運動部の声、球がバットに当たった弾けるような高音、蝉の大合唱。それらをBGMにしながら、今日も私は黙々とノートにペンを走らせていた。クーラーのスイッチは入っているようだけど、嘘みたいな暑さである。これは絶対故障しているに違いないから、この夏期講習の期間少しでも早く修理してほしいものだ。
 バイトやってない、部活やってない、趣味とくにない。そんな私が、夏休みの予定が充実しているかと聞かれたら答えは限りなくノーに近い。だからこうして、唯一得意な勉強をし続けるしかなかったりする。おかげで成績はずっと上位をキープできているのだ。
 窓から差し込む容赦ない直射日光の攻撃に耐えながら、やっと講習を受け終えた。閉じたノートを団扇にしながら、また明日もこの調子かぁなんて、つい溜息がでてしまう。勉強を苦行と感じたことはあまりないけれど、数日間この暑い教室の中で授業を受けなければならないのはちょっとした修行だ。とにかく今私が望むのは一日でも早いクーラーの修繕とコンビニアイスだ。
 そうと決まれば行動は早いもので、机の上に出された勉強道具一式を雑に鞄の中へ放り投げさっさと教室を出る。否、正確には体半分が廊下に出たところで私の足は一瞬止まった。担任に慌てた様子で引き止められたからだ。

「……なんですかー」
「悪い悪い、ちょっと帰るの待ってくれ」
「牧野くん、私は一刻も早くアイスを食べなきゃ死んでしまいます」
「先生をつけろって何度言えば分かるんだお前は」
「じゃ、センセイさようなら〜」
「待てって! あー、そのだな……成績優秀なお前に一つ頼みがある」

 不自然なくらい好印象を与える担任牧野の笑みは正直気持ちが悪いし、はっきり言っていい予感が一つもしない。それが顔に出ていたのか、牧野くんは「バーゲンダッシュの好きな味、買ってやるぞ」と他の生徒に聞こえないよう私の耳元で誘惑をしてきた。暑さでメンタルが弱っていた私はそんな悪魔のささやきに打ち勝つことができるはずもなく、牧野くんの頼みをあっさり引き受けてしまったのだった。



 昨日と同様、運動部が猛暑の中汗水垂らしているのを横目に講習を受け終えた私は、次々教室を出ていくみんなをぼーっと眺め息を吐いた。クーラーは今日もまだ直っていない。なにもかもが昨日と同じなか、全く違う事が今日から講習の後に控えている。
 そう、それは安易に引き受けてしまった“特別指導”とやら。どうやら私は、講習後とある生徒の勉強を見なければいけないらしい。「英語を教えてやってほしい」としか言われていない現状、誰が来るのかも理解していない私に一抹の不安。 すると、教室の後ろの引き戸が軽くノックされた。教室の引き戸を律儀にノックするなんて面白い人だなと思いながら、緩く返事をすれば同じクラスの京極真君が姿を現した。

「えっ、もしかして英語を教えてほしいのって……京極君?」
「はい。御多忙の中自分のために時間を割いていただき感謝致します」

 あまりにも意外すぎる人物に正直戸惑った。彼とは同じクラスではあるけど、そこまで親しい間柄ではない。けれど、全く話したことのない相手かというとそういうわけでもない。まぁ、ここまできてやっぱり断りますとは無責任すぎるうえ、一度引き受けてしまったこと。それに報酬がある以上出来ることはしなくては。私の中の優等生根性がそう言っていた。
 彼は私が座っていた席の前に腰を下ろすと、ぐりんと体をこちらに向け「短い間ではありますが、ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い致します」なんて、行儀良く深々と頭を下げてきた。これを十八歳男子高校生だと思えというほうが無理な話だ。硬く結んでいた口からぷっと空気が漏れ、そのまま大爆笑してしまった。当たり前だが目の前の京極君はポカンとしていて、状況が理解できていないといった顔だ。

「はぁー、ごめんごめん。あまりにも京極君がお堅いからさ、なんかおかしくって」
「数日とはいえ貴重な夏休みの時間を割いてのこと。やはりきちんと挨拶をするのが道理かと思っていたのですが、なにか可笑しな点などあったでしょうか?」
「違うよ、そういうのじゃなくって。京極君は面白い人だなって褒めたつもり」
「そのように言われたのは初めてです」
「そういう時は素直に喜んでおけばいいの」
「かたじけないです」

