ある日の昼下がり。
いつものように私は棗さんのひっつき虫をしていた。カルガモの親子の方がそれっぽいかもしれない。とにかく、マグを持ってキッチンに向かった棗さんについて行く。
ずっと、話そうと思っていたことがあった。
だけどそれはぴったり横にくっついて座っている時には出来そうにもなかったから、少し距離のある今意を決して口を開く。
「棗さん、もうすぐ一年記念日です」
「あら。まだ一年でしたか。なんだかもっと長く居るように感じます」
「えへ、そうですね…って、そうではなくて…あの、」
言い淀む私ににこりと笑って、棗さんが続ける。
「記念日なんて、世情柄何もしたことありませんでしたね…そういうの、したい方でしたか?」
棗さんはくるくるとドリップコーヒーのおかわりを淹れながら、何処かへ行きましょうか、と落ち着いた声を出す。私はオープンキッチンのカウンター越しにぐいと体を乗り出して、どうにか今コーヒーに夢中な棗さんの視界に入ろうとした。
「そうではなくて、その…そうでは無いんですが、やっぱり節目なので、ですね?」
「はい」
「そろそろ、先に進みませんか」
ぼやかして言ったつもりのそれは意外にもそれ以外の意味を持たずにきちんと伝わって、さすがの棗さんも驚いたのかやっとコーヒーから目線を上げて私を見つめて、そのまま黙ってしまった。
そりゃもちろん、今日すぐにという話ではないけれど、私としてはもういい加減棗さんにばかり我慢をさせているこの状況を良くないとずっと感じていて。だから棗さんさえ嫌でなければ、どうですか。そういう旨のことを早口に言いきった。
「……お気持ちは大変嬉しいです」
「……はい」
「ただ、しなければいけないだとか、私に悪いからだとか。そういう気持ちで仰ってるならお断りします」
「なつめさ、」
「はい、この話は終わりです」
ぽちゃん、とドリップコーヒーの最後の1滴がカップの水面を揺らした時、棗さんがぱちんと手を叩いた。
二の句を告げない私と、さっさとゴミを片付ける棗さん。
棗さんがこんなふうに拒絶するのは初めてのことで、もしかしたら少し怒らせたかもしれないと思った。
それから、いつもの日常が続いている。
したくないという訳では無いと信じたい。棗さんは中性的だけれど、そういう欲がない訳では無いということを私は何度か体感しているし、とどのつまり、これは私の言い方が悪かったということに尽きるだろう。
「…あれじゃまるで、棗さんがしたいならどうぞ、みたいな…責任転嫁もいいとこだよね…」
ひとりの自室で、定位置になっていた場所に小さくなって座る。背中をつけた壁越しには棗さんの家のテレビがあって、振り返ったその壁越しに彼を感じるのが好きだったけれど、今はなんだか視線が痛い気がした。
その次の週末、いつも通り仕事終わりに棗さんの家に立ち寄る。棗さんは仕事をひと段落させて、ソファに座って本を読んでいた。
「おかえりなさい」
「ただいま?…お邪魔します、ですね」
「ただいまでいいですよ」
そんな話をする時の棗さんは、柔らかくて大好きな顔で笑う。それがくすぐったくて、つられて笑ってしまうのが幸せだった。
あの話から、別に今日が初めて会うわけではない。
それは置いておいて、せっかくの一年記念日はどこかホテルにでも泊まろうかという話もした。
カップルで泊まるホテルなんて私には想像もつかないし特に希望もないことをお伝えしたら、じゃあ一緒に選びましょうと言われ、いろいろと棗さんに任せてしまっている。
「ホテルの候補、沢山送ってもらってありがとうございました」
「いえ。実は私もそこまで詳しくないので、御堂さんにおすすめを聞いたらあのリストが2分で送られてきてちょっと引きました」
「ふふ、御堂さん御用達なら安心です」
「少し癪ですが、サービスは期待できそうですよ」
御堂さんが言うなら間違いはないだろう。でもなんだか、御堂さんおすすめのホテルに2人で泊まるのは少し照れくさいような気がした。
少し話したことがあるだけだけれど、棗さんと御堂さんの仲を想像するに、多かれ少なかれ棗さんがそういう話題で冷やかされたりしていそうだ。
だからという訳じゃないけれど、やっぱり前回のことは謝らないと、いよいよ何もして貰えない気がする。
あの言い方は無かったと、私なりに反省したことを伝えたくて、隣に座って向き直った。
「棗さんごめんなさい、前回のあれは…その、狡い言い方でした」
棗さんを信じてない訳じゃないけれど、本当は彼に見限られたくないとか、そういう自分のエゴだって含まれているくせに。棗さんのためにとか棗さんがしたいだろうからとか、大事な部分を全部、棗さんのせいにしてしまった。
「いいから、そもそも怒ってませんよ?」
棗さんは読んでいた本をぱたんと閉じて、そばに置いてくれた。大切な話の時には必ずこうして向き合ってくれる人だということを、私は彼と付き合ってすぐに知った。
そう思うと、あの日コーヒーを入れながら話した内容は、余程彼にとってそれ以上話したくない内容だったのかもしれない。
「あれ以上話を続けたら、悪い私がこれ幸いと貴方に手を出しそうで恐ろしかったので、切り上げただけですので」
