棗さんとの関係がいくら上々とはいえ、まだ完全に男性恐怖症が治った訳では無いことは私が一番よく知っている。
それに他の男の人と仲良くなりたいと思うこともないし、日常生活が不便なのは変わらないけれど、棗さんだけ大丈夫ならそれでいいと思っていた。
だけど、棗さんのお友達となるとそれは少し違う。私に見せない対友人にする顔を見てみたいと思うのは恋人の性だ。
「私もお会いしてみたいなー、なんて。」
「…駄目です」
「御堂さん以外にも仲良しの方がいるの知ってるんですからね!」
偶に、一緒にいる時に電話がかかってきたり、連絡を取りあったりしている人が数人いるのを知っていた。
その内の一人は棗さんと同じように可愛らしい名前をしていて、着信を知らせたスマホの画面に表示された時は多少驚いた。
機械越しに聞こえた声で、その誤解はすぐに解けたけれど。
棗さんのお部屋でいつものように休日を過ごしていたその日、聞き馴染んだ電子音が鳴る方を見れば“ 亥清 悠 ”と表示された画面が見えた。その可愛らしい名前に面食らって、通話を始めた棗さんの「亥清さん?」という優しい声にまた驚いて。棗さんまさか、いやでもそんな、と固まっていた私を棗さんは横目で見下ろした。
なんとなく、離れた方がいいのかもしれないと少し悲しくなった気持ちを抑えて、棗さんの顔も見れずに側から離れようと踵を返したら長い腕が後ろからお腹に回されて、ぎゅっと抱きしめられる。
そんなことをされてしまえば、心臓ごと抱きしめられたみたいに胸が苦しくて、棗さんが後ろから私の頭に擦り寄ると「巳波、聞いてんの?」と聞こえてくるのは男の子の声。
「聞いてますよ」
「見てほしいデータあるから送った。時間ある?」
「期日があるものですか?」
「ない。オレが個人的に気になってるやつ」
その体勢で棗さんが話をしながら前に進むから、私も逆らえずに一緒に歩くことになってそのままソファに座った棗さんの上に跨るように腕を引かれた。
「あいにく今日は少し忙しいんです」
今日は1日私と居る予定しかないはずなのに、棗さんは大人しく上に乗った私の髪をくるくるといじりながら続ける。
「見たらすぐに連絡しますね。……ですから今日は忙しいんです、…はぁ、亥清さん。御堂さんの入れ知恵ですか?まったく、一度引っぱたいた方がいいですかねあの人。…はい、いえ、それじゃあ。」
通話終了のボタンが押されて、綺麗な瞳が私を見据えた。
「前にいた会社の後輩です。」
「…はい」
「何か勘違いされたかと思って、…違いましたか?」
「…違いません、です」
「亥清さんは男性です」
「そのようで…」
失礼な勘違いをしたうえに、確かめもせず側から離れようとしたことに少しの罪悪感があった。棗さんは私の拒絶に敏感だ。普段から、何か嫌なことや不安に思うことは隠さずに言うようにと私に何度も言っていた。自分は気が付く方だけど、私の気持ちが全部わかるわけではないからと。それは主に私の男性恐怖症のことについてだったけど、ここへ来て初めて、なんだか普通のカップルみたいに、相手の女性関係で嫉妬したような感じになってしまったのが恥ずかしい。
「すみ、ません。なんか、疑ったみたいになって…」
「私こそ、喜んでしまってすみません」
「え?」
「嫉妬されて嬉しくて、つい捕まえちゃいました」
「……!」
「全部顔に出てます。はあ、可愛い」
棗さんはそうやって私を甘やかす。ぎゅっと抱きしめて、何をしても可愛いと猫可愛がりだ。罪悪感や、恥ずかしかった気持ちは何処へやら、棗さんの胸の中でバクバクと鳴る心臓を押さえつけるのに必死になったのは、記憶に新しい。
そんなことがあって。
