儘をきいてきたツケが回っている。多分彼女の反応が普通なんだ。それどころか、一番我儘だったのは自分だったんじゃないかとすら思い始めている。ボクに出来ることが余りにもないから、歌ったり、踊ったり、そんな役割を陸はボクにくれていたんじゃないか。

「……はぁ」

 やめよう、こんなの考えたって今更仕方ない。とにかく目の前の女の子が夢から醒めたあと、今日を楽しく過ごせる方法を考えよう。本当は別に、目を覚ましたあともずっとこうしていたっていいんだけど。それだときっと彼女は気にするだろうから。ボクの我儘を聞いてもらうかたちでこの子を甘やかす。ちょっと悪いことして遊ぼう、なんて誘えば笑ってくれるかな。
 ボクの考える素敵な休日を教えてあげようか。キミを後ろから抱き締めて、ベッドから手の届くところに必要なもの全部持ってきて、たいして見るつもりもない映画をかけながらキミの口にポップコーンを放り込む。誰もボクらを叱ったりなんてしないけれど、今日だけ特別ねなんて肩を竦ませながら。そうしてたまに、笑いあってキスをしよう。
 


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