星降るいつかの夜のこと 8


 それからしばらくの間、青はポワソンへ行くことはなかった。

 わざとではない。
 大至急でと仕事の依頼が入ったからだ。
 青はパソコンに向かい細かい文字を追いかけながら、心のどこかでホッとしていた。忙しいからお店に顔だし出来ないのだと言い訳が出来るからだ。
 あらかじめ用意されていた画像のレイアウトを済ますと、青は仕事の時しか掛けない眼鏡を外し目頭を指先で揉み込んだ。


 ひと息入れるかと傍らのマグカップを掴みキッチンへ向かう。
 午後の柔らかな日差しが窓辺から射し込み、白い壁に反射して辺りが明るくなっている。
 さほど広くない部屋の片隅にある観葉植物が目に入った。何となく元気がないように見えたので、コーヒーを入れる前にマグカップに水を注ぎ、鉢植えの根元にかけてやった。


「おい、元気出せよ」


 青は少しくたびれたように見える葉っぱに触ると、そう声をかけた。
 そして、ふと心配そうにしていた誠人の顔を思い出した。優しい性格の彼のことだ。余計な心配をしているかもしれない。今夜辺り、お店に行けなくても電話くらいしてもいいだろうと思った。
 会社勤めをしていた頃の自分ならこんなことは思わなかった。会社を離れればプライベートだから、他人を干渉することも、自分を干渉されることもわずわらしいとしか思えなかった。
 青はコーヒーメーカーで良い香りを漂わせているコーヒーをゆっくりマグカップに注いだ。この豆が良いですよと原に薦められたコーヒー豆だ。
 生産量が極端に少なく、大手商社が独占状態の豆で、かなり前から予約しなければ手に入らないと言われている逸品だ。薦められた時、すぐに予約を入れていたお陰で数日前に自宅に届いたのだ。
 すぐさま淹れて飲んだ時の感動は上手く表現出来ないほどだった。そのお礼も原に伝えたい。


 壁に掛かった時計をチラリと見やる。針はやっと3時を過ぎたところだ。開店には早いが、きっと誠人は店にいて準備をしているはずだ。
 青は胸ポケットに突っ込んでいる携帯を取り出すと、ポワソンの番号を呼び出した。
 数回、呼び出し音が鳴ると、軽やかな声が聞こえてきた。


「はい。お電話ありがとうございます。ポワソンルージュです」
「あ、誠人くん? お久しぶり、青です。今、大丈夫かな」
「ああ、青さん。お久しぶりです。しばらく見えないから心配してたんですよー」


 ああ良かった…と、青は思った。何が良かったのかはわからないけれど、いつもと変わりない誠人の落ち着いた声を聞いて、本当はお店に行きたかったのだと今更ながら気づいた。


「あのさ、あれから原さん、お店に来てる?」
「…あ、…あの、来てるには来てるんですけど……」


 誠人の声がいきなりトーンダウンして「ああ、どうしよう、黙っておこうと思ったんですけど…」と、焦ったように言葉を詰まらせ、次には意を決したように話し始めた。


「あの、原さん、帰るみたいなんです」
「帰るって?」
「田舎ですよ、田舎、長野です。原さん、長野に帰っちゃうみたいなんです」


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