ああ、失敗した。
夜九時、マンションについて自分の部屋の鍵を回し、その扉に手を掛けて引いた。その瞬間、なんて愚かなんだろうかと自分を呪った。恐ろしい暗雲が立ち込めたような気配から逃れるように、すぐさま扉を元通りに閉めて鍵をかけ直す。
そしてそのまま隣に四歩、助けを求めて私は棗さんの家のベルを鳴らした。
「…別にいいですけど、驚くのでもっと普通に入ってきてくださいますか」
「すみません…」
「それで、冷やしてきたんですか?」
「え」
「お部屋」
「……あ!!」
そう、いつもなら朝、家を出る際には必ず帰宅時間の少し前にセットをしたエアコンのタイマーを付けて出て行く。帰宅した瞬間、ドアを開けた瞬間に待っていたかのように心地いい空気に迎えられるあの瞬間が好きだ。ただいま私、おかえり私、今日も頑張ったねと言いたくなる。
そのタイマーを今日、セットし忘れたまま出ていってしまった。自室のドアを開けた瞬間の空気と言えば最悪だった。言うなれば、常温を外気温にさらされた鉄骨で煮詰めた状態だ。むわりとまとわりつく、部屋の奥にとぐろを巻いた大蛇でも居座っているかのような息苦しさ。それに堪らず、いつ来たって快適なこの部屋に雪崩れ込むように突撃した。
「棗さん、無理です、入れてください……!」
「っ、は?」
何事かと飛び出して来てくれた棗さんを押入るようにして廊下を駆け抜け、ヒヤリと冷たいガラステーブルに突っ伏した。そこは冷房が直風で当たることも把握済みだ。説明してくださいと少し背筋が冷えそうな笑顔で近づいてくる棗さんへ事の顛末を説明しながら気が付いた。私はまた、失敗を重ねてしまっている。現在進行形で。
「…スイッチ、入れてくるべきでした」
「逃げ足の速さが仇になりましたね」
アイスコーヒーを手渡しながら、棗さんが笑う。
幸い今日は金曜日、このまま一晩ここでお世話になって、私の部屋が短夜の涼しさを溜め込んでいくらかマシになった頃に帰ろうか。それともこのまま土日、一緒に居られたりするだろうか。図らずも会えたことにやっとのことで嬉しさが滲み出てくる。このまま泊まって行っちゃおうかなんて図々しい考えだって、目配せひとつで棗さんにはもう伝わってしまう。
「…とりあえず、おかえりなさい。お風呂入ってきたらどうですか」
「はい、すみません。じゃあお言葉に甘えて」
振り返った先、アイボリーのチェストの右下には、私の服が入っている。そこを漁って寝間着を取り出してから、棗さんの横を通り過ぎようとした。
「……え?」
ぱしん。棗さんの温い手のひらが、私の手首にまとわりついた。絶対に振り解けない、その場に縛り付けるような、そんな掴み方だったから思わず声が出た。
「棗さん?」
「…出てきたら、お話があります」
「え……」
「はい、行ってらっしゃい」
するりと解放されて、その手のひらで背中を押される。そこから先はもう、ぼんやりとしていて、シャンプーを二回したような気がしたし、コンディショナーはちゃんと流せていたかよく分からない。何とか湯船に入っても、頭の中はまとまらないまま、居てもたってもいられずにすぐに立ち上がった。
どうしてもすぐに頭を過ぎってしまうのはお別れについてだ。そんなこと、無いって分かっている。彼に大切にされていることは、私自身がこの世の誰よりも分かっている。棗さんは自分に関するいい話はあっけらかんとしてする。特に勿体つけないし、本人は至ってどうでも良さそうだ。そして私にも関係するいい話は悪戯にほんの少しだけ隠す。私が見つけ出して喜ぶのを見て、やっと棗さんも笑うのだ。今回は、そのどれとも違う。だとしたらなにかもっと、良くない話。
ドライヤーもそこそこに、リビングのドアを開ける。ソファに座っていた棗さんは私を振り返り、ふわりと香りがたちこめそうな程に優しく笑った。それでも、先程受け取ったアイスコーヒーはガラステーブルの上で、私の気持ちを代弁するかのように汗をかいていた。
「お風呂、ありがとうございました…」
「いいえ、ゆっくり出来ました?」