「棗さんがお友達の前でだけで見せる顔が見たいんです」
「嫌です...」
お友達の前では「追い出されたいんですか」だとか「引っぱたいた方がいいですかね」だなんて、天地がひっくりかえっても私には絶対に言わないだろう事をさらりと言ってのける棗さん。ギャップ萌えとも言うか、私に言ってほしい訳では無いけど、そんな棗さんも私はかなり好きだったりする。
「この間の亥清さんなんてどうでしょうか?声だけ聞く分にはそこまで怖いとは思わないような気がして…ご迷惑でしょうか、」
「亥清さんも貴方には興味津々なので、呼べば喜んで来るでしょうけど、嫌です。」
「そんなに嫌ですか?棗さんがお友達の前だと少し荒っぽい所があるのは知ってますし、幻滅なんてしないですよ!」
「そうではなくて……なんですかその顔」
「棗さんこの顔すると許してくれます」
「…貴方ねえ、」
何だか狡い手を使ってしまった気がしないでもないけれど、あれから結局棗さんは許してくれた。
*
「亥清さんは可愛らしい見た目ですけれど、思春期をこの歳までポケットに入れてきてしまったようなところがあるので言葉遣いなんかはきつく感じることもあるかもしれません。…いいですか、失礼とか気にしなくていいので、無理なら私の後ろに隠れていてくださいね。」
「…はい、大丈夫ですよ、」
「あんたとか言われますからね。」
「そのくらいもう平気ですよ」
「蕁麻疹の薬は持ってきてますか?もし呼吸がおかしくなるようなら落ち着いて言ってくださいよ?」
「ああもう、棗さんの方が落ち着いてください!」
そんなことを言って騒いでいると、部屋のインターホンが私達の会話を断つ。
「はーい!ああほら、棗さん、亥清さん来ましたよ!」
「はあ……」
今日は初孫の運動会か何かなのだろうかと言うくらいには、とにかく棗さんがソワソワと落ち着かなかった。自分より緊張している人がいると不思議と何ともない。むしろ頼むから亥清さん早く来てくれ、とさえ思い始めていたところに、ナイスなタイミングで到着の知らせが鳴った。
「はい!」
「…あ、亥清です」
「どうぞ!エレベーター上がって右側の505号室が棗さんの部屋です!」
「…どうも」
…ちょっと寡黙な方なのだろうか?
そんな第一印象は、ものの数時間で打ち砕かれることになる。
「初めまして。呼んでくれてありがと…」
「あら亥清さん、きちんとありがとうが言えて偉いですね」
「うるさいな、」
亥清さんが来てからというもの、私の側から離れようとしない点を除けば棗さんはいつも通りになった。
後輩の手前、やっぱりあの過保護おじいちゃんモードを発動させっぱなしというのは棗さんも思うところがあるのかもしれない。
彼の変わり身の速さに苦笑いをしていたらパチリと亥清さんと目が合った。猫目で瞳が大きくて、棗さんのように女性と見紛う事こそないけれど、なるほど棗さんが亥清さんは可愛らしいと言っていたのがよく分かる。
「…よろしくね。」
「はい、よろしくお願いします。今日は遠いところありがとうございます」
「ん。別にここ、そんな遠くないよ」
「そうなんですか?」
「こっから4駅くらい」
「え!じゃあここのお家も来たことありましたか?」
「ううん、巳波が駄目って言ってたから」
「え?」
「前に虎於が押しかけたことがあったでしょ、あれで完全に立ち入り禁止になった。」
「……あぁ」
「人の予定も都合も聞かずに押しかけるのはやめてくださいと言っただけですよ?」
「…そんな感じじゃなかったよね。あ、そうだこれ」
なんだか申し訳ないような複雑な気持ちになりながら、亥清さんから脱いだ上着を預かると少し大きな紙袋を渡された。
