春の舟 1


 叔父との約束を果たすにはある程度の日にちが必要だった。


 必ず出席しなければならないゼミがなかったことと、土日祝が上手く重なったことで遠出が可能になり、棗はホッと胸を撫で下ろした。
 バスが揺れる度に、持ち出した小さなボストンバッグの中からカタカタと軽い音が聞こえてくる。箱に納められた透明の小瓶が奏でる音だ。
 それはいつでもどこでも、心穏やかに笑う叔父との日々を思い起こさせた。


 叔父は元々、身体があまり丈夫ではなかったと聞いていた。それなのに、何故ごみごみとした空気の悪い東京の夜の繁華街で接客業などしていたのかと疑問に思っていた。
 さらに勤めていたお店はお酒を扱い、酔っ払った客相手に笑顔を振り撒かなければならないようなところだ。身体が丈夫ではない人間には体力的にも精神的にもツラい職場ではなかっただろうかと。


 棗は窓の外に流れていく風景に目を向けた。
 どこまでもまっすぐ続く道路の周りはあまり家らしい家はなかった。
 鬱蒼と茂る木々と、ゴツゴツと硬い肌を剥き出しにする灰色の岩と、その間からチラチラと見える青い海ばかりでどこにも人影らしいものが見えず、まるで世界から見捨てられた無人島のような有り様だった。


 けれどここが、この現実から切り離されたような小さな島が叔父の生まれ故郷だ。
 ここにたどり着くまでにどれだけの時間が掛かっただろうか。
 日本国内だというのに、新幹線から在来線に乗り換え、そこから今度は船に乗り、今はバスに揺られてそれでもまだ目的の場所にはたどり着かない。同じだけの時間があれば隣の国に遊びに行けるほどだ。


 東京に生まれ育ち、何でも便利に手が届く暮らしをしてきた棗にとって、こんなに時間をかけてもたどり着かない場所が国内にあることが不思議で、ある意味新鮮でもあった。


 緩やかな春の空に、陽射しはほんのりと明るく棗の髪を照らし出した。
 叔父とは顔も体つきも似ていない。しかしどうしてだか髪質だけは同じようにペタリとした細く茶色い猫っ毛だ。
 叔父の薄い身体と、細く長い手足を見て羨ましいと思ったこともないけれど、お店で接客する時の制服姿は身内の欲目なしでもさまになっていたし、格好良いなと感じたことは事実だ。
 そして、少し酔ったお客に抱きつかれたり、腕をひかれたりするのを目の当たりにして、モヤモヤとした胸の疼きを感じたのも事実だった。


 あれは初恋だったのかもしれないと今にして思う。
 繊細で、柔らかで、ふわりと微笑む叔父の持つ暖かな雰囲気に、自分はこの世に存在していていいのだと、ありのままの自分でいればいいのだと許されているような気がしていたのだ。
 それはきっとあのお店に集う客達も同じ思いだったに違いない。


 世間ずれした自分の価値観や生き方。親には告白できない性癖。それら全てを引っくるめて、多くを語らずカウンターの向こうで静かに微笑む叔父に救われていたのではないだろうか。
 父は苦々しい顔をしていたけれど、寡黙で物静かな叔父の葬儀にあんなにも沢山の人々が弔問に来てくれたことが何よりの証拠だと棗は独り頷き、膝の上に乗せたバッグをそっと抱き寄せた。


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