Chibi 10


 右へ左へとふわふわ飛び回る紋白蝶に、川上は幼い頃の自分を思い出していた。


 見渡す限りの田園風景。

 春には色鮮やかな花が咲き、夏には緑成す風が吹き抜ける。秋には稲穂の波が金色に輝いて見え、冬は全てが雪で真っ白になる。
 森の中で手掴みで食べた木の実の甘酸っぱさや、よじ登った大木のゴツゴツした手触り。虫取網を振り回して追いかけた蝶やトンボ。木の幹を蹴って落としたカブトムシ。
 地平線の向こうに落ちていく夕日に、まだ家に帰りたくないとただこねて、わざとゆっくり歩いた田んぼの畦道。指先が痺れる湧き水の冷たさ。落ちてきそうなほどの星空。
 全員の顔と名前がわかる学校。のんびりとした話し方とゆったり流れる町の時間。


 毎日山道を駆け回り、転んでは擦り傷を作った膝小僧は未だにあの日の傷を残している。
 山間にポツンと残されたような小さな町で、たくさんの人や家や、大きな商店らしいものはなかったけれど、その分溢れんばかりの自然に囲まれていた日々。


 もう戻ることはない故郷だ。
 思春期には自分の性癖のせいで辛い思い出しかないあの場所。
 ふらふらと飛び回る紋白蝶は、川上に懐かしさと一抹の寂しさを思い出させた。


「懐かしいな。……でも、もう帰れないんだ俺は」


 しばらく辺りを飛び回っていた蝶は、窓に近づきフワリとカーテンに羽を休めると、隙間から覗く朝日に誘われるかのようにそこから動かなくなった。


「外へ出たいのか? まだ春には早いぞ。都会は意外に寒いんだからな」


 川上は柔らかな口調で蝶に話しかけた。いつも穏やかにチビと接していた時と何ら変わらない様子で、あくまでもこの紋白蝶はチビなのだと信じて疑っていなかった。
 川上はベッドから降りると窓に近づき両手でカーテンを掴んだ。そして勢いよく左右に開いた。シャッ…というカーテンレールの擦れる音が響いて辺りが一気に明るくなった。
 川上は眩しげに顔をしかめたが、聞こえてくる喧騒とそこから見える街並みの変わらなさにどこかホッとしていた。


「晴れてるな」


 川上は空を見上げ微笑んだ。
 雨が降る様子もない。これならチビが外に出ても大丈夫だ。
 川上はカーテンにしっかり捕まっているチビを見つめた。片手で握りしめれば簡単に死んでしまう小さな蝶になってしまったけれど、チビに変わりはないのだと思った。
 そしてドアの鍵に親指を引っ掛けてそろそろとドアを開け始めた。


 思った以上に冷たい風が体を包み込んだ。
 部屋に数日淀んでいた空気が逃げ出し、サラサラに乾いたソレと入れ換わっていくのを感じた。
 チビはその空気の動きを感じたのかふわりと舞い上がり、川上の肩先から外へ出ようと羽ばたき始めた。


「行くのか?」


 川上は呟いた。
 部屋に閉じ込めておくことは出来ないとわかっているけれど、やはり居なくなってしまうのは寂しかった。
 せめて自分が帰ることのできないあの故郷まで、飛んでいってくれないだろうか。鳥ほどの強い翼も、タンポポの綿毛ほどの軽やかさもないちっぽけで弱い羽しかないチビだけれど。
 せめて空気のキレイな、あの山間の田舎町にたどり着いてはくれないだろうか。


 川上はそんなことを思いながら、今まさにドアから外へヒラヒラと舞い出たチビを見つめていた。


「たどり着けるかな、あそこまで。なあ、チビ。また誰かに助けて貰いながら飛んでいけよ。一気には無理だからな、気をつけていけよ」


 紋白蝶はまるでその言葉を理解したかのように、一瞬、川上の指先にとまるとすぐさま小さな羽を懸命に動かして飛び出していった。


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