「ごめんちょっと重いかも。手土産もあるけど、普通に前
巳波が欲しがってたやつあったからそれも入ってる。」
「わあ、ありがとうございます!」
「あら、ありがとうございます。折角なので頂いちゃいましょうか。昼過ぎから飲むのもたまにはいいですね」
「そうですね」
お話しながらちょっと遅めのランチ、みたいな予定でお料理とかは用意したけど、亥清さんがワインをどっさり持ってきてくれたので棗さんのお言葉に甘えて頂くことにした。
白が2本と赤が1本、それからおつまみで入れてくれたスモークカマンベールはお酒にぴったりで、とてもセンスがいい。
「料理あんたが作ったの?」
「はい、ランチには遅いですけど、こんなに飲むと思わなかったのでちょっと多いですよね、すみません」
「全然、おいしいこれ」
「よかったです!」
「亥清さんもっと有難く頂いてくださいよ。」
「だからおいしいって言ったじゃん!」
そんなことを言いながら白ワイン2本は直ぐに空いた。
私もそうだけど棗さんも、今日は飲むと決めたらある程度イけるクチだ。亥清さんはほんのり赤くなるタイプのようだけど、言動は変わらず。赤くなるタイプの人ってそこからダウンまでが長いことが多いし、実は1番最後まで残っていたりする。いちばん怖いのは顔色が変わらずにいきなり電源がオフになる人だと思う。そういう人は大抵一緒に記憶までなくしてることが多い。
「ねえUNO無いの?UNOやりたいんだけど」
「ありませんよ」
「私の部屋にあります!」
「とってきて」
「ちょっと亥清さん、なに人の彼女顎で使ってるんです?」
「別にいいじゃん。」
「ちょっと行ってきます!ついでにビール取ってきます!」
「ウケる。いい彼女だね」
赤のボトルがポンと空く音を聞きながら急いで自分の部屋に戻ると信じられないくらいに静かで、何だか寒くて寂しかった。出来うる限りの速さでUNOと缶ビールを抱えてお隣に戻ると棗さんと亥清さんが仲良く騒いでいる。
「今何中ですか?」
「知らない。巳波がテイスティング始めた」
「いい土の香りです。」
「めちゃくちゃ褒め言葉じゃん」
「棗さんそうやってチビチビ飲むつもりですね?」
「は?ずっる!」
「違いますから、強要やめてくださっ」
「はい言い訳ダメー。ほら喉仏ちゃんと働かして」
…いやあ、たまにはこんな大学生みたいな飲み会もいいよね、まだ16時だけど。亥清さんもノリが良くて楽しい。
あんなに心配されていた棗さんのお友達と会ってみる会だけど、亥清さんが溶け込み上手なのか、まるで昔からの友達みたいに接してくれるので難なくお話出来た。
お酒が入ったのも良かったと思う。
亥清さんから貰ったスモークカマンベールが溶けて食べずらくなってきたので、残りをクラッカーにでも乗せようと台所に立った私の後ろに、いつもの様に棗さんがぴったりとくっつく。
「何作るんですか」
「頂いたチーズ乗せるだけですよ?」
「うわ、やめてよオレ居るんだけど」
「は?だから何ですか」
思わずくすくすと笑いが零れる。たったのこれだけで、棗さんが友達の前でだけ見せる顔が見たいなんて当初の目的は、私の中で何処かに行ってしまった。それよりも、第三者の前で棗さんが見せつけるように私を彼女扱いするのは嬉しくて、恥ずかしくて擽ったいことを知った。
*
「…巳波トイレ貸して」
「どうぞ。玄関の横です。」
「んー」
亥清さんがトイレに立ったので、今のうちにちょっと空いたお皿を片付けようかと私も立ち上がろうとして、その瞬間強い力で腕を引かれた。そんなことをするのは横に座っていた棗さんしかいなくて、驚きつつも抱きしめられて嬉しいのと、でも家の中には亥清さんがいるのに、と思ったら顔が熱くなる。