 首元に手をやり困ったように言う彼の頬は、地黒のせいで分かりにくかったがほんの少し赤くなっていた気がする。京極君といえばうちの高校の空手部主将で、全国優勝の経験を何度もしてる超人っていうイメージだったけど、こうして話をしてみればただの古風な純情少年だ。

「ところで、どうしていきなり英語?」
「実は海外へ留学することになりまして」
「え?!」
「日本では自分以上に強い相手がなかなか居らず……。海外で武者修行をしようと思い立ち今に至るというわけです」

 いきなりぶっとんだ話をされ、なんて返事をするのが正解なのかよく分からなかったが、とりあえず「すごいね」の一言に尽きる。自分のやりたいことをそこまで突き詰めることのできる人間というのはそう多くないと思う。それも高校生でだ。それは素直に凄いと思うし、同時に羨ましくもある。
 海の向こうにいる強者たちとの戦闘を想像するだけで楽しみなのか、子供のように瞳をキラキラさせ来週には日本を発つのだということまで話してくれた。その彼は今、目の前の問題集をゆっくり解いている。静かな教室に京極君の走らせるペンの音だけが響く。これも全て夢、目標のため。同じ年で同じ学校に通って、同じ教室で高校生活を過ごしているのに、彼の見ているものは私と全然違う。そんな当たり前のことを実感した途端、胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感。

「あの、一応出来る限りのことはしたのですが……」

 手渡されたノートを埋め尽くす筆圧の強い英字はとても不慣れで、京極君には申し訳ないけど少しだけ笑ってしまった。でもそれは決してバカにしたわけではなく、文字から人の良さや生真面目さが伝わってきたから。それは文字だけではなく、文法をきっちり守ってる感じもとても彼らしい。

「うーん。たまに単語ミスとか意味を間違えて覚えてるっぽいところはあるけど、基本的な部分は結構できてるんだね」

 空手の大会があればそっちが優先。普段も勉強よりは空手の稽古ってイメージだったから、添削結果がわりと良かったことが少しだけ意外だった。彼曰く「勉学を怠っては文武両道とは言えない」そうで、一応中くらいの成績はとれるよう努力していたらしい。私の不慣れな教えもすんなり理解してくれてるところを見る限り地頭は良さそうである。

「じゃぁ、次のページの問一から問十までは宿題にしとくね」

 約束の一時間を少し過ぎたところでそう言い残した私は、深々とお辞儀をする京極君に見送られ教室を去った。このあと、約束のバーゲンダッシュを牧野くんにねだりに行ったのは言うまでもない。



 今日も今日とて、グラウンドの坊主頭たちは元気そうである。外の紫外線も昨日一昨日と同じで強烈だ。
突然始まった英語指導生活もなんだかんだ今日で三日目。問題集、参考書と睨めっこしている京極君は当たり前だけど真剣だ。彼の一生懸命な姿に影響されているのか、教える私まで日に日に熱が入っている気がする。少なくとも、三十分前まで自分が受けていた講習なんかより数倍も力が入る。世界を視野に入れてる人間に教えていると思うと、なんだか私までやる気になってくるのだ。

「初日から思ってたけど、もっと簡略化できるところとかはしていいと思うよ」
「といいますと?」
「例えば“You seem to be very tired”は、“seem very tired”とか“look tired”とかで全然いいと思う。実際文法の通りに喋ってる外国人なんていないしさ」

 日本語を一切崩すことなく喋っている京極君にはキャラクター的に英語も堅いままでいてほしかったりするけど、現実コミュニケーションをとるにはいささか不便だろう。

「あとは昨日も言った通り、とにかく日常的に出てきそうな単語を叩きこむのと英語のスピードに慣れることかなぁ。 書くよりは聞いたり喋ったりがほとんどになるだろうから、常に何か聞いてた方が後々楽だと思うよ」
「昨日教えていただいた洋楽、早速聞いてみました。歌詞はとても個性的でしたが、確かに音楽というのはいい勉強方法の一つだと感じます」
「教材CDとかもいいんだけどさ、私は音楽とか好きだから洋楽聞いたり映画の字幕見たりとかのが覚えるの早いんだよね」

