コーヒーと恋とカフェインと 1
世の中には恋の吊り橋理論というものがある。
吊り橋を渡る時のドキドキした気持ちが、恋に落ちる時によく似ているのだと。
僕たち人間は、心臓が痛いほど脈打つ状態を「恋」と勘違いする脳みそを持っている、悲しくも哀れで、それでいてどこか憎めない生き物なのだ。
傍らに置いてあるマグカップからコーヒーをひと口含みながら、そういえばカフェインにも似たような作用があることを思い出した。
カフェインは副交感神経に作用して心を落ち着かせる効能があると同時に、交感神経にも作用して体温を上昇させ心臓の動きを活発にさせるのだという。
ならば、人間はコーヒーを飲むたびに恋に落ちなくちゃならない。
そう思いながら僕は、鼻腔をくすぐる香りにこの恋の言い訳を考えてみる。
…と、ここまでペンを走らせて、鴨井は机にある小さなデジタル時計を見やった。時刻は午前7時を回ったところだ。
大きく伸びをひとつして、インクで汚れた指先がやや伸びかけたあご髭を撫でる。剃ろうかどうしようかと思いながら立ち上がると、知らぬ間にジャケットを握っていた右手に気づいて、ひとり苦笑した。
身支度を整えたい気持ちよりも早くあの場所へ行きたいのだと想い知らされたようなものだ。
鴨井は財布をお尻のポケットに捻り込み、部屋の鍵と携帯をジャケットの内ポケットに忍ばせる。
本や紙や、そこに溜まった埃や積年の想いを投げたまま、鴨井は朝日が照らし始めた街中へ足を踏み出した。
目覚め始めた街は、ヒンヤリとした空気と、これから賑やかになるであろう前触れの静けさに包まれている。
それは夜通し細かい文字を追っていた目と、ぎちぎちに言葉の詰まった頭の熱を冷ますかのようだ。
ひょろりとした体を少しだけ前屈みに歩く鴨井の姿は、まるで都会に紛れ込んだ野生のキリンだ。紺色のスーツの群れの中を、のっそり、のっそり、回りの視線などお構いなしに歩く。
そうして、たどり着いた店のドアをゆっくりと開けると、柔らかな声に迎えられていつもの窓際の席に滑り込むように座る。
いつの間にやら仕事場の近くに開店していた喫茶店は、オフィス街の片隅にありながらも品良く落ち着いた雰囲気をしていた。
【お店】という奴は、経営者の趣味と人となりが一目瞭然でわかると鴨井は豪語している。
ここは、この「hiro」という喫茶店は、カウンターの中に立つ若き経営者の穏やかさをそのまま映し出してると感じていた。
昔ながらの喫茶店のようなアンティークな空気感と、それでいて現代的な無駄のないすっきりとした照明やインテリア。磨き込まれたカウンターは木目がはっきりと見えるほどだ。テーブルの広さ、椅子の深い座り心地。
ここは日本というよりも、どこかイタリアの古き良きバールを彷彿とさせる。
こんな店、なかなかお目にかかれない。
初めてこの店に来た時、鴨井は仕舞いこんだ宝物を見つけた子供の眼差しで、辺りを眺めていたほどだった。
そして、メニューを携えたマスターを目に捕らえた時、その想いは更に強くなった。
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