Chibi 8


「困ったことになっちゃったのよ」


「地上げ屋がね、この界隈にも来てるの」


「うん、あたしは店を借りてる身分だから文句は言えないし、それは仕方ないことだからいいのよ。ただね、あたし独りならどうとでも生きていける。また店だってやろうと思えばやれるわ。でもチビは…」


「あたしも中途半端にあのこを投げ出したくないのよ。でも店がなくなればあのこを雇えないし、他の店に紹介するったって、あのこじゃ無理。潰されてしまうわ」


「それならチビはうちにくるといいよ。部屋なら余ってるから」


「チビ、俺んちにくるか?」


 あの日のやりとりを川上は必死に思いだそうとしていた。
 困っているママにチビを引き取ると言い出したのは川上のほうだ。それは間違いない。しかし、その後のことが曖昧だった。
 いつ、どうやって、チビを店の二階から連れ出したのか。店に入らなければ二階へは行けない間取りになっていることに改めて気づいた川上は、自分の記憶を疑い始めていた。


 考えられることはひとつだけだ。
 自分が勝手にチビを家に連れ込んだのだ。何らかの方法をとって。
 川上は身震いをしながら家路を急いだ。様子のおかしい川上をママは頻りに心配してはいたが、家に帰ると言い出した川上を引き留めることはしなかった。
 路地裏から広い通りに出ると、夜も遅いというのにネオンが輝き、沢山の人出で賑わっていた。


 眠らない街、新宿。


 朝から晩まで人が途切れることなく、街は動き続ける。
 昼間から学校へも行かず通りをうろつく若者たち。仕事をしている振りをして、映画館で眠りこけるサラリーマン。裏通りに立ち続ける女性。憧れと挫折と、夢と現実を孕んだ街。
 華やかなファッションビルの前を通り、意味もなく群れ集う人々の中をすり抜ける。どこからか聴こえてくる流行りの歌とさざめく波のような雑踏の音に押されながら、川上は緊張した面持ちで歩き続けた。


 一体、俺は何をしたんだろうか。
 そして、チビは?
 あれは何だ? あの姿は何なんだ?


 この数ヶ月、川上はとても幸せだった。
 しかし、その幸せは何を犠牲にして成り立っていたのかわからなかった。


 「…チビ」


 家にたどり着くと、川上は寝室のドアを乱暴に開けチビを確認した。
 こんもりと盛り上がった布団を見て、川上はホッと安堵したのもつかの間、良かったと思ってしまった自分を叱咤した。
 着ていたジャケットを脱ぎ捨て、布団をめくり上げてフカフカと暖かい繭玉に抱きついた。


 間違いなくこれは現実だ。川上は確信した。
 けれど、現実という奴は人間の数だけ存在するのだということもわかっていた。
 事実と真実は別物だ。そして現実も。
 世の中で起こっていることは事実だが、それを受け止める人間の心によって現実は姿を変えていくのだ。恋愛をすれば世の中薔薇色になるだろうが、失恋をすれば真っ暗闇に変わることもある。
 世界はただそこにあるだけだというのに。人の心によって、世界は姿を変え、色を変え、存在する意味を変えていく。


 繭玉の柔らかな感触が川上の手のひらに伝わってくる。
 耳に聴こえてくる微かな鼓動は、そこにチビがいることを証明していた。


 これが俺の現実。川上は思った。
 そして、ゆっくりと目を閉じた。
 もしこれが夢ならば、決して覚めてくれるなと、そんなことを思いながら。


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