 邦楽に比べて洋楽は歌詞に深い意味を持たせたりするものが少ないから、京極君が個性的って表現をするのも頷ける。確かに昨日オススメした洋楽は、あまり意味のないことをひたすら歌い上げるハードソングだった。

「凄いですね」
「え?」
「自分はこんなに分かりやすく人に物を教えることが得意ではないので、貴女のように相手のレベルに合わせて指導ができる人を尊敬します」

日本一の称号を手にし、数日後海の向こうへ行こうとしている男から、まさかそんな言葉を投げかけられるとはこれっぽっちも思っていなかったものだから戸惑ってしまった。その直球すぎる言葉とふと見せた優しい瞳に柄にもなく照れてしまう。前髪を直す振りで頬の熱を悟らせないよう必死だ。

「な、なに言ってんの〜。私なんて京極君に比べたら全然だよ。これといった夢や目標もないし。ただなんとなくで勉強してるだけだよ」
「自分の場合は夢中になるものとの出会いが少し早かっただけで……。それに、ただなんとなくでこれだけのことができてしまうなら尚更、それも一つの才能だと思います」

 十八年間生きてきて、そんな風に私のことを評価してくれた人は初めてだった。いつもどこかやる気に欠け、そのことを親や教師に言われることはよくある。それでも怒られないで済んだのは、そんな流されるような生き方でもそこそこできてしまっていたから。去年の進路調査で「特にないから行けるところでいい」と投げやりな返答をした際、担任が酷く残念そうだったのはそういうことだったのかもしれない。

「やっぱ面白いや。京極君」

 初日のときみたく意味を理解できていないポカン顔が、なんだか今日は愛おしく感じた。「ありがとうって意味」なんて遠回しにしか喜びを表現できない私に、京極君の実直さを少しだけ分けてほしい。
 そんなことを思っていた時、彼のこめかみに貼られた絆創膏が前髪の奥からつぅっと垂れる汗により剥がれ落ちそうなのが目に入った。すっかり粘着力を失ったであろう姿を、口で教えるよりさっさととってしまおう。と、椅子から立ち上がり伸ばした指先が熱いこめかみに触れた瞬間、とても驚いた顔の京極君と至近距離で目が合ってしまった。レンズの奥にある真っ直ぐな瞳に見つめられた途端、胸の中で何かが爆発したような感覚に陥った。そして周りの音が一切聞こえなくなる、そんな錯覚すら起こしてしまったのだ。

「あの……なにかついていましたか?」

 触れた指先を動かせず固まっていた私を現実に引き戻したのは、カキンという気持ちのいいヒットの音と目の前にいる京極君の焦ったような声。いつもと変わらない低い声に柔らかい物言い。キリっと凛々しい眉。なにも変わらない、昨日一昨日と同じ人物のはずなのに嘘みたいに別人に見える。

「ご、ごめん! えぇっと、絆創膏が……」
「あっ、すみません」

 少し慌てたように剥がれかけた絆創膏を指で貼り直した京極君の頬が紅く染まっている。照れ隠しなのか、かけていた眼鏡を外し丁寧に拭き始める姿に視線が奪われた。だって眼鏡をしてない姿を見るのは初めてで、意志の強そうな瞳がいつもより鮮明に見えるから。
隠れていた古傷と一緒に視界に入ってしまったそれを、軽く口にすることができないでいる私は、今どんな顔をしているのだろう。とにかくなんでもいい、何か言わないと。逸る心を落ち着かせるように「それにしても本当暑いよね。クーラー直してって感じ」なんて当たり障りのないことをやや早口で言ってはみたものの。

「昨日の夕方に空調は直してもらったと牧野先生から聞いていましたが、もう少し温度下げましょうか?」
「っ、あっ……そうでした」
「頬が少し赤いようですが、保健室に行きますか? 熱中症で倒れたら大変です」
「違うの! そういうんじゃないから、多分」

 心配してのことだろうが、どんどん私との距離を縮めてくる京極君を慌てて静止した。おそらく今の私にそれは逆効果というやつだからだから。一度意識すると相手の顔を直視することはなかなかに困難で、この現状をどう打破するべきか下を向いて考えこんでいると。

