Chibi 9



 遠くで電話のベルが鳴っている。


 数回鳴っては切れ、また再び鳴り始める。
 その人工的な音にイライラした川上は電話の配線を元から抜いてしまい、メールと着信でいっぱいになっている携帯電話も電源を落とした。


 夢うつつの時間が流れた。


 川上は巨大な繭玉を抱きしめたまま、うつらうつらと眠っては時おり起き出し、適当に飲み食いをして過ごした。
 あれから何日が経ったのかわからない。
 時間と日にちの感覚が麻痺して、夜も昼も曖昧になっていくのを川上は感じていた。
 腕の中にチビがいる。その現実だけを生きたい。生きていたいと川上は思っていた。


 しかし、時は無情にも現実とささやかな幻すら奪っていく。
 規則的な鼓動を打っていた繭玉に変化が訪れたのだ。
 突然、川上の腕の中でパキパキと何かが割れるような音がしたかと思うと、巨大な繭玉の表面に大きな亀裂が走った。川上は繭玉を確認しようと慌てて身を起こした。
 そして縦にザックリと割れた繭玉の、その亀裂を恐る恐る覗き込んだ。
 小さく華奢で、真っ白な肌をしたチビがそこに眠ってないかと淡い期待を胸にして。


 川上が亀裂を覗き込むと、何か微かに動くものがあった。
 何だこれは……と思いながら亀裂に触れると、そこからいきなり小さなものが飛び出してきて、川上はビクッと体を強ばらせた。
 一瞬、それが何なのか川上にはわからなかったが、顔を近づけてよくよく見てみると、それは子供の頃からよく見知ったものだった。


 とても小さくて白いもの。


 表面に黒い斑点があり、ふわふわと動くもの。


 幼い頃、自然豊かな街に暮らしていた川上が飽きもせず追いかけ回したもの。


 それは指先に乗るほどの小さな紋白蝶だった。


 川上は突然現れた蝶に驚きながらも繭玉に手を伸ばし、亀裂に指を差し込んでバリバリと縦に繭玉を引き裂いた。
 中には何もなく、フカフカと柔らかい繭の白い糸が密集しているだけだった。
 もしかしたらそのままの姿でチビが眠っているかもしれないという川上のささやかな希望は無惨にも消え去った。



 繭玉から現れた小さな紋白蝶は、ヒラヒラと辺りを飛び始めた。


「…チビなのか?」


 川上は紋白蝶を目で追いながら、しゃがれた声を出した。
 もうずっと誰かと会話らしい会話をしていなかった。


「チビ、これは本当に夢じゃないんだな? 現実に起こっていることなんだな?」


 目の前を不安定に飛び回る紋白蝶に、川上は独り呟いた。
 閉めきったカーテンの隙間から日射しが差し込んで、あれから何日目かの朝を迎えていることを知らせていた。


 川上は動き回る紋白蝶を捕まえようと指先を伸ばした。
 もう少しでというところで、小さな白い蝶はその身をひらりと翻し、決して捕まることはなかった。


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