「な、棗さん」
「…大丈夫そうですね」
それは私の体調とかそういう事を気にして言ってくれてるのは分かるけど、見られるかもと言う緊張で今、全然大丈夫じゃない。
「大丈夫ですけど、あの、離して…っ」
「何でですか」
「い、亥清さんが、いるので…!」
「今お手洗いに行かれたばかりです。」
「そ、ですけど」
「ほら、あと少ししか時間ありませんよ」
「顔を上げて」と言われたら、逆らえない。
ものすごく悪いことをしているような気持ちになるのはなんでだろう。それなのにドキドキして、初めてのキスよりも心臓が煩く鳴っていた。
「トイレありがと、………」
「おかえりなさい」
棗さんはいつもの様子でにっこり笑って行儀よく座っている。
対する私はちょっと酔っちゃいましたじゃ済まないくらいに真っ赤になってると自分で分かる。
「……おかえりなさい………」
「いや普通に察するんだけどもう少し上手く隠せないの?」
*
「まったく隙あらばって感じだね、オレ邪魔?」
「いえ!全然そんなこと無いですよ!」
「邪魔ですよ?」
「もう…棗さん!あ、皆でラビオパーティしませんか?2人だといつも半分コンピューターですけど3人ならコンピューター無くても楽しいですよきっと」
「コントローラーが足りませんよ。」
「オレ偉いから持ってきてる」
「あははは!」
「…亥清さん何しに来てるんですか」
そんなことを言いながらもきちんとゲーム機を準備する為に立ち上がる棗さんはなんだかんだで亥清さんのことが大好きだと思う。
それにこの2人、相性がぴったりだ。
磁石のS極同士みたいに反発しあってるけれど、私からすると可愛くてずっと見ていられる。仲良し4人組はあと御堂さんと、もう1人仲裁役の人がいるらしい。その人は少し大変そうだなと思った。でもきっとその人もこんな気持ちでほかの3人を見てるんだろうな。
「はい、巳波のスターもーらい!」
「あ!」
「棗さん、これでビリですねぇ」
「ああもう…!」
棗さんが悔しそうに誰にも言われないままお酒を手に取ってカン!と音を立てて空になったそれを置く。
「…あと5マスで取り返します」
「巳波目ぇ怖いよ」
結局ラビパはミニゲームまでほとんど全部やった。
センターに写ればポイントを貰えるやつではリアルおしくらまんじゅうをしながら「邪魔!邪魔!どいて!」「あああ亥清さんずるい!!」「痛い、痛いですって!」とぎゃあぎゃあ騒いだし、これだけ何故か4回くらいやった。笑いすぎてもうお腹が痛い。
そんな感じで時間はあっという間に19時を過ぎて、流石に少し小腹が空いたという頃に突然インターフォンが鳴って、出てみたら身に覚えの無いピザが届いたりもした。
「あ、オレがさっき頼んだやつだ」
「せめて一言何か言いましょうよ」
「わ!クァトロフォルマッジー!!」
ピザの登場で大騒ぎが落ち着いて、各々席につく。
騒ぎすぎてなんだか全員息が上がってるのが面白い。
「はー、ウケた。巳波のキャラがことごとく追いやられてんの、ほんとツボ…」
「亥清さんのキャラがダブルピースしながら足で棗さんを蹴り飛ばした時もうダメでした...お腹痛い...」
「…貴方達にはもうこのマヌカハニーかけさせてあげませんよ。」
「は?!卑怯だって!」
「いやだー!蜂蜜の無いクァトロフォルマッジなんてクァトロフォルマッジじゃないですよ!!」
「仕方ないですね。」
初めはあんなに難色を示していた棗さんも、今ではすっかりいつもの調子で、私は今までの人生でできなかったことを取り返すみたいにピザもお酒もこの楽しい会の雰囲気も身体中で噛み締めていた。