「おーい。ちゃんと勉強教えてんのか」

 いつの間にそこに立っていたのか分からないが、後方の扉から顔を出していたのは牧野くんだった。あまり見られたくない場面を見られてしまったが、丁度いいところで声をかけてくれた。

「ちゃんと教えてたって! ごめん京極君、少し早いけど今日はここまでってことで!」
「あっ」
「牧野くん! ほら、今日はクッキーアンドクリームだよ!」
「って、お前本当に毎日アイスたかる気か!」

 何か言いたげにしていた京極君に心の中で謝りながら、文句を言う牧野くんの腕を引っ張って逃げ出すように教室を後にした。
 自分の中に生まれた小さな芽をどう摘み取ればいいか分からない私はその日、溶けかけのアイスクリームを流し込むように完食し自宅まで無我夢中で走ったのだった。



 今日で最後の夏期講習だというのに、先生の話は何一つ頭の中に入ってこなかった。クーラーはすっかり調子を取り戻したというのに、私の脳は正常に働いてくれない。講習を終えた生徒たちが次々帰っていくなか、ぼんやり外を眺めながら今日もあの人が来るのを待つ。そんな生活も今日がおしまいなのか、と小さく溜息を零してしまった。
 コンコンと二回連続叩かれた控えめなノック音。この音で頬が緩んでしまうのはいつからだったろうか。「どうぞー」と扉の向こう側にいるであろう京極君に声をかけると、遠慮がちに引き戸が開けられた。

「今日も暑いですね。お疲れさまです」
「本当だね。……って、なにそれ?」
「好みが分からなかったのですが、牧野先生からバーゲンダッシュにすれば間違いないと聞きまして」

 机の上にどさっと置かれた白い袋からはかすかに冷気を感じる。中から出されたのはいつも見るカップアイスではなく、箱に入ったバータイプのものだった。

「えっ! 高いやつじゃん!」
「そうなのですか? 昨日妹に聞いたら、これなら相手方に喜んでもらえると聞きまして……」

 妹いたんだ。と、彼の意外な一面をまた見つけてしまった喜びと私のためにアイスを買ってきてくれたことの嬉しさで、先ほどまでのぼんやりした思考が一気にクリアになった。京極君のことだからきっと、昨日の帰り際牧野君に言った台詞を聞いてわざわざ買ってきてくれたのだろう。

「すっごく嬉しいよ。溶けないうちに食べちゃお」
「あっ、いえ……自分は大丈夫ですので」
「もしかして、私の分しか買ってきてないの?」

 「お礼の意味で買ったものだったので」と後頭部に手をまわし、今日も困ったように笑う京極君。さすがの私も一人だけこんな贅沢な思いをするのはなんだか気が引けてしまう。そこで閃いたことは、行動に移すには少々勇気のいることだったけれど、今日の私はどこか図太くて考えるよりも先に手が勝手に動いた。

「……あの?」
「私だけ食べるのはなんか嫌だから。一口あげる」
「っ、そんな、困ります!」
「京極君が食べないなら私も食べない」

 意地の悪い言い方をしていると自分でも思う。ぐっと喉を詰まらせたあと、眉をハの字にした京極君は「では、頂きます」とだけ言ってアイスバーの先端部分を一口かじった。ごつごつした彼の大きな手に、バーを握る手ごと包まれ一気に体温が上昇した。熱伝導タイプのバーなら、一瞬にしてアイスが溶けてしまう。自分から仕掛けておいてなんだが、彼の天然っぷりには困ってしまう。この距離に胸を高鳴らせているのも、二口目私が口をつければ間接キスになると体を強張らせているのも、きっと私だけ。

「……京極君のさ、その絆創膏」

 アイスを口に含みながらそれだけ言うと、途端に京極君の体が硬直した。あぁ、やっぱりアイスバーは贅沢な味がする。最高だな。甘酸っぱいストロベリーアイスが口の中でゆっくり溶けて、食道から胸へと流れていく。私の胸につかえているものも、このまま一緒に流してほしい。

「ごめんね、昨日見ちゃった」
「っ、これは、その……」
「彼女?」
「っ!! そ、そんなっ……! 一方的に行為を寄せている、といいますか……」
「プリクラくれるってことは、結構いい雰囲気なんじゃないの〜?」

