春の舟 8


「運命ってあると思いますか?」


 棗は時を経ても、尚、出逢った叔父達をほんの少し羨ましく思いつつ問いかけた。
 男は棗の気持ちに気づいたのか、棗の肩を優しげに叩くと口元に穏やかな微笑みを浮かべた。


「運命って、命を運ぶと書くでしょう? 運命って奴は逃れられないものではなくて、自分で決めるものなんだろうと思っています。誰かや何かに背負わされるものではないんですよ、きっと。だから私は今日の自分をラッキーだと思っています」
「え、ラッキー…なんですか」
「はい。あなたに逢えましたからね」


 男ははっきりとした口調でそう告げると、棗に笑いかけた。
 棗は急に恥ずかしくなって、視線を辺りにさまよわせた。


 その時、強くつんざくような海鳥の鳴き声が耳に飛び込んで来た。
 自分達の領域からなかなか出ていかない人間に業を煮やして、辛抱堪らず騒ぎ出したようだ。


「おっと、これは不味い。そろそろ退散しなくては」
「そうですね。目的も果たしましたし戻りましょうか」


 ふたりは元来た場所へと歩き始めた。
 風に煽られて錆び付いた鎖がシャラシャラと音を立てるのを聞きながら、慎重に階段を降りていった。
 潮風が時折ふたりの髪を巻き上げては、岩場を吹き抜けていく。
 棗はその風を追いかけるかように岩場を振り返った。さっきまでそこにあった灰は、もう跡形もなくなく消えていた。


 ああ、終わったんだな。
 棗は胸の内で呟いた。
 何が?…と問われれば上手く伝えることは出来ないけれど、確かに何かが一区切りついたのだと思っていた。


 切り立った岩場の階段を降りると、ボートの縁に座ってタバコを燻らせていた漁師の親父がふたりに気づいて手をあげてみせた。


「おかえんなさい」
「お待たせしてしまって申し訳ないです」
「いんや、ええよ。用事は済んだんじゃろ」
「はい無事に」
「そうか、それは良かったなぁ。さ、早よう乗りんさい」


 親父はウンウンと頷きながら、タバコをくわえたまま岩場に巻き付けた縄を外し始めた。
 ふたりは促されるまま、再びボートに乗り込んだ。
 唸りをあげるモーター音が腹の底に響くのを感じながら、棗は今一度、岩場を振り返った。


 青く輝く海から、黒くゴツゴツとした塊が飛び出しているのが見える。その上には少しの緑が生え、数えきれないほどの海鳥が飛び交っている。
 その鳴き声は棗に不思議な郷愁を思い起こさせた。


「不思議ですね」
「何がですか?」
「だって、今さっきまであそこにいたのに、何だかもの凄い時間がたったみたいな感じで」


 棗は動き始めたボートに掴まりながら、隣に座る男にそう答えた。
 男も棗と一緒に遠ざかっていく岩場を振り返りながら口を開いた。


「ほんとですね。もうこの場所に来ることはないからそう感じるのかもしれませんね」
「ああ、そうか」


 棗は上がっていくボートの速度と共に、流れている時間までもが同じく速度を上げているように感じていた。
 時間を止めることはできないんだ…なんて、当たり前のことを思いながら。
 自分の隣で髪を乱している男を見上げて、少し前に言われた言葉をふと思いだし、急に体温が上がるのを感じていた。



 運命は自分で運ぶもの。


 ならば、向こう岸にたどり着いたら何かが始まるのかもしれない。
 棗は淡い期待を胸に前方向へ向き直った。


 晴れ渡る空から降り注ぐ陽光に、青く輝く海の上を軽やかに滑っていくボート。


 棗の気持ちも一緒に滑っていく。



【Fin】


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