「ねえ今更だけどさ、オレのこと大丈夫?」
「え?…ああ!」
びよんと伸びるチーズを追いかけながら、もぐもぐとピザを食べる亥清さんが私に話しかけた。一瞬本当になんのことか分からなくて自分でも驚く。
直ぐに、ああ自分の体質のことかと気がついたけれど。
「今日初めて会ったと思えないくらい、楽しくさせてもらってます。怖いだなんて少しも思わなかったです。」
「そ、良かった」
亥清さんはそう言ってふわりと優しく笑った。亥清さんは、そういう所が少しだけ棗さんに似てる。悪戯を言った後に楽しそうに笑うところとか、ちょっとわざとらしく拗ねて見せるところとか。やっぱり友達だから、似るものなのだろうか。少し違うところは、亥清さんはそうして笑ったことに気がついたあと、取り繕うようにツンとした表情を作る。笑ったら失礼だけれど、それはなんだかすごく可愛らしくて、多分彼の魅力の一つだ。
「巳波のことは最初怖かったの?」
「うーん、最初は…そうですね。今は棗さんのおかげで、症状がだいぶ良くなってて、亥清さんのことが大丈夫だったのも、棗さんのおかげなんです。」
「ふーん、巳波はなんでこの子のこと好きになったわけ?最初は嫌われてるようなもんだったんでしょ?」
「え!あの、嫌いだったわけでは…!」
「でも怖かったんでしょ」
「嫌われてたから、好きになったのかもしれないですね」
「は?Mなの?」
「違います。」
関係ないけれど、こんなに食べずらい蜂蜜たっぷりのピザも棗さんにかかれば上品に食べられてしまうということにその時、私は惚れ惚れとしていた。口許に少しついた蜂蜜を棗さんがぺろりと舐めとるところが扇情的で、無意識に棗さんをじっと見つめていた。だから、直撃をくらってしまったのだ。
「どうしたら好きになってもらえるかな、と毎日考えていたら、私の方が大好きになってしまってたんですよ。」
「っ!!」
「……うーわ」
聞くんじゃなかった、と亥清さんが呟いた。
棗さんは愛情表現を欠かさない人だけれど、本当に少しも照れずに、そういう事を本人を見つめながら言えるのはどうなのだろう。…照れてはにかみながら言われるところを想像してもやっぱりすごい破壊力だったので、もう私が甘んじて受け入れるしかない。
思えばそういった始まりの頃の話はあまり2人でしたことが無い。したとしても、殆ど私が棗さんに失礼なことを言ったりやったりしているだけな自覚があるので、今まで無意識に避けていた。あの頃棗さんがそんなことを考えていたなんて、いっぱいいっぱいだった私が気が付く筈もない。
「それでなんで今日いきなりオレが呼ばれたの?訓練的なこと?」
「あ、それは…最初は私の知らない棗さんを知ってる人がいるのはずるいなとか、思ってて」
「…これまた聞かなければよかったやつ?」
「いや、あとは棗さんの男性の趣味を知っておきたいというか、棗さんの好きな人なら私も好きになりたいなとか」
「ちょっと、言い方」
「おかしな言い方やめてくださいよ、友人の趣味、でしょ」
「そうともいいますね。」
「そうとしかいいません」
*
楽しい時間が過ぎるのは早い。亥清さんは21時を過ぎたあたりで「そろそろ帰るね」と荷物を持って立ち上がった。
「じゃあね、遅くまでごめん。だいぶ騒いだし」
「いいえ!楽しかったです。失礼が無くて本当に良かったです。」
「あんたに怖がって貰えないのも男としてどうかと思うけどね」
「虎於は怖いんでしょ」なんて面白くなさそうにに呟くから、つい笑ってしまう。
「私は亥清さんと話せて嬉しかったですよ!」
「うん。…なんか巳波ってさ、あんたのことめちゃくちゃ好きなんだね。」
「え、」