 茶化すように言うと、京極君は恥ずかしそうに口を閉ざし左眉の絆創膏にそっと触れた。大切なものを扱うようなその仕草に、チクリと胸が痛んだ。

「やはり女々しいでしょうか?」

 視線を逸らした先に何を。否、誰を見ているのかは分からないけど、それが京極君にとってとても大切な人なんだということだけはよく分かる。紅く染まった頬をかいて居心地悪そうにしている姿は、日本一強い男とはかけ離れていた。

「なんで? いいと思うよ。少なくとも私は」

 安堵の表情を浮かべる京極君を見ながら、最後の一欠けらを口に含んで飲み込んだ。冷たくて甘いものがどろどろと胸へと落ちていく。この感情が育ってしまう前に今日を迎えられたことはとても幸運だった。
 アイスを食べ終えたあとはいつも通り英語の勉強。最低限の英会話ができるよう急ピッチで進めてしまったけど、なんだかんだ問題なさそうなレベルまで達してしまっているから驚きだ。

「京極君なら、アメリカでもうまくやっていけるだろうね」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方だよ」
「えっ?」
「昨日、凄いですねって褒めてくれたの。実はね、すっごい嬉しかった」
「そんな、自分は思ったことを言ったまでです」
「だーかーら。京極君に言ってもらえたから、嬉しかった。ありがとう」

 “I found the thing I want to do from now on”
さすがにネイティブとまではいかないが、スラっと出てきた私の言葉を受けた京極君は目を大きく見開いて嬉しそうに顔を綻ばせた。

「本当ですか!」
「まぁ、どうなるか分かんないけど……。京極君のおかげ」
「自分はそんな、感謝されるほどのことはしていません」

 私の心をめちゃくちゃにしておいて何を言う。出かかった言葉をなんとか押し殺してもう一度お礼を言うと、照れ臭そうな笑みをくれた。数日後、彼は日本を発つ。見送りに行けるような関係じゃない私は、彼とここでお別れである。

「じゃぁ私、職員室寄ってから帰るね」
「はい。四日間本当に有難う御座いました」

 昇降口で彼の大きな背中を見送る。オレンジ色に染まった空が眩しくてつい瞼を閉じてしまいそうになるが、ギリギリまで彼の姿を目に焼きつけておきたかった。夏休み明け、いつもの席にもう彼はいない。次帰ってくるのはいつか分からない。そう思ったのと、足が前へ駆け出したのはほぼ同時で。

「っ、京極君!」
「はいっ!」

 条件反射というやつなのか。私の声に反応して、ぴっと姿勢よく返事をする彼が好きでたまらない。

「I adore you!」

 いろんな意味を込めて叫んだその言葉に京極君は一瞬緊張した様子で、そんな些細なことがなんだか嬉しかった。視線を上に集中させ少し考えこんだあと「Me too!」と答えてくれたこの瞬間。私は京極君の友人になれたのだ。




「失礼しまーす」
「お、もしかして勉強終わったのか? お疲れさん」

 教室より何倍も快適な温度設定の職員室に足を踏み入れると、パソコンと睨めっこしていた牧野くんが私の声に反応し声をかけてきた。

「……人に勉強を教えたり、何か手助けしてあげたいって思ったら。どういう進路に進めばいいと思う?」

 びっくりしたような牧野くんの顔から逃れるよう少し俯く。大人にはなんでも見透かされているようで、少し気恥しかった。ゆっくり顔を上げると、そこにはすごく嬉しそうな牧野くん。さっきまでの疲労感でいっぱいだった顔はどこへやら。

「夏休み明けの調査票が楽しみだ」
「ハイハイ」
「……京極が帰ってくる日分かったら、一番に教えてやるよ」
「っ、うっさい!!」

 やっぱりなんでもお見通しだったようで、ニヤニヤしてる牧野くんの腕を軽く殴っておいた。
 来年の今頃、自分がどうなっているかなんてまだ想像もつかないけれど。彼に失望されることのないよう、また「凄いですね」の一言が聞けるよう頑張ってみよう。こっそりと自分の中でそう決意した。
 今日もグラウンドからは運動部の声とボールの弾け飛ぶ音。蝉の大合唱。私はこの夏を一生忘れない。


DCオールキャラ夢アンソロジー
『世界はこんなにも美しい』寄稿作品



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