Chibi 11



 晴れてはいるけれど、どことなく煙ってみえる都会の空に吸い込まれるようにチビは飛んでいった。
 その姿を川上は穏やかな気持ちで見送っていた。
 すると、いきなり間延びしたインターフォンの音が部屋に響き渡った。
 続けて激しくドアを叩く音と、川上の名前を頻りに叫ぶ声が聞こえた。


「川上さん、いるの? いるなら返事して! 川上さん!」


 聞き覚えのある声だ。
 しかし、なんであの人が自分の部屋なんかに来たんだろうか。
 首を傾げながらも川上は寝室を出ようとしたのだが、ガチャガチャと乱暴に鍵を開ける音がそれを阻止した。


「川上さん、大丈夫なの? いるの? あたしよ、ママよ、返事して!」


 声の主はドタドタと玄関に上がると、野太い声をあげながらリビングへ駆け込んでいった。
 そこに川上の姿がないことを確認すると、後から入ってきた数人の男性に全ての部屋を探すようにお願いをしていた。


 バーのママか。
 なんでまた…?
 それに一緒に来た奴らは誰なんだ?


 川上は不思議な気持ちでママが現れるのを待っていた。
 あちこちの部屋を右往左往した後、たくさんの足音はやっと寝室の前に集まり、ドアを軽くノックしたかと思うと「川上さん、生きてるの?」という物騒な言葉と共に数人の男性がどやどやっとなだれこんできた。


「川上さんっ、大丈夫なの?」


 ぼんやりと立ち尽くす川上の姿を認めると、ママは慌てて川上にすがり付いた。
 そして、部屋の惨状に気がつき言葉を失った。


 広々とした寝室のあちらこちらに空ビンが転がっている。
 ウイスキーや焼酎、ワイン、日本酒、その他に山のようなビールの缶があった。
 ママはすがり付いた川上の顔をまじまじと見つめた。髪はボサボサで髭は伸びたまま。着ている服はあの日店に来た時と同じものだった。


「ママ、あのさ、俺、話したいことがあったんだよ」


 川上はママを優しく見下ろした。
 部屋は噎せるようなアルコール臭と煙草の煙りが混ざった空気が漂い、その中に何か別の独特な匂いが紛れ込んでいた。


「チビがさ、…いっちゃったんだ。俺から離れて、独りでいっちゃったんだよ」


 その口元は薄く微笑を浮かべ、川上の両腕を掴んだママをそっと抱き返す素振りをしてみせた。


「ベッドの上にあるのがチビの脱け殻だよ」


 そう言われたママは川上の背後にあるベッドに目を向け、そこにある異様なものに「ああ、」と悲鳴のような、嘆きのような声をあげ、その場に崩れ落ちた。
 川上はママの後ろで立ち尽くしている男たちに視線を投げた。
 見覚えのある人たちだった。鍵の束を手にしているのはマンションの管理人で、スーツを着ているのは普段は顔を合わせることのない会社の上役だ。
 ……そして。


 さらに後ろに控えている人物には心当たりはなかった。
 厳つい帽子を被り、肩や腰に鎖のようなものをつけた制服姿の男。
 彼は部屋をザッと一瞥すると、携帯電話を片手に部屋を後にして何やらどこかに連絡をとっているようだった。


「何で、何でこんなことに…」


 床にへたりこんだママが呟く声が聞こえた。
 自分にだってわからない…と川上は思った。
 何でチビが繭玉になってしまったのか。何で紋白蝶になって飛んでいってしまったのか。
 そもそも、チビをどうやってこの部屋に連れ込んだのか。何故、チビはそれを拒まなかったのか。
 …何でママが泣いているのか。


 何にもわからなかった。


 ただ、川上はこの数ヶ月とても幸せだったのは事実だが。その他のことは何ひとつ実感がなかった。
 夢か、現実か、はたまた願望が見せた幻だったのか。


 チビはいなくなってしまったけれど。
 どうやらママが見ている現実と、自分の現実が少しばかり違うようだと気づき始めてはいたけれど。


 春の兆しを見せる暖かな日射しが部屋にさし込み、微動だにしない川上の顔を明るく照らし出した。


 川上は笑っていた。

 幸せな夢を見ているかのように笑っていた。


【fin】


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