「だいぶ見せつけられたけど、いいもの見れたって感じ。」
「…ふふ、すみません。でも嬉しいです。私が言うのはおかしいですけど、また来てくださいね!」
「うん。巳波の事、これからもよろしくね」
「はい」
亥清さんを玄関まで見送って、振り返ってリビングに戻れば寝室の入口に頭をもたれかけた状態で腕組みした棗さんが立っていた。さっきまで騒がしかった部屋はシンとして、ふわふわとしていた思考が少しはっきりする。
棗さんの雰囲気が少しいつもと違って、一瞬立ち止まるけれど、何か言いたそうに見えてすぐに側に寄った。
「棗さん...?どうしましたか、疲れちゃいましたか」
「…楽しかったですか?」
「はい!もう本っ当に楽しかったです!」
本当に、これまでの人生で一番と言っていいほど楽しい飲み会だった。またすぐにでもやりたいし、亥清さんのことも大好きになった。棗さんには言わないけれど、お友達がいる空間でほんの少しだけくっ付いたりするのはまるで自分のものだと言われているようで嬉しかった。ほんの少しだけね。
亥清さんは呆れた顔をしていたけど、結局は棗さんをよろしくねと言ってくれたし。思い出して楽しくて、ニコニコとしていれば棗さんが薄く唇を開いた。
「…だから、嫌だったんですよ」
「え、?」
「御堂さんや狗丸さんだと貴方まだ怖がるでしょうし、ノリ的にも会わせるなら亥清さんは適任だと思いますし。彼とならすぐに打ち解けるだろうなというのは分かっていましたけど」
「…?」
「ああやって笑うのは私の前だけだったのに」
「棗さん、」
「その呼び方じゃ嫌です」
「…えっと、」
「、我儘ですか?」
我儘だなんて、そんな訳ない。ただ酔いのせいか、いつもより棗さんが可愛く見えて仕方がなかった。何か嫌な気持ちにさせてしまったのかと驚いたのは一瞬。言われた内容は私からしたら嬉しいものでしかない。もごもごと捲し立てるみたいに早口で沢山話すのも珍しくて、こんな一面が見たくて亥清さんを呼んだ訳じゃないのに、嬉しい誤算だ、もう。
「…巳波?」
「っ」
「これは……亥清さんの真似、です!」
「どれだけ、好きにさせる気ですか」
「私のセリフですよ」
棗さんの瞳に熱が宿る。
あ、キスされる。そう思うと同時に唇が重なって、抱きしめられたその体勢のまま棗さんの足は寝室に向かう。なんだか足取りが覚束なくて、必死に捕まってキスに応えていたらボスンと柔らかい場所に倒された。不思議と怖くなくて、リビングの電気付いてるなあなんて考えてる自分がいることに驚く。
まだ少し酔ってるのかもしれない。鼻の奥からアルコールの香りがする大人なキスに文字通り酔いしれて、やけに静かな棗さんを見ようと目線を上げたけれど、そのまま視線は合うことはなかった。
ぽす、
「え。」
すぅ、と聞こえてくるのは棗さんの可愛らしい寝息。
そういえばも何も、3人で盛り上がってかなりの量のお酒をあけた。結局私が持ってきたビールは全部なくなったし、最終的に棗さんのお家にあったウィスキーボトルにまで手を出した。
2人だけであそこまで飲むことは今までなかったから、棗さんがどれくらい飲めるのか、実はちゃんと知らない。
それに今日は色々と心労もかけてしまっただろうし。
「棗さん、いつもありがとうございます。」
小さく声をかけてももちろん答えはない。
私たちの右側でごちゃごちゃになっていた布団をかき集めて棗さんと自分にかけてあげれば、いよいよ安心したように私にすり寄って気持ちよさそうに眠ってしまった。
寝顔なんて、初めて見たかもしれない。
何をしても可愛く見えて、愛おしくて、どんどん好きにさせられているのは私の方だ。胸元の棗さんの頭を抱きしめて、幸せだとひとり笑みを零した。
