パチン、とEnterキーを押して、一息つく。
在宅で出来るシステムエンジニアの仕事は、ライフスタイルを自由に選択できて気に入っていた。けれどそれを見越した無理難題を押し付けられることもあって、自分の体力が許す限りやってしまい朝になることもある。昨日は夕飯を摂ったあと仮眠をして、朝方から仕事をするという酷い時間配分をしたので、気がついた頃には時刻は朝の9時を過ぎていた。カーテンが無ければ、今が朝と夜どちらの9時なのか分からなくなりそうだ。
「さすがに、お腹が減りましたね…」
コンビニで朝食を買おうと、自転車の鍵を持って家を出る。
それが自分にとって、 守りたくて愛したくてたまらない女性との出会いになるなんてことは知らないまま。
声をかけたその人が振り返った時、隣に住む方だということには気がついていた。何度か5階のエレベーターホールですれ違ったり、廊下で見かけたことがあったので。
その度いつも俯いていたイメージがあって、男性が苦手だと言われた時には何となく腑に落ちるところがあった。
と同時に、それならもうなるべく関わらないようにした方が彼女の為になるだろうと。
隣の部屋のドアが開いて出かける音を聞いてから自分も外に出るようにしたり。21時頃帰宅することを知ってしまったので、その近辺はなるべく部屋に篭もるようにした。
それなので、彼女が自分から私の部屋に訪ねてきた時は少し驚いた。ビクビクしながら前回の事を謝るので、誰にでも苦手なものはあるでしょう、と思う。ただこの人はこれでかなり生きずらい毎日を送っているんだろうなと、失礼ながら少し不憫に思ったのも確かだったので、それから頑張って自分と話そうとする彼女に対しては、なるべく中性的に柔らかい雰囲気を保つよう心がけたりはした。
いつからだろうか。自分を見つければ声を掛け、嫌ならやめればいいものを、ぷるぷると震えながら話す彼女がどうしてもいじらしく、可愛らしく見え始めたのは。
少し測り誤って近付きすぎればぴゃっと毛を逆立てるようにする所も、失礼だったと謝られたところで子猫のようにしか思えない。
こちらが大人しくしていれば、少しずつ歩み寄ろうとしてくるその姿はさながら野生の小動物で。
棗さん、と呼ぶ声がいつ聞こえるものかと心待ちにしている自分に気がついて、呼ばれるだけでは飽き足らず、不気味にも彼女の出掛ける音に合わせて偶然を装って家を出たりするようになった頃には、これはもう彼女のことを好きなのだと認めるしかない状態になっていた。
「可愛いんですよ…」
「巳波お前、珍しいな」
「ミナが好きになる女ってどんなだ?」
御堂さんと、狗丸さんと、集まった時に気付けばそんなことを零していた。面白がられるに決まっているのに。
「…猫ちゃん、って感じですかね」
「猫」
「猫吸いしたくなるような…こう、ぱくっと食べちゃいたい感じです」
「分かる!猫可愛いよなー!」
「トウマ、多分そうじゃないぞ」
確かに、そんな会話をした記憶はあった。
それが彼女に1番良くない形で伝わるとは思いもせず。
結果的に話が纏まったので、何万歩も譲って良しとしたけれど、彼女はきっと驚いただろう。
手に入るとは思わなかった、と言えば少し違う。
手に入れる気はもちろんあった。ただそれはもっと先のことだと思っていたし、どうしたら怖がらせること無く彼女の意思で来て貰えるのか、野生の猫など手懐けたことも無い自分に出来るのか、出来ているのか。
意識的に可愛こぶっていた自分の素の部分を見せても、それでも心の窓を開いてくれた彼女に感動して、あの時、手が震えていたのは彼女だけではなかった。
――――
そうして始まった彼女との交際は、中学生のそれと言ってもよかった。今どき中学生でももっと色々としているでしょう。一進一退、彼女も自分でまだ把握しきれていないテリトリーに、自分がどこまで介入出来るものかを考える日々。
しばらくして自分から歩み寄るのは1度やめてみれば、少しわかるようになってきた。
彼女はいつも、自分に甘えてばかりだと言うけれど、そうではなく、本当に努力を重ねてくれていた。
彼女が自分から手を重ねてくれた時は、動かないでいると安心するらしい。こちらから握り返してしまうと震え出す時があるので、つい力が入りそうになるこの体を鋼の精神力で抑え込み、彼女の気が済むのを待つ。
イメージは常に野生の子猫。
こちらが静かに黙っていれば寄ってくる。少し背中を撫でるのは許される時があって、顔の前から手を出して撫でようとすると怖がる。なのでそれはしない。抱きしめたりするのはもってのほか。たまに触って欲しそうにこちらを見上げられるのは、少し困る。
どこに触れれば逃げられないのか、まだ分からないでいる。
「棗さんその写真家の方の世界ネコ歩きの番組、お好きですよね」
「ああ、勉強になるんですよ」
「え、勉強…?」
動画配信サービスで、座ってカメラを構えるだけで猫が寄ってくる有名な写真家の番組を暇さえあれば付けているのが、ここ最近の日課になってきた。
御堂さんには爆笑をされ、亥清さんには憐れむような目を向けられた。
笑われても、憐れまれても、それでもやめたくなるようなことは無かった。本当は、もっと強く抱き締めて、その髪に顔を埋めてみたくて仕方がないけれど、彼女と過ごす毎日は幸せで、そこに居てくれるだけでほっとする。
怒涛の告白劇から四ヶ月。
私と棗さんは、付き合ってもう四ヶ月も経つのに、まだキスもしていない。
手を繋ぐのは、もう大丈夫……だと思う。
棗さんの大きな手のひらに包まれるのは怖いよりも安心するが勝る。だけどいつまでもそれだけじゃいられないのは分かっていて、何も出来ない私は飽きられてしまわないかと不安になり始める。
棗さんは優しいので、私がなにかアクションを起こさないと彼にその気がないのもだんだんと気が付き始めていた。
今日は髪の毛も上手に巻けた。お肌の調子もいい。
決行は今夜だと気合を入れて、普通の女の子みたいに棗さんとの時間を楽しみにできるのが、とても嬉しかった。
「棗さん!」
「はい」
「あ、の…」
「、どうしましたか?」
いざそれを言おうと思うと恥ずかしさでなかなか言葉が出てこない。最近ではすっかり普通に話せるようになった私が以前のように口ごもったからか、棗さんが少しぎょっとした顔で振り向いた。あんなに意気込んでいたくせに、不甲斐ない。棗さんは慌ててこちらに近寄ろうとして、ぐっと立ち止まる。きっと怖がっていると思われたのだろう。そうじゃないのに。
「…えっと、」
「…近寄っても?」
「大丈夫、です。」
一歩、二歩と。こちらの許容範囲を確かめるみたいにしながらゆっくりと近付いて、目の前まで来た棗さんは不安そうに私を見た。
「どう、しましたか」
「あの、ですね」
「…」
「そろそろ、その、キスとかを…してみるのはどうかと思いまして…」
「…は、」
「よ、四ヶ月も経ちました、し…あれ、棗さん?」
棗さんはひゅるるるとその場にしゃがみこんで、顔を伏せたまま上げてくれなくなった。
「あの…駄目でしたか?」
「はあ…ついに振られるのかと思いました…」
「えっ」
足元で小さくなったままの棗さんが、きゅっと私のスカートの裾を握りしめて言うので、申し訳ないのと同時に、とっても堪らなくて。
「いつ振られてもおかしくないのは私の方ですよ?」
「私からそんなこと言う訳ないでしょう。どれだけ頑張って手に入れたと思ってるんですか」
上目遣いで私を少し睨んだ棗さんは珍しく頬が紅潮していて、とってもとっても可愛らしい。
「棗さん、どうですか?」
「お断りするわけありませんね」
さて、いざするとなってまだ抱き合ったことすらも無いことに気が付いたと言ったら、馬鹿にされるだろうか。
つまり、距離感も、どちらからどうするのかも、さっぱりだ。
「棗さん。お願いだから、棗さんから来て貰えませんか」
「怖くありませんか?」
「はい。でも私からじゃ、どうしてもそれ以上近付けなくて」
ソファで隣に座って、顔を見あって。
結局、私はまた棗さんに甘えてしまう。
「無理しないで」
「無理じゃないんです」
そんな急がなくても。とか、自然に任せていいんじゃないですか。とか、困った棗さんが色々言ってくるけれど、それじゃだめだ。身体がどんなに拒否をしようと、そんなことは無視をして、抑えつけて。
私の気持ちはとっくに棗さんが欲しくてしょうがない。
「多少強引でもいい、ので…キス。したいです」
「……わかりました」
棗さんの手が私の手に重なる。
目線をどうしたらいいのか分からなくて、下に落として、そしたら覗き込むみたいに私の視界に入ってくる棗さんはやっぱり可愛らしい。もう片方の手が私の肩に優しく置かれて、そのままゆっくり棗さんの方に引き寄せられたら、ふるふると身体が震え出した。なんて思い通りにならない身体なのだろうと思う。私自身はこのファーストキスに期待と緊張でいっぱいで、今は怖さなんてなかった。
「…キスの前に。」
「…?」
「抱きしめたいです。どうですか?」
「あ…!あの、だ、抱きしめられたいです…!」
「ふふ、」
笑った棗さんに見惚れていたら、ぽすんと肩に棗さんの顎が乗って。もう片方の肩に乗っていた手がするりと背中を撫でて、ゆっくり優しく、体が密着した。
行き場のなかった手が自然と棗さんの背中に回って、服をぎゅっと掴む。震えながらだけど、それでも離れたくないって意思表示のつもりだった。耳のそばで棗さんが息を吐いて、身体がぴくりと反応する。
「棗さん…?」
「すみません、幸せで、泣きそうです」
「ふふ、涙全然出てないです」
「心の中では号泣してるんです」
「またあ」
笑いあって。
あ、顔、距離近い、
そう思った時には、唇が優しく触れていた。
目を合わせて、ゆっくり近付いて触れた方が良かっただろうか。完全に彼女の心が決まるまで待つべきだっただろうか、分からない。それでも初めて至近距離で目が合って、体が引き寄せられてしまった。
「んっ…」
「…すみません、もう逃げていいですよ」
「や、やだ、逃げたくないです…!」
そう縋り付く彼女があまりに可愛いから、例え引っ掻かれてもいいと思った。蹴られて、突き飛ばされて、逃げられたとしても、別にいいじゃないかと、一瞬 彼女の気持ちを蔑ろにするような事を考えた。
逃げたくないというその言葉の通り、もう一度唇を重ねても、彼女は逃げなかった。体がガチガチなので、逃げられないと言った方がいいのかもしれない。
ただ本当に触れているだけなのに、体が時折ぴくんと跳ねて、その度喘ぐような声を出すのはやめて欲しかった。
「っ…ん、う…」
「……っ」
ブレーキが、効かなくなる。
キスが深くならないようにするので精一杯。
「そんなに固まられると、悪い事をしたみたいですよ」
「ご、めんなさ…っ」
「責めてませんよ。頑張りましたね」
「
っ」
「…すみません、泣かないで、」
「ちが、謝らな…で、嬉しくて、泣いてるんです」
棗さん、大好きです、キス出来て嬉しい、と涙を流す姿は加護欲を掻き乱される。少なからず恐怖はあったんじゃないかと思うのに、我儘にも触れたいと思う欲が止まらなくて困った。
「もう、中学生と付き合ってると思ってください…」
「義務教育、卒業出来るといいですね」
泣きながら冗談を言えるようになった彼女にこちらも冗談で返せば、「飛び級で頑張ります……」なんて鼻をすすりながら言う。もうそんなに頑張らなくてもいいですよと言えればどれだけ良いだろうと思うけれど、結局私は彼女に触れたくて仕方がない。
「…抱きしめても?」
「はい…っ」
腕に閉じ込めた彼女の体は強ばって、私のことを拒むのに、その手だけは絶対私を離さないというように、背中にまわってぎゅっと掴む。遠慮がちに擦り寄られて、さらに身体を密着させても引っ掻かれることはついぞ無かった。
驚いてつい爪を出してしまった飼い猫は、そのあと申し訳なさそうに傷つけた部分を舐めたりするのだそうだ。
嫌なわけではなかったと、驚いただけなのだと伝えるように。
それを知った時の私の気持ちを想像してみて欲しい。
どれだけ愛おしい生き物だろうと心臓が締め付けられて、そんな傷ならいくらでも欲しいと思うのは、おかしなことだろうか。
彼女はいつの間にか、野生の子猫ではなくなっていた。