「ゆっくり、は、ちょっと」
「なにかありました?」
「い、いや、棗さんが…」
まだ生乾きの髪に指を通して、棗さんが私を見た。
「気になって、ちゃんと乾かせなかったんですか?」
「ちゃんと洗えたかもわからないですよ…」
「あら、私が洗いに行って差しあげた方が良かったですね」
「そんな、棗さんが居ないと何も出来ない人間にさせないでください」
「……」
「棗さん?」
隣に座って彼のいつもの冗談に笑って返す私を、棗さんは真剣な瞳でじっと見つめてから口を開いた。
「それなんですよ」
なんの事だと言う前に、棗さんは私に向き合うように座り直した。つられるように私も彼に向き合う。それはこの一年と少しの間に自然と身についた、雑談なんかじゃなくきちんとした、お互いの大切な話をする時のスタイルだ。私は、自分でも気が付かないうちに彼がいないと駄目な人間になってしまっていただろうか。そんな心のもやをふっと扇いで晴らすように、棗さんは微笑んで、小さな口を開いた。
「私は、ほとんど全ての初めてを私に寄越して、それでも私に依存せず、自立されてるあなたのことが好きです。でも」
初めは、道端で震えていただけの私を、見つけて、助けてくれた人。
「私が見ていないところで、息が詰まるような思いで、生きづらさを感じているのは…今も変わらないでしょう」
そんな私に気が付いて、無理に立ち上がらせることも、泣いた私に呆れることもなく、ただ寄り添って優しく笑ってくれた人。
「言わないだけで、怖いこと。毎日、まだまだたくさんありますよね」
「……」
「耐えて、飲み込んで。笑ってるあなたを、一番傍で甘やかしたいんです。私」
そんな人にここまで言われて、それでこの後に続く言葉を、私が断るわけが無いというのに。それでもどうしてか、棗さんの瞳は不安そうに揺れながら、私の事だけを真っ直ぐに映した。
「お隣さん、やめたいです」
棗さんの言葉はいつにも増してひとつひとつ区切られ、言葉の端々に込められた深い思いに気づかせるよう、繊細に言い回しを選んでいるのが分かった。
「一緒の部屋で、暮らしませんか」
私はどうにも頭が悪くて、こんな時、心で感じていることを上手に言葉で表現出来ない。だけど、耐えられないほど怖いことも、そんな自分が嫌で震えて眠る夜だって、その壁の向こう側に、心の中に、あなたがいたから乗り越えられた。それは絶対に、本当なんだ。
目の前の身体にもたれるように抱きついた。支えるように優しく回される腕が、いつもより力強い。
「…私、欲張りなんです。あなたの全部を貰ったのに、まだ足りないんです。嫌だったら言って、ずっと傍にいて欲しいって、迷惑ですか」
「迷惑だったら、何もあげてませんし、…あげられてません」
ふいに、初めての日を思い出して顔が見られなくなった。この状態はきっと、あの日と逆だ。私たちは多分、お互いに本音混じりの我儘を言うのが少し苦手だ。結局どうにもならなくなって、こうやって少しだけ、強行突破みたいな形になる。
似ている所が見つかるのが愛おしいなんて初めて知った。棗さんは私から貰ったと言うけれど、私だって棗さんに貰ってばかりだ。
例えばキスは、頬に手を添えて目線を合わせて、ゆっくりと唇を合わせる。そんな少女漫画のようなキスじゃなくたっていい。したいと思った時、こんなふうにいきなり唇を寄せたって応えてくれる。受け入れてもらえる嬉しさは、棗さんから貰えるものの一つだ。
「……いきなりですね」
棗さんは仕方なさそうに、愛おしそうに笑う。
「まだあげられるもの、ありますか?棗さんになら、なんでもあげたいです」
「…ありますよ」
傾げた首元へ髪の毛がかかるのが色っぽいと思った。
脳に直接話しかけられているんじゃないかと思うような、彼の囁く声が好きだ。
いつでも少し眠たそうに見える、広めの二重が閉じられて、薄い唇が触れ合った。そこから先は、私も目を閉じていたから何も見えなかったけれど、彼の指の背はまるで猫を撫でるように、優しく薬指へ触れていた。