────────
「ん、……」
暖かくて、優しい香りがして、やけに多幸感のある目覚め。
上手く働かない頭をゆっくりと動かして、意識が浮上する。
人は心底驚くと声も出ないと言うけれど、それを痛感した。
「…………」
朧気な記憶を手繰り寄せながら、身じろぎひとつせず全身の皮膚感覚を研ぎ澄ませて違和感を確かめている自分に嫌気がさす。けれど、特に何も変わったところはない。
それどころか自分も彼女も洋服のまま、私は何故か彼女を抱きしめて眠っていた。
ころんと彼女が首だけ寝返りを打つのを感じて、目線を上げる。私が完全に上に乗った状態で、こんな体勢じゃ寝苦しいだろうに、幸せそうに私を抱きしめて眠る彼女がそこにいた。
彼女の声が聞こえて、顔を見た瞬間、昨日の馬鹿騒ぎと摂取したアルコールの量、その後の自分の痴態が走馬灯のように駆け巡って思い出したように頭が痛む。
「はあ……」
「ん、んん…なつめさん、?」
「おはよう、ございます」
「ふふ、おはようございます」
目を覚ました途端ふにゃりと笑ったのはどうしてか。
ただその顔はいつも通りで、なんだか安心する。
「昨日は可愛かったですね、棗さん」
「ちょっと」
「私、幸せでした……」
「…一夜を共にしたような言い方止めてくださいよ」
「共にしたじゃないですかぁ」
ほぅ、と思い出したように照れ笑いをした後、そのままけらけらと笑う彼女に拍子抜けする。ここに押し倒された時、どういう気持ちだったんですか、貴方。
「…すみません、酔いました」
「ふふ、そのようで」
「昨日は色々、言いましたけど。楽しかったですね」
「! よかった、私もです。みんなで飲んで騒いでって、初めての経験だったので、つい浮かれてしまって…棗さんの気持ちも考えずに嫌な思いをさせたかと」
「そんなことないですよ。貴方が楽しそうで嬉しかったのは本当です。」
「ふふ、…ほんと、何回でも思い出し笑い出来そうです。」
「……寝る前、何もされませんでしたか、私に」
「なんにも。棗さんおやすみ3秒でしたので…」
「残念そうにしないで」
「でも一緒に眠れて嬉しかったんですよ。私だけ堪能してごめんなさい」
まったく。
それでも、怖がらせたのでは無いのなら良かった。もうとっくに、どれだけでも待つと決めているこの体が、何かの拍子に暴走していなくて心底良かった。
大切にしたい、今まで沢山我慢してきたこの人を、できるだけ沢山笑わせてやりたい。今となってはもう、それだけだった。
*
……恋人同士の朝とはこういう感じなんだろうか。
棗さんとは沢山の初めてを経験してきたけれど、これは所謂大人の階段も数段飛ばしではないか。今この瞬間、恋人とベッドで朝を迎えるという私からすると難易度星5以上はありそうな状況下にいるのだということに、今更ながら気がついた。
寝起きのすぐは実感が無くて、傍から見ると随分余裕そうに笑っていたと思うけれど。あれは寝ぼけていたのと、ただ昨日の思い出し笑いをしていただけだ。
どうしよう、今私…好きな人と朝同じベッドで目を覚ます経験をしている…。そうドキドキしたのも束の間、私に乗り上げていた棗さんが横にゴロンと倒れて、そのまま肩の辺りにコテンと頭を置いた。
……えぇぇ。可愛いなあ、これ以上ドキドキさせてどうするつもりなんですか、この仕草は女の子がやったら彼氏がキュンとするやつだと思います棗さん。そう悶絶していたら不意に肩の方から名前を呼ばれて、またドキリとしながら返事をした。
「なん、ですか?」
「あら、今更緊張してるんですか?本当に今更ですね」
「仕方ないじゃないですか…冷静になってみたらこれ、めちゃくちゃレベル高いんですよ」
