コーヒーと恋とカフェインと 3


「お願い出来るような立場ではないことは重々承知しております。先生、出来ればでよろしいんです。先生のように訴える場所をお持ちの方にほんの少しでもいいからコーヒー農園の現実を世間に伝えて戴きたいと思っているんです。本当におこがましいですが、僕にはこんな風にコーヒーを提供することくらいしか出来ませんから」


 参ったな。
 部屋に戻った鴨井は文字通り頭を抱えていた。パソコンを立ち上げ、原稿用紙に書きなぐった文章を清書しながら打ち込んでいく途中、必死に訴えてきたマスターの顔が浮かんでは消え、また浮かんでは消えていった。
 控えめな声だった。
 けれど真っ直ぐなあの眼差しに「そうしてやってもいいよ。でもその変わり…」と自分でもヘドが出そうな台詞が喉の際までせり上がってくるのがわかった。
 美しいあの人の助けになりたい。けれどそれと同時にあの心の美しさも踏みつけて、ぐちゃぐちゃに汚してしまい想いもあった。


「俺はいつからこんな薄汚い人間になったんだ?」


 いや、そうじゃない。鴨井はひとりごちる。
 元々、自分の中に美しいものを愛しながら壊したいという願望があっただけだ。それがマスターとの出会いで引きずり出されただけのことだ。
 体の内側に潜む凶暴性を抑えるために、それを少しずつでも解放していくために物書きになったのだ。長年の作家生活の中ですっかり忘れ去っていた事実だが。


 堪らず体を動かすと、ふいにコーヒーの香りが鼻についた。さっきまで着ていたジャケットに香りが移っていたらしい。
 鴨井は座っている椅子の背凭れにかけたジャケットに鼻を近づけて、スンと香りを吸い込んだ。
 穏やかに微笑むマスターの顔が浮かんで、胸がキュウと絞られる心地がした。


 この気持ちは何だろう。この甘酸っぱくも切なくて苦しい感じは。指先がチリチリと痺れて、思わず机を叩いてしまうこの苛立ちは。
 笑った顔も、泣いた顔も見たいと思わせるこの裏腹な心は。
 泣きたくもないのに、涙が溢れそうなこの状態は。
 ずっとずっと心の奥底に置き去りにしてきた淡く心許ない不可解な生き物が、いま鴨井を飲み込もうとしていた。


 カフェインは恋心に火をつけるのだろうか。
 いやいや、決してそうではない。
 だって、カフェインは吊り橋と同じ。渡り切ってしまえばドキドキもなくなるのだ。
 もしも、ドキドキする気持ちが続くなら、それはきっとカフェインのせいではない。
 それはきっと自分でも気づかぬうちに、小さな恋の種を心の庭先に植えていたせいだ。


【コーヒーに含まれるカフェイン成分は副交感神経を刺激して、精神的な安らぎや冷静さをもたらす一方、同時に交感神経も刺激するために体温を上昇させ、心臓の動きを活発にする作用がある。朝にコーヒーを飲み目を覚ますというのは正しい使い方だ。しかし、カフェイン成分は飲用してから30分以上経たないと効果はなく、2時間も絶てばその効果は消えてしまう】

〜コーヒー辞典より引用


【fin】


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