NO RAIN NO RAINBOW 6


 そして、ふとわき上がってきた疑問をそのまま井上にぶつけた。

「井上さんはいつからこの店に?」

 駅と会社からほど近いこの店に足繁く通っている梅原は店員の顔を熟知していたし、店員の方も梅原を良く見知っていたのだ。

「2ヶ月前に別の店舗からこちらに移動になったんですよ。前の店舗でずっとアルバイトしてたんですけど、正式に社員採用されたんで」
「へえ、そうだったんだ。それはおめでとう」
「ありがとうございます」

 2ヶ月前。
 梅原が知らなくても仕方ないことだった。
 仕事ではT社の主力商品であるハイブリッド・エコカーが世界的なリコール問題に発展していた時期でもあったし、プライベートでは仕事の苛々もあって原田と喧嘩三昧の日々。
 お互いに距離を置こうと決めて別れたあの日。心の余裕も持てず、優雅にコーヒー・タイムを味わう時間すらなかった。

 やっと最近落ち着いてきて、コーヒーの味も香りも改めて味わうことが出来るようになったのだ。

「結構、この店には来てるからさ。君の顔、見たことなかったから」
「でも僕は梅原さんを知ってましたよ」

 井上はにこやかに笑いながら言い放った。

「社員研修でここに来た時に、梅原さんに会ってるんです」

 隠し続けた秘密をそっと打ち明けて、井上は照れ臭そうに言葉を続けた。
 半年以上も前、この店舗で初めて接客したのが梅原だったこと。まっすぐこちらの目を見て注文をして「お願いします」、コーヒーを受けとる際に「ありがとう」と笑顔で受け答えしてくれたのが嬉しかったこと。
 自分も接客の時にそうしようと思ったこと。この店舗に配属になって嬉しかったこと。先日、名刺を貰ってやっと名前がわかったこと。
 そして…

「お客様から学ぶなんて恥ずかしいと思ったんですけど、ずっとお礼が言いたくて。あの日はありがとうございました」

 井上はピョコリと頭を下げてみせた。
 ふわりと髪が揺れて、すっかり染み込んでしまったのであろうコーヒーの甘い香りがそこから立ち上って、梅原の鼻を掠めた。

「そうだったのか〜、気づかなかったな」
「お会いしたのは研修期間中の1回だけでした。それにお客様には馴れ馴れしくしないように言われてますし」

 確かに、馴れ馴れしくしないようにと言われるはずだ。傘を返しに来たあの日の女子高生の騒ぎ方でもわかる。
 ウサギ青年はとても魅力的なのだ。

「こちらこそありがとう。自分が普通にやっていることを誉められるのは嬉しいね」
「梅原さんは普通って仰いますけど、なかなか出来ないことですよ」
「あはは、そうなの? でも自分にとっては当たり前で普通のことだよ」
「僕は梅原さんみたいに、当たり前のことを当たり前に出来る人間になりたいんです」

 紅く高揚した顔つきで、井上は梅原を見つめると再び頭を下げて注文カウンターの内へ戻って行った。

 梅原は意外にしっかりした背中を見送りながら、新商品であるカフェモカをひと口、舌に乗せてゆっくりと味わった。

 うん、甘いな。
 でも、悪くはない。

 甘酸っぱいフルーツの香りが胸に広がっていく感じだ。
 苦くて甘い。甘くて酸っぱい。そしてまたコーヒーの苦さと香ばしさが蘇る。
 何かに良く似ている感覚だと梅原は思った。


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