「そうして欲しいって言ってるんですってば!」
「どういう事をするのか本当に分かってます?」
「分かってる、つもりです。友達の話とか…漫画とかで」
「漫画や人伝に聞いたそれに、私のしたいことは書かれてないです」
「………はい、」
棗さんの言うことはわかる。だけど棗さんのしたいことなんて、棗さんから知るしか方法が無い。
いくら想像してみたって、それは私が知っている範囲の棗さんがやりそうなことをなぞっているだけだ。
「それは、そうです。だからそれを知りたいって、思うようになったんです。私が」
「………」
「いけませんか、」
「………はぁ」
何を考えているのか分からない棗さんのため息が聞こえて、私の体が思考回路を介さずに動いた。ほとんど無意識に棗さんの腕をがっしりと掴んで、立ち上がる。
「っ、なんですか?」
「もう、来てください!」
寝室に入る直前、何かを察した棗さんが引かれている腕にグッと力を入れたけれど、全部無視して力任せに引っ張った。
突き飛ばすのも一気に押し倒すのも体格の差から無理だとわかっているので、棗さんを無理矢理ベッドに座らせて、恥を忍んでその上に乗りかかる。
そのまま体重をかけたら辛うじて棗さんが後ろに肘を着いて、一応は倒れ込むような形になった。
「っ、ちょっと」
「……一年、ですよ」
「……」
「この一年が私にとってどれだけ凄いことか、棗さんは分かってないです」
ちょうど一年前、彼と出会ったばかりの私は男の人がとにかくダメで、近付くだけで涙ぐんで呼吸もままならなかった。
「私がどういう人間だったかなんて、棗さんもよくご存知じゃないですか……」
「…そうですね、私と震えながら話してた貴方はあれで可愛かったですけど」
「そっ…それが今じゃ、こんなに密着してても、もうなんとも無いんですよ。…いや、ドキドキはしてますけど。もっとくっつきたいって思うんです」
「それは…」
嬉しいですけど、と棗さんが小さな声を出す。
彼の中で何がそんなに問題なのか分からないけれど、少なくともこの体が引き剥がされないのは、嫌ではないからだと思いたかった。
「……女の子にここまで言わせておいて、これで断られたら、……泣いちゃいますよ、いいんですか?」
「………狡い言い方ですね」
胸元で羞恥に震える私に、棗さんが唇を寄せる感覚がした。
そのまま抱きしめて欲しかったのに、体を押されて、棗さんが立ち上がる。
ああ、やっぱり駄目なのかと、惨めで、悲しくて、虚しくなりかけた時、棗さんの手のひらが頭に乗った。
撫でられると言うよりは、そのまま顔を上げるなとでも言うように抑えられているようだ。
「…………」
「…コンビニに行ってきます。」
「え…?」
「本当に、その気があるならこの部屋で待っていてください。気が変わったら自宅に戻って、戸締りをしっかりするように。じゃないと狼が入って来ますから」
「え、え…なん、」
「執行猶予を差し上げますと言ってるんです。…私も、必要なものを買ってくるので」
「あっ…」
そういう事か。
何もかも初めてなことに必死過ぎて、失念していた。というより、棗さんなら持ってるだろうと踏んでいたのだ。
なんだか本当に、する気無かったんだなぁと少し落ち込みながらも、一応言われた内容は私の意見に対する承諾だったので、素直に頷いた。
寝室の戸が閉まって、次いで玄関の扉が開く音が聞こえる。
必要なものがあるというのは本当だろうけれども。
一人になったら物凄いことをして、言ってしまったという後悔がどっとのしかかってきた。棗さんは嫌がっていたのに、強要させてしまっていないだろうか。
もちろん望んで言ったことだし、こちらの気持ちに嘘はないにしても、棗さん風に言えばあのまま流れで執行されていた方がどれだけ楽だったか。
そうやって、私が逃げ出す算段なのだろうけれど、その手には乗る気はなかった。
薄暗い寝室でひとり、この後どうやって出迎えたらいいのかを考える。まさか服を脱いでベッドに入って待ってるわけにもいかないし、気持ち的には床に正座でもしていたいところだけど、あまりにも場にそぐわない。リビングでテレビを見て待っているのもおかしな話なので、結局棗さんが出ていった時のまま、ベッドに座って彼の帰りを静かに待つことにした。必要な会話は、後から顔を見てすればいい。
──そう思っていたのに、再度玄関の扉が開く音がして、私はもう顔が上げられなくなってしまった。
棗さんの足音が近付いて、寝室の扉が開かれる。
俯いて座っている私は、彼にどう見えてるんだろう。
しばらく部屋の入口で立ち止まっていた棗さんが、ベッドサイドのテーブルに買ってきたものを取り出していく音がした。
棗さんは終始無言で、怒っているのか、その気がないのか、何を考えているのかやっぱり分からない。
ほんの少しだけ顔を上げて、棗さんが並べた物を眺める。
ペットボトルの水とお茶。それから…うわああああ。
堪らずに前髪の隙間から彼を見上げると、横目で見下ろす棗さんと視線が合った。
「ふっ、」
途端に、もう耐えきれないというように吹き出して、肩を震わせて笑う棗さん。
ねえ棗さん。私、どんな顔して待ってるのが正解だったんです。