春の舟 6


 静かに涙を流す棗から男はそっと視線を外し背中を向けた。
 自分は何も見ていない、さあ今のうちに早く涙を拭って下さいと言いたげな素振りだった。
 棗は慌ててシャツの袖口で顔をゴシゴシと擦ると、意を決したように息を吸い込み、背筋を伸ばした。そして一歩前へ踏み出した。


 黒く突き出た岩場の向こうには、光に輝く青い海が広がっていた。
 柔らかな風が棗の猫っ毛を撫であげ、白いシャツの裾をはためかせる。
 棗は出来る限り腕を伸ばして、握っていた小瓶をくるりとひっくり返した。


(これでほんとにさよならだね)


 心の中で棗は小さく呟いた。その途端、治まりかけていた涙がまたじんわりと滲んでくるのを感じて、軽く頭を横に振った。
 サラサラと零れ落ちていく遺骨は、風に煽られ、辺りに散々になっていった。幾つかは海に沈み、幾つかはこの岩場に散って。
 いつの日か自分自身も含む全てが消えていくのだろうと棗は思った。


 伸ばしていた腕をゆっくりと戻しながら、空になった小瓶をギュッと握りしめると棗はおもむろにそれを海に向かって投げた。
 美しい放物線を描きながら小瓶は波間に落ちていった。それを餌か何かと勘違いした海鳥が鳴きながら後を追いかけ、海に飛び込んでいく。
 現実感のない風景だった。


「終わりましたか?」


 何も言わずに背を向けていた男が口を開いた。
 小さく頷きながら棗が振り返ると、男は驚くほど優しげな、棗を労るような眼差しで微笑んでいた。


「さて、次は私ですね。申し訳ないんですが、日記帳が燃え尽きるまでお付き合い願いたいのですがよろしいですか?」


 男は棗の返事を待たずにその場にしゃがみこむと、ポケットからライター用のオイル缶を取り出し、岩場に置いた日記帳に掛け始めた。
 オイルのむせかえるような独特な臭いが棗の鼻をついた。
 男は躊躇もせずにライターで火を放った。


 ボッ…と音をたてて火花があがり、みるみる間に日記帳は真っ赤な炎に包まれた。
 表紙が捲りあがり、白いノートの部分がチラチラと揺れながら燃え上がり、黒く色を変えながら灰になっていくのがわかった。
 そこに何が書かれていたのか分からないけれど、文字と共に綴られた想いも、夢も現実も、燃えて消えていくのだ…誰の記憶に残ることもなく。


 想い出すら消えていくとしたら、それは故人にとってどんな心地がするものなのだろうか、とてつもなく悲しく寂しいものではないかと棗の心は震え上がった。
 燃え上がる炎は日記帳を食い尽くすと、ゆっくりと勢いをなくしていった。そしてそこに残ったのは、黒く縮み上がった想い出らしきものの残骸だった。


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