夜明け 9
天気予報は夕方から雨だから折り畳み傘を持っていけという母親の言葉を聞いておけば良かったと思ったのは、学校帰りの最寄りの駅に差し掛かった時だった。
駅の屋根を覆い尽くすように広がり始めた黒い雨雲は、ポツポツと雨粒を落とし始めたかと思うと、小走りに駅に向かう人々を追いかけるかのように強い雨脚を見せ土砂降り状態になった。
慌てて近くのビルの軒先に逃げ込んだ佐倉は、そこの硝子扉に貼られている1枚のポスターに気づいた。
【戦場カメラマン・廣田孝秋の世界。〜希望の光を探して〜】
何気なく目に入ったポスターだった。
けれどそのポスターの真ん中あたりに書かれていた不思議な曲線(後でわかったことだがアラビア語だった)が気になったのと、雨が止むまでの間の時間潰しにもなるだろうとフラフラと会場に入っていったのだ。
入場は無料で、受付で制服をきちんと身につけた女性からパンフレットを差し出され、ドキマギしながら受けとると壁一面に並べられた大きな写真パネルに目を走らせた。
戦場写真だから凄惨な場面ばかり撮られているのだろうと思っていたのだが、そこにあったのは酷い環境に置かれながらも明るく笑顔を絶やさない現地の人々の暮らしが垣間見えるものばかりで、佐倉は驚きながらも会場の奥へ足を運び続けた。
そうして、とても不思議な1枚の写真に目が留まったのだ。
砂漠だろうか。
何もない白茶けた大地が広がり手前には大きな岩がゴロゴロと転がっている。その横には建物の残骸らしきものが剥き出しで崩れて山になっている。
その岩場の向こう側。ゆっくりと昇ろうとしている朝日が見える。
岩場の上に何かが乗っている。白くて細いもの。岩に腰掛けているような姿をしているが人間ではなく、それはかつて人間だったものだ。後ろから昇ってくる陽に照らされて逆光になりながらもうっすらと画面に浮かび上がるその姿。
骨だ。
首のない上半身だけの人間の骨。骨盤に支えられた背骨はすっくと立ち上がり、緩やかに曲がる肋骨はそこにあったはずの心臓や肺を今でも守るかのような頑丈さがあった。
けれど、そこにはもう命はないのだ。
佐倉は呆然とその写真の前に立ち尽くしていた。
知らぬ間に隣に立っていた男性に声を掛けられるまで、そこを動くことができなかった。
佐倉はこの時初めて、美しくて恐いものの存在を知ったのだった。
そうしてその時、声を掛けてきたのが写真家の廣田孝秋その人であった。学生さんが見に来るなんて珍しいと喜ばれ、止まない雨に立往生していた佐倉を自宅まで車で送ってくれ、そこから交流が始まり今に至る道が出来上がったのだ。
厳しくも優しい眼差しを持った廣田の元で、佐倉は写真の基礎から学んだ。
アシスタントから独立を果たし廣田と同じく戦場をカメラの舞台に選んだ時、彼から言われたひと言があった。
「余計な事は言わない。ただ、これだけは言わせてくれな」
「はい。何ですか」
「……死ぬなよ」
困ったような顔をして呟かれた言葉を、佐倉は決して忘れないだろうと思った。
短くも、重く、想いのこもった言葉だった。
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