「…朝チュン?」
「違います、何もしてません!」
「されたかったんですか?」
胸の上で行き場を無くしていた右手が棗さんに絡め取られて
きゅっと握られる。ゆっくりと見下ろしたら可愛く上目遣いされていて、全部わざとやってることくらいもう分かる。
心臓が壊れそうだけど、それでもキスしたいなんて言ったらまた困らせるだろうか。
そんな思いは顔に出ていたらしい。繋いだ手が顔の横に押し付けられて、棗さんが少し起き上がった。
するならもうはやくしてくれればいいのに、至近距離で見つめられたらなんだかじっとしていられない。このままずっと見られているのは堪らなくて、遠慮がちに鼻をすりつけたら柔らかく唇が重なった。
髪の毛一本でも口に入れば分かるくらいに、口の中というのは敏感らしいと、最近どこかで聞いた気がする。どこだか思い出せないけれど、なるほど、だから唇を重ねて、舌をつつかれるだけでこんなに気持ちよくなってしまうのかとぼんやり納得した。
とろけていく身体と頭の中とは裏腹に、握っていた手はぎゅうぎゅうに力が入る。そうでもしていないと、棗さんを抱き寄せて、縋り付いてしまいそうだったから。
「は、....」
「ん、はぁっ、…ん?」
絡めていた指を棗さんが解いて、撫でて、もう一度丁寧に絡め直した。それがなんだか擽ったくて、顔の横で繋がるそれを見ようと横を向いた。
その瞬間棗さんがくす、と笑う気配がして。
そんな策略ってありなの?首筋に吸いつかれながら、また絡まって解けなくなってしまった手を必死に握って初めての感覚に耐えるしか出来ない。
「な、つめ、さん...っ、それや、へん…っ」
「いや?」
「は、う...っ」
キスとは比べ物にならないくらい変な声が出るし、首の筋にそって舐めあげられたらびくん、と体が浮く。自分の意思じゃ、全部がどうにも出来ない。ばたつく足は片方棗さんに絡められてしまって動けないし、何、コレ。
「怖い?」
「ん、っ怖く、な…っあ!」
それは本当。怖さなんて微塵もなくて、あるのはこんなふうになっちゃうことへの困惑。ぴちゃりと耳を舐められるのは、腰の方が重たくなって何がなんだかわからない。
「…気持ちいい?」
「は、ぁっ...う、わかんな、でも、すき…っ棗さん、」
「え、何がですか?耳舐められるのがですか?」
「やっ…!ちがう、うぅ…んっ!」
「ふふ、可愛い」
花が綻ぶように棗さんが笑う。
日曜日の朝の日差しが明るく頬に降り掛かって、こんなことしてるのに宝物みたいに綺麗で、言いようのないくらいにこの人が大好きだと、上がった息が整わないまま、そう思った。
しばらくして、やっと解放された右手と左足。
棗さんは心底楽しそうにくつくつと笑っている。
「さ、冗談はさておき、今日は邪魔者もいませんし、昨日の分までゆっくりしましょうね」
…冗談だったんですね。散々遊び道具にされた耳と首筋を押さえて、これ以上好きにされてたまるかと寝室いっぱいに充満していたなんだかピンクな雰囲気を払拭するように声を上げた。
「もー、その前に片付けですよ!リビングぐっちゃぐちゃなんですから」
「…後でいいです、」
「でも、」
ぎゅっと抱きしめられて、先程とは頭の高さが逆になる。
上目遣いの棗さんも良かったけれど、やっぱりこの位置がいい。目の前にある棗さんの首筋に今度絶対に噛み付いてやると意気込んで、「片付け…掃除…」と呪文のように呟いたら聞こえません、とでも言うように抱き直された。
「初めて、一緒にごろんと横になってるんですから、もう少し堪能させて」
棗さんの限界値ってどこにあるんだろう、私はまだまだこの人に翻弄